番外編:銀の拍車の誕生 ——白銀のリアナ――
一、 ケントの霧と、腐臭の旅宿
イングランド、ケント州の痩せた丘陵地帯に這う十月の霧は、肺病を患った娼婦の吐息のように湿って冷たく、すべてを生気から引き剥がしていく。
アシュボーン家の領地にあるのは、泥まみれの羊小屋と、雨漏りのする石造りの館、そして数エーカーの痩せた麦畑だけだ。長兄は家を守るために領地に縛り付けられ、次兄は教会という逃げ道に潜り込んだ。家名の残滓と、父が残した借財だけを押し付けられた三男坊のトマス・アシュボーンにとって、この陰鬱な故郷は、首に巻き付いたロープと同じだった。
だが、そのロープを引きちぎる機会が、突然に転がり込んできた。
トマスは、ウィルを連れていない。従者など雇う金すらないのだ。彼は一人、痩せた駄馬の背に揺られ、海岸線近くの寂れた街道を進んでいた。
王室の密使が酒場でこぼしていた噂――「エセックスの海岸近く、フランスの密偵の一団が足止めを食らっている。あの異端の魔女、ジャンヌの側近である『聖女の騎士』の一人が、情報伝達のために潜入しているらしい」と。
密偵の首を持ち帰れば、賞金と、欲しくてたまらなかった「騎士の称号」が手に入る。身分の低い下級貴族の三男坊が、一躍英雄へと成り上がるための唯一にして最大のチャンス。
トマスは馬を進め、霧の向こうに見えてきた古い旅宿の前にたどり着いた。
建物は十字軍の時代のものか、黒く煤け、屋根は半分落ちている。庭先には、殺されたイングランドの徴集兵たちの死体が、泥水の中で冷たい赤黒い水たまりを作って転がっていた。
(……ここか)
トマスは腰のロングソードに手をかけた。革の柄が、冷や汗でにじんだ手のひらに滑る。
まだあどけなさを残した若い血の気が、恐怖をねじ伏せ、荒い呼吸を促していた。
二、 白銀の幻想、黒髪の艶
宿の木製の扉を蹴破ると、そこは惨たらしい死屍累々の空間だった。
しかし、その殺戮の修羅場のただ中で、異様なまでの静寂と、息を呑むような「美」がそこにあった。
炉の消えかけた暖炉の薄明かりの中、一人の「騎士」が佇んでいた。
頭部を覆うバシネット(兜)はすでに脱ぎ捨てられ、無造作に床に転がっている。そこに広がっていたのは、驚愕すべき光景だった。
フランス軍の象徴である、継ぎ目のない流線型のフルプレート・アーマー(板金甲冑)。それは曇りのない白銀色に磨き上げられ、周囲の血の赤を冷たく反射している。だが、その完璧な鋼の装甲を纏っていたのは、屈強な男ではなく、ほっそりとしたしなやかな体躯を持つ「女」だった。
彼女の肩まで届く漆黒の長髪が、湿った夜気と汗に濡れて、白銀の肩甲に艶やかに張り付いている。
整った顔立ちは、陶磁器のように滑らかで蒼白く、しかしその双眸は、底知れない知性と、人を狂わせるような妖艶な光を宿していた。
彼女の名前はリアナ。ジャンヌ・ダルクに近侍し、「神の御告げ」を戦術へと変換する、ジャンヌの影であり頭脳である「三聖女ナイト」の一人。
リアナは、血に濡れた細身のエストック(突き刺すための剣)を、足元の死体からゆっくりと引き抜いた。その優雅な所作は、殺戮を行っていたとは思えないほどに官能的だった。
「……こんな鄙びたネズミの巣穴に、命知らずの野良犬が紛れ込んできたものね」
リアナが口を開いた。その声は、ビロードを渡る風のように低く、甘く、トマスの胸の奥を直接撫でるような響きを持っていた。フランス語訛りの英語だったが、それがかえって彼女の異国情緒と危険な色気を際立たせていた。
「き、貴様……フランスの密偵だな! 動くな、降伏しろ!」
トマスは声を上ずらせながらも、ロングソードを構えた。若さゆえの虚勢が、かろうじて彼の足の震えを支えている。
リアナはふっと艶然と微笑んだ。その唇は濡れたように赤く、血の色と混ざり合ってぞっとするほど美しい。
「降伏、ねえ? 私を捕らえれば、あなたのような名もなき小僧でも、一躍英雄になれるとでも思ったのかしら?」
リアナは一歩、トマスへ歩み寄った。
その瞬間、トマスの鼻腔を、甘く危険な香気が打った。それは戦場の泥臭さと血の臭いを一瞬でかき消す、南方のスパイスと白檀の混じった、陶酔的なまでの女性の体臭だった。
三、 白銀の誘惑
「ち、近づくな! 首を刎ねるぞ!」
「刎ねられるものなら、やってみなさい小僧さん」
リアナはあざ笑うように、自らの白銀の胴甲冑の胸元を、血に汚れた手で軽く叩いた。
板金甲冑は彼女の豊満な胸の起伏に完璧に沿うよう精密に鍛造されており、その打撃のたびに、鋼の内部で揺れる柔らかな肉体の感触が、視覚的にも痛いほど伝わってきた。
「私はね、小僧さん。ジャンヌの影としてイングランド軍の陣容を探り、偽りの布告をばら撒くためにここへ来た。……だが、退屈しのぎも悪くない」
リアナはスルスルと間合いを詰めてくる。
トマスは圧倒され、一歩、また一歩と後ろへ下がった。背中が宿の冷たい柱にぶつかる。逃げ場はない。
リアナはトマスの目の前でピタリと足を止め、その美しい黒髪を片手で掻き上げながら、潤んだ瞳でトマスをじっと見据えた。
「あなたのその若い肌、そして燃えるような野心……悪くないわ。ねえ、トマス・アシュボーン?」
「……な、なぜ俺の名前を知っている!」
「あなたの国は、情報の管理がザルよ。それに、私には『獲物』の匂いを嗅ぎ分ける才能があってね」
リアナは一歩踏み込み、その滑らかで冷たい手甲を外し、素手でトマスの頬にそっと触れた。
ひんやりとした指先が、トマスの熱を帯びた皮膚を這う。そのあまりの艶めかしさに、トマスは息を呑み、心臓が破裂しそうになるほどの激しい動悸を覚えた。剣を持つ手が、自然と弛緩していく。
「殺さないでくれ、と目は言っているわよ?」
リアナの唇が、トマスの耳元に寄る。その熱い吐息が耳たぶをかすめ、背筋に電流が走った。
「私を殺す必要なんてないわ。私を逃がしなさい。その代わり……素晴らしいものをあげる」
「……なにを、言う気だ」
「私はね、イングランド軍を混乱させるための『偽りの機密文書』を持っているの。これを、あなたが手柄として王室に差し出しなさい。『私がフランスの密偵を追い詰め、単身で機密を奪還した』とね。ジャンヌの計画の全貌が記された偽の書面よ。それがあれば、あなたは一級の英雄よ」
それは悪魔の取引だった。
敵国への利敵行為であり、国家反逆の重罪。だが、トマスが求めていた「身分の跳躍」を、これ以上なく完璧に約束する甘い毒。
「なぜ……そんな真似をする。君はフランスの騎士じゃないのか」
「私は、ジャンヌの理想の道具であるとともに、私自身の欲望を生きているの。この退屈な戦争でね」
リアナはトマスの腰に回っていた腕をスライドさせ、彼の開いた手のひらに、一枚の羊皮紙の束を押し付けた。その際、彼女の柔らかな胸元がトマスの硬直した腕にふわりと押し付けられ、トマスは脳髄が痺れるような眩暈を覚えた。
「どうする? 小僧さん。私をここで突き殺して、泥まみれの貧乏貴族のままで一生を終える? それとも、私の身体の温もりと、世界を欺く栄光を手に入れる?」
リアナの瞳が、暗闇の中で妖しく濡れて光った。
彼女の香気がトマスの理性を完全に溶かしていく。剣を握る気力など、とうの昔に消え失せていた。トマスの脳裏にあったのは、目の前の白銀の装甲に包まれた艶美な肉体と、彼女に認められたいというどうしようもないまでの渇望だった。
「……逃げろ」
トマスは、掠れた声で吐き出した。
「お前の言う通りにする。……だが、忘れるな。いつか必ず、俺はお前を本当の意味で『捕らえ』に行く」
「ふふ……口だけは立派ね」
リアナは満足げに微笑むと、トマスの唇に、一瞬だけ自分の柔らかい唇を軽く押し当てた。
それは、戦場の血と泥の中に咲いた、毒の花のような口づけだった。
香気が名残を残し、次の瞬間、リアナは白銀の軽快な足音を響かせ、崩れた窓から霧の深い夜の闇へと、幻のように消えていった。
四、 幻想の残香と、銀の拍車
数日後。
ケント州の王室徴集事務所に、一人の若い貴族が姿を現した。
彼の衣服は埃にまみれていたが、その眼光には、以前の怯えではなく、底知れない狂気と、奇妙な色気を宿した自信が満ちていた。
トマス・アシュボーン。
彼が差し出したのは、フランス軍の極秘裏の侵攻計画が記された「偽りの羊皮紙」だった。リアナが残していった周到な罠。
王室の役人たちはその内容に震え上がり、トマスの武勇(という名の捏造された功績)を絶賛した。フランス軍の動きを事前に(偽りながらも)察知した若い騎士として、トマスの名は瞬く間にイングランド中で噂となった。
そして、ささやかな叙任式。
父が質屋から買い戻した錆びたロングソードが肩に触れ、彼の踵に、わずかな賞金から工面した古びた「銀の拍車」が打ち付けられた。
群衆の歓声の中、トマスは微動だにせず、自分の足元の銀の拍車を見つめていた。
それは、誇り高き騎士の証などではない。
あの霧の宿場で、敵の女スパイ――白銀のリアナに心棒まで骨抜きにされ、彼女の掌の上で踊らされたことの、恥ずかしくも甘美な「刻印」だった。
(ジャンヌ・ダルクの首など、どうでもいい……)
トマスは心の中で冷たく、しかし熱く呟いた。
(いつかフランスの戦場で、あの白銀の鎧を再び見つけ出す。そして今度こそ、あの艶やかな唇を塞ぎ、俺の膝に屈服させてやる……!)
偽りの栄光を纏い、身分の底辺から這い上がるための狂った野心と、消えない女の香気を胸に抱き、トマス・アシュボーンは、これから待ち受ける泥沼のフランス戦線へと向けて、その最初の一歩を踏み出したのだった。




