第9話:カラスと略奪者
カメラがゆっくりと、ただひたすらにゆっくりと、360度の円を描いて戦場を舐め回す。
空は、神の絶望を塗りたくったような均一な鉛色だった。フランドルの十月の冷たい雨が、細かい針のように降り注ぎ、見渡す限りの平原を巨大な泥の海へと変えている。
そこには、もはや戦術も、国家の威信も、英雄の叙事詩も存在しなかった。
あるのは、圧倒的な「物質」としての死の集積である。
見渡す限りの泥濘の中に、数千、あるいは数万の肉の塊が散乱している。昨日までイングランドの誇り高きロングボウ部隊であった者たち、フランスの狂信的な重騎兵であった者たち。彼らは今や、等しく泥にまみれただの有機物と化していた。
鮮やかな赤と青のサーコートは泥と血を吸って同じどす黒い茶色に染まり、家名を示す豪奢な紋章は、馬の蹄に踏みにじられて原型をとどめていない。
静寂。
数万の人間が殺し合った空間は、嘘のように静まり返っていた。聞こえるのは、冷たい雨が泥を打つ単調な音と、風のうねり、そして、屍肉の饗宴に集まってきた無数のカラスたちの、乾いた羽ばたきだけだ。
カラスたちは、泥に沈んだフランス貴族の兜の隙間に嘴を突っ込み、その眼球を引き摺り出そうと小刻みに首を振っている。そのすぐ横では、イングランドの農民出身の槍兵が、自分の腸を両手で抱え込んだまま、顔を泥に半分埋めて死んでいる。
貴族も平民も、勝者も敗者も、ここでは完全に平等だった。腐臭と冷気だけが、彼らを優しく抱きしめている。
この果てしない虚無のパノラマの中を、這うようにして進む二つの影があった。
ズブッ、ズブッ。
粘り気の強い泥が、革靴を吸い込んでは吐き出す不快な音が響く。
ウィルは、まるで自分の庭を散策するような手慣れた足取りで、死体の海を歩き回っていた。彼の目は、死者の顔や彼らが纏っていた悲劇には一切向けられていない。彼の視線は、泥に沈みかけた革袋の膨らみや、血に染まった指先に光る微かな金属の反射だけを、冷徹な猟犬のように探り当てていた。
「……チッ。この野郎、立派な胴当てを着込んでるくせに、懐には銅貨一枚入ってねえ。見掛け倒しの貧乏騎士が」
ウィルは、仰向けに倒れたフランスの重装歩兵の死体を足で小突いた。男の胸には深い刺し傷があり、その周りの泥はどす黒く変色している。
ウィルは死体の隣にしゃがみ込むと、躊躇なく男の口をこじ開けた。死後硬直が始まっている顎を、持っていたロンデル・ダガーの柄で乱暴に叩き割る。ゴキリ、という湿った骨の音が、雨音の中に生々しく響いた。
「おっ。こいつは良い」
男の口の中、血と泥にまみれた歯列の奥に、鈍く光る金歯が一つ埋まっていた。
ウィルはダガーの先端を歯茎の隙間にねじ込み、テコの原理で力任せにそれを抉り出した。ピュッと黒い血が飛び散るが、ウィルは意に介さず、泥だらけの指でその小さな金の塊をつまみ上げた。自らの衣服の綺麗な(といっても泥にまみれた)部分でサッと拭うと、満足げに自分の革袋に放り込む。チャリン、と小さな音が鳴った。
「若様。ぼーっと突っ立ってねえで、手伝ってくだせえよ。パテーの戦場は、まさに宝の山だ。フランスの馬鹿どもが、俺たちの味方を殺してくれたおかげで、味方の死体からも剥ぎ取り放題ですぜ」
ウィルは振り返り、数歩後ろを歩くトマスにニヤリと笑いかけた。
その顔には、狂気も悲壮感もない。ただ、底辺を生き抜くための、圧倒的に純粋な生命力だけが張り付いていた。
トマスは、泥の中に膝まで沈み込みながら、無言で立ち尽くしていた。
彼の右腕は、ウィルによって強引に関節をはめ直されたものの、分厚い布で首から吊るされ、使い物にならない。激しい痛みが、心臓の鼓動と連動して肩から指先へと脈打っている。
数ヶ月前、彼は「騎士」としての矜持と、名誉ある戦争という幻想を抱いてこの海を渡ってきた。しかし、今彼の目の前に広がっているのは、糞尿と血肉が混ざり合った巨大な屠殺場でしかない。
足元には、数日前まで同じ野営地でカビたパンをかじり合っていた顔見知りの兵士が、首の半分を切り裂かれて虚空を見つめている。彼の握りしめた手の中には、故郷に残してきたであろう妻か娘の編んだ粗末な麻のお守りが、泥にまみれて握られていた。
(これが、戦争か)
トマスは、胃の奥からこみ上げてくる吐き気を必死に飲み込んだ。
騎士道精神。名誉ある死。そんなものは、吟遊詩人の作り話だ。この泥沼では、いかに無様に生き延び、いかに他人の死肉をあさるかしか、生と死を分かつ術はない。ウィルのあの浅ましい略奪こそが、この世界における最も正しい真理なのだ。
しかし、そんな圧倒的な死の現実と屍臭のただ中にあっても、トマスの脳裏には、全く別の光景が焼き付いて離れなかった。
――白銀。
血と泥に塗れたこの灰色の世界で、唯一、彼の中で鮮烈な色彩を放つ記憶。
『見つけてみなさい。この戦場で』
ケント州の霧深い宿場。死体の山の中で、圧倒的な美しさと死の気配を纏って立っていた、フランスの女騎士。リアナ。
彼女の纏う、曇り一つない流線型の白銀の甲冑。汗に濡れた漆黒の髪。そして、トマスの唇に押し当てられた、甘く冷たい唇の感触。
こんなにも血と泥の臭いが充満しているのに、トマスの鼻腔には、彼女が放っていた南方のスパイスと白檀の陶酔的な香りが、幻臭としてこびりついていた。
(俺は、こんな泥の中で這いつくばるために来たんじゃない)
トマスは、吊るされた右腕の痛みに耐えながら、生き残った左手で自分の胸元を強く握りしめた。そこには、あの夜に彼女が残していった、白銀の小手の裏地の切れ端が、肌身離さず忍ばせてある。
ウィルには決して言えない。自分が「騎士」という称号を得たのは、武勲などではなく、あの女の掌の上で踊らされた結果に過ぎないということを。
この泥沼を這いずり回り、死体の山を越えてでも、必ずあの白銀を見つけ出す。それが、名誉も矜持も泥に捨てたトマスに残された、たった一つの、そして最も狂気じみた生存理由(執着)だった。
「……おい、若様。まさかまだ、騎士の矜持ってやつが邪魔をして、死体漁りができねえなんて甘いこと考えてるんじゃないでしょうね」
動かないトマスを見て、ウィルが呆れたようにため息をついた。
彼は血に染まったイングランド兵の軍衣を引き裂きながら、トマスを見上げる。
「見なせえ。この死体は、あんたと同じ立派な紋章をつけた貴族様だ。だが、泥に顔を突っ込んで死んじまえば、ただの豚の餌だ。あんたのその安いプライドじゃ、明日のパンも買えねえんですよ」
ウィルは、貴族の死体の指から、強引に銀の印章指輪を引き抜いた。指の肉が腐りかけて裂ける音がしたが、ウィルは顔色一つ変えない。
「……分かっている」
トマスは、ひび割れた唇を開き、低く掠れた声で答えた。
「分かっているさ、ウィル。俺はもう、騎士じゃない。ただの……お前と同じ、この泥沼の蛆虫だ」
トマスはゆっくりと歩き出した。
彼の足元に、かつてイングランド軍の栄光を誇示していた、獅子の紋章が描かれた軍旗が半分泥に埋もれていた。
トマスは、そのかつての己の幻想の象徴を、革靴で無造作に踏みしめた。泥が飛び散り、紋章の獅子の顔が完全に黒く潰れる。
「行くぞ。本隊の残党に追いつかなければ、野盗かフランスの追撃隊に狩られるだけだ」
トマスのその冷え切った横顔を見て、ウィルは少しだけ目を見張り、やがて満足げに、そして残酷に笑った。
「へえ、少しは顔つきがマシになりやしたね、マイ・ロード。……さあ、地獄の底まで、俺の背中についてきなせえ。この金歯が、俺たちの明日のワインに変わるまでな」
二人の若き略奪者は、数万の死体とカラスたちが支配する静寂の海を、再び歩き始めた。
灰色の空からは、無情な冷雨が降り続いている。血と泥にまみれた彼らの背中は、広大な戦場の風景の中に、やがて小さな黒い染みとなって溶けていった。
残されたのは、ただ風の音と、泥を啄むカラスの羽音だけだった。




