封印された少女
宮城静江という女
宮城静江との三回目の面接まで、あと五日。
その日、大塚悠太は東北地方のある街へ向かう列車に揺られていた。
隣の席には、七十六歳になる父親が座っている。
親子二人の旅だった。
大塚は、まさかこの年齢になって父親と一緒に事件の調査に出かけることになるとは、思ってもいなかった。だが、宮城静江の過去についてすべてを話したとき、父親の中で何かが目覚めてしまったらしい。
かつて警視庁捜査一課の刑事部係長まで務めた男である。
長年、事件の現場に立ち、嘘を見抜き、人間の醜い欲望と向き合ってきた。その刑事としての勘は、退職した今も、完全には失われていなかった。
「気になる事件を放っておくのは、性分に合わん」
父親は、そう言って譲らなかった。
大塚としては、いまさら親子旅行でもあるまいと思ったが、父親の目に宿った、久しく見ていなかった熱を感じると、それ以上は断れなかった。
何より、大塚自身も確かめたかったのである。
宮城静江が語った過去は、本当に事実なのか。
そして、事実であるならば、彼女はなぜ、あれほど多くの死を経験しながら、心の傷を感じさせないのか。
父親は、古い伝手をたどり、地元の警察OBに連絡を取っていた。当時の捜査に関わった刑事の所在を調べ、ようやく一人の元捜査官と面会の約束を取りつけたのだった。
まず二人が向かったのは、県立図書館だった。
事件が起きたのは、半世紀以上も前のことである。古びた新聞の紙面に、今もその痕跡が残っているのかどうか。
閲覧室は静まり返っていた。
窓から差し込む薄い光の中、二人は保存された地元新聞の縮刷資料を調べていった。紙面をめくるたび、遠い時代の町の暮らしが目に入る。選挙、祭り、商店の広告、季節の催し。そこには、事件とは無関係に流れていた人々の日常が、何事もなかったかのように並んでいた。
そして、ついにその記事が見つかった。
小さな扱いではあったが、見出しには、はっきりと記されていた。
「私立音楽大学教授が殺害される 犯人は高校生」
大塚は、紙面に顔を近づけた。
記事は簡潔だった。被害者の女性が殺害されたこと。犯人が未成年の少年であること。事件の詳しい背景については、ほとんど触れられていない。
しかし、そこに記された日付と事件の概要は、静江が語った内容と一致していた。
「……本当にあったんだな」
父親が、新聞を見つめたままつぶやいた。
その顔には、驚きと安堵が入り交じっていた。
「宮城静江の話は、少なくとも事件の事実関係については、本当だったんだね」
大塚が言うと、父親は小さくうなずいた。
「正直に言えば、どこかで疑っていた。昔の話だし、記憶違いもあるだろう。ひょっとしたら、話を大きくしている可能性だってあると思っていた」
「僕もです」
大塚は新聞から目を離せなかった。
静江の語った過去が、紙面の上に実在している。
それは、彼女の話を裏づける証拠であると同時に、悠太の胸に新たな疑問を植えつけるものでもあった。
事件は事実だった。
ならば、静江が語らなかったことは何なのか。
彼女は何を覚えていて、何を忘れたのか。
そして、何を知りながら、あの穏やかな顔で沈黙しているのだろう。
「事件の真相に迫れますかね」
大塚が尋ねると、父親は新聞を丁寧に元の場所へ戻した。
「五十年以上も前だ。関係者の多くは亡くなっているだろうし、生きていても、当時のことをどこまで覚えているか分からん。簡単ではないな」
そう言いながらも、父親の目は、すでに次の手がかりを探しているようだった。
図書館を出ると、二人は元捜査官との約束の場所へ向かった。
駅に戻り、路線バスを乗り継いで三十分ほど。市街地を離れるにつれ、車窓の風景は少しずつ変わっていった。
低い家並みが途切れ、広々とした田畑が現れる。
秋の気配を帯びた田園には、風が渡っていた。遠くに連なる山々は、薄い雲の下で青黒く沈んでいる。人影はほとんどなく、道路脇の電柱だけが、等間隔に続いていた。
バスを降りた二人は、田んぼに囲まれた小さな集落を歩いた。
元捜査官の家は、古い農家だった。
低い塀。使い込まれた木戸。年月を経て黒ずんだ梁が、玄関の奥に見える。庭先には手入れされた植木が並び、古い家特有の、湿った土と木の匂いが漂っていた。
出迎えた男は、八十五歳だった。
しかし、大塚は、その年齢を聞いていたにもかかわらず、一瞬、目を見張った。
背筋はまっすぐに伸び、肩幅も広い。顔には深い皺が刻まれていたが、眼差しには衰えを感じさせない鋭さがあった。長年、武道で鍛えた人間に特有の、無駄のない身のこなしだった。
「遠いところ、よう来なさったな」
男は、二人を座敷に通した。
湯呑みが置かれ、簡単な挨拶が済むと、父親が事件の話を切り出した。
元捜査官は、しばらく天井のあたりを見つめていた。
記憶の奥底に沈んだものを、ゆっくりと手繰り寄せているようだった。
「古い話やけど、覚えとるよ。印象的な事件やったからな」
「犯人は、当時まだ中学生だった少年ですね」
大塚が尋ねた。
「そうや。まだ子供やった」
「少年は、その後、どういう処分を受けたんでしょうか」
「保護観察処分やったと思う。少年事件やし、動機もはっきりせんかったからな」
大塚は、わずかに眉を寄せた。
「動機が、はっきりしなかった?」
「そういうことや」
元捜査官は、湯呑みを手に取った。
「少年は、昔、被害者の女性からピアノを習っとったらしい。けど、事件が起きたころには、もう習っておらんかった。ピアノ教室にも通っていなかった。せやから、なぜ急にあの女性を殺したのか、そこが問題になった」
「では、捜査では何が分かったんですか」
「家庭の問題やな」
男の声は、淡々としていた。
「少年の親父が酒癖の悪い男で、酒を飲んでは息子を殴っとったそうや。母親は早くに亡くなっていて、後妻にも冷たく扱われていたらしい。家に居場所がなかったんやろうな」
大塚は、少年の姿を想像した。
家に帰れば、酒臭い父親の怒声が待っている。母親はもういない。継母からも愛情を与えられない。誰にも頼れず、逃げ場もない。
そんな少年が、なぜピアノ教師を殺したのか。
家庭に問題があったことは、犯行の背景を説明する一つの要素にはなるだろう。だが、それだけで殺人という行為に至るまでの心の動きを説明できるとは思えなかった。
「つまり、家庭環境が原因だったということですか」
「当時の捜査では、そういう見方になった。今の言葉でいう虐待やな。精神的にも追い詰められとったんやろう」
「心神喪失と判断された、ということですか」
「まあ、そういうことやね」
大塚は、少し考えてから、さらに尋ねた。
「少年は、その後、自殺したと聞いています。それも、心の病が原因だったのでしょうか」
元捜査官は、ゆっくりとうなずいた。
「そういう結論やった。少年院を出て家に戻ったあと、庭の木で首を吊ったと聞いとる。事件を起こしたことへの後悔があったのか、家庭に戻ることが耐えられんかったのか。それとも、別の理由があったのか。そこまでは分からん」
座敷に、短い沈黙が落ちた。
少年は人を殺した。
そして、自らも命を絶った。
だが、その二つの死を結びつける確かな言葉は、今も見つかっていない。
大塚は、静江の話を思い出していた。
彼女は、その少年と幼なじみだったという。
互いに心を許し、他人には話せないことを打ち明け合うほど親しい関係だった。
それなのに、少年がなぜ殺人を犯したのか、静江は知らないと話していた。
本当に、知らなかったのだろうか。
悠太は、いよいよ核心に近づく質問を口にした。
「ところで、当時、宮城静江という少女は、捜査の対象にならなかったのでしょうか」
その名前を聞いた途端、元捜査官の表情が変わった。
男はすぐには答えなかった。
眉間に皺を寄せ、記憶の底を探るように、しばらく目を細めていた。
「……宮城静江?」
「はい。当時、犯人の少年と同じ年齢だった少女です。ピアノ教室の生徒で、被害者の女性とも面識があったはずです」
男は、しばらくして、ぽんと膝を打った。
「ああ、思い出した。県会議員の娘やった子やな。あとで女優になった」
「そうです。その静江です」
「そうか。あの子か……」
男の目に、かすかな懐かしさが浮かんだ。
だが、それはすぐに消えた。
「確か、ピアノ教室の生徒やったな」
「ええ」
大塚は、男の次の言葉を待った。
「では、静江にも事情聴取をしたんですか」
元捜査官は、首を横に振った。
「いや。わしは一度も聴取しとらん」
「一度も、ですか?」
「そうや」
大塚は、思わず父親と顔を見合わせた。
被害者と面識があり、犯人の少年とも親しかった少女である。事件の背景を知るうえで、重要な情報を持っていた可能性は十分にある。
なぜ、事情を聞かなかったのか。
「上からの指示もあったしな」
男は、何でもないことのように言った。
だが、その一言が、悠太の耳に引っかかった。
「指示、というのは?」
「その娘は、事件でひどいショックを受けとる、いう話やった。犯人とも親しかったらしいし、あまり刺激せんほうがええということや。それに、事件に関わっとるようにも見えんかった」
「それだけの理由で、事情聴取をしなかったんですか」
大塚の声に、わずかな緊張が混じった。
元捜査官は、大塚を見た。
「当時の判断としては、そういうことやったんやろうな。わしも、いちいち上の判断に逆らえる立場やなかった」
「その指示を出したのは、誰だったんでしょう」
「さあな。そこまでは、もう覚えとらん」
男は、それ以上、何も言わなかった。
単に記憶が薄れているだけなのか。
それとも、これ以上は話したくない何かがあるのか。
大塚には判断できなかった。
ただ、彼の胸の中で、ひとつの疑念がゆっくりと輪郭を持ち始めていた。
静江は、事件の関係者だった。
それは間違いない。
しかし、警察は彼女から話を聞いていなかった。
しかも、その理由は、上からの指示だったという。
なぜ、県会議員の娘というだけで、事件の重要な関係者になり得る少女を捜査から遠ざける必要があったのか。
彼女が深いショックを受けていたからか。
それとも、彼女を傷つけてはならない、別の事情があったのか。
悠太は、元捜査官に礼を述べ、父親とともに家を出た。
外には、薄い雲が広がっていた。
田んぼの向こうに、集落の屋根が点々と見える。風が吹くたび、稲穂が波のように揺れた。
二人は、バス停まで歩いた。
しばらく無言だった父親が、やがて口を開いた。
「収穫がなかったな」
「そうですね」
大塚は答えた。
確かに、決定的な証言は得られなかった。少年の犯行動機も、静江が事件にどう関わっていたのかも、分からないままだった。
だが、何も得られなかったわけではない。
静江の話は、事実だった。
少年の家庭には、深刻な問題があった。
そして、当時の警察は、静江から事情を聞いていなかった。
最後の事実が、大塚にはどうしても気になった。
「ただ……」
大塚は、父親を見た。
「元捜査官の話で、一つだけ気になったことがあります」
「何だ」
「静江が事件に関わっていそうにないから、聴取しなかった。そう言いましたよね」
「ああ」
「でも、それは捜査をしてみなければ分からないことじゃありませんか。最初から、関わっていないと判断できるものなんでしょうか」
父親は、すぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと歩みを止めた。
「おまえの言うことは、もっともだ」
父親は、田園の向こうに目を向けた。
「ただ、昔の事件は、今の感覚だけでは測れん。地元の有力者の家族が関係していれば、捜査の進め方に影響が出ることもあっただろう。だが、それが今回の件に当てはまるかどうかは、まだ分からん」
「ええ」
「一つ言えるのは、当時の警察が、その娘に話を聞かなかったという事実だけだ。なぜ聞かなかったのか。それを確かめる必要がある」
父親の声は、先ほどよりも低くなっていた。
かつて数え切れないほどの事件を追ってきた刑事の勘が、再び働き始めているのかもしれなかった。
そのとき、悠太の頭に、別の手がかりが浮かんだ。
元捜査官は、少年の家族について話していた。
父親は酒癖が悪く、少年を殴っていた。母親は早くに亡くなり、継母との関係も冷え切っていた。
そして、少年は事件のあと、自ら命を絶った。
少年の家族は、事件の真相を知るうえで重要な存在だったはずだ。
父親や継母は、すでに亡くなっているかもしれない。
だが、兄弟がいたという。
その兄弟のうち、まだ生きている者がいるらしい。
大塚は、元捜査官から聞いたその話に、最後の望みを託していた。
事件当時、少年が何を考えていたのか。
なぜ、ピアノ教師を殺さなければならなかったのか。
そして、静江は少年の心の中に、どこまで踏み込んでいたのか。
家族なら、何かを知っているかもしれない。
あるいは、少年が家族にさえ話せなかったことを、幼なじみの静江だけが知っていた可能性もある。
バスが、遠くから近づいてきた。
大塚は、揺れる田園の向こうを見つめた。
半世紀以上も前、この土地で、一人の女性が殺された。
犯人の少年は、短い保護観察の期間を経て家に戻り、その三日後に死んだ。
その一連の出来事のそばに、一人の少女がいた。
少女はその後、美しい女優になった。
そして今、老女となった彼女は、不眠と心の空虚を訴え、カウンセラーの前に座っている。
過去を語りながら、何かを隠しているのかもしれない。
だが、大塚が本当に恐れているのは、静江が嘘をついていることではなかった。
彼女が、すべてを正直に語っている可能性だった。
もし、彼女が話していないことがあるとすれば、それは事件の事実ではなく、事件を見つめていた彼女自身の心なのかもしれない。
人は、何を知れば人を殺すのか。
人は、何を失えば死を選ぶのか。
そして、人の死を目の前にしても、心を揺らさない人間がいるとすれば、その心には何が宿っているのか。
大塚は、静江の顔を思い浮かべた。
あの、年齢を感じさせない美しい顔。
あの、何もかも見透かしているような瞳。
彼女の心の奥に潜むものは、まだ見えない。
だが、確かなことが一つだけあった。
半世紀以上の時を経て、封じられていた事件が、再び動き始めている。
そして、その中心には、今もなお、宮城静江という女がいた。
事件の全貌を探る迷宮の森のなかへ




