Sのために
もっと深淵に・・・・
東北の町には、夕暮れが近づいていた。
宮城静江の過去を追ってやって来た大塚悠太と父親は、当時の捜査を担当した元捜査官から、事件の概要と、犯人とされた少年の弟の連絡先を聞き出していた。
二人は今、その弟が営む飲食店へ向かっていた。
店は町の中心部にあるらしい。電話で訪問を申し込んだところ、最初、相手はひどくためらった。
『もう、とっくの昔の話だべ。今さら思い出したって、どうにもならねえだろう』
その声には、過去を掘り返されることへの警戒がにじんでいた。
だが、悠太が宮城静江の名前を口にした途端、相手の態度が変わった。
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『……宮城静江?』
『はい。ご存じなんですか』
『その人が、兄貴の事件について何か話したのか』
問い返す声には、先ほどまでの面倒くさそうな響きがなかった。
代わりに、長い年月の底に沈んでいた何かが、急に息を吹き返したような緊張があった。
結局、男は会うことを承諾した。
静江の名前には、彼を動かす何かがある。
悠太は、そのことが気になっていた。
やがて二人は、古びた商店が並ぶ通りにたどり着いた。
目当ての店は、間口の狭い小さな飲食店だった。色あせた看板には店名が書かれ、引き戸の向こうから、出汁と醤油の混じった匂いが漂ってくる。店先には、昼の営業を終えたことを示す札が下がっていた。
階段を上がった二階が、店主の住居になっている。
大塚と父親が階段を上ると、すぐに男が出迎えた。
宮城静江が生きてきた時代と、ほぼ同じ時代を生きてきた男だった。
年齢は五十九歳。
五十年近く前の事件を知るには、まだ幼かったはずである。だが、兄を失った記憶というものは、年月だけで薄れるとは限らない。
男は二人を居間に通すと、座布団を勧めた。
身なりは質素だったが、目つきには頑固そうな鋭さがあった。人に簡単には心を許さない、そんな印象を受けた。
挨拶を済ませ、大塚が事件について尋ねようとしたときだった。
「先に言っておくけどな」
男は、いきなり口を開いた。
「俺は、兄貴が殺人の犯人だったなんて、今でも思ってねえ」
その顔には、隠しようのない怒りが浮かんでいた。
大塚も父親も、思わず相手を見つめた。
単に兄を慕っていた弟の言葉とは、何かが違う。男は、半世紀近く前に下された結論を、今も受け入れていないのだ。
「……お兄さんが犯人ではないと?」
大塚が慎重に尋ねると、男は強くうなずいた。
「兄貴は、本当に優しい人だった。俺にとっては、親父よりも親父らしい人だったんだ」
男の視線が、遠い過去を探すように宙をさまよった。
「親父は酒を飲むと暴れた。そりゃあ、ひどいこともあったさ。けど、警察が言ってたように、兄貴が虐待されて精神的に追い詰められていたなんて、俺には思えねえんだ」
「でも、お父さんがお酒を飲んで暴れることはあったんですね」
「ああ。そりゃあ否定しねえよ。だけどな、それと兄貴が人を殺したかどうかは別の話だべ」
男は、吐き捨てるように言った。
「兄貴は、そんなことをする人間じゃなかった」
大塚は、言葉を選びながら質問を続けた。
「お兄さんが被害者の女性を殺害したとされる事件ですが、犯行の動機については、当時もはっきりしていなかったそうです」
「だから、俺にも分からねえんだよ。そもそも、兄貴がどうして先生の家に行ったのか、それさえ分からねえ」
「ピアノの先生ですよね。お兄さんは、以前、その女性からピアノを習っていたと聞いています」
「習ってたっていっても、小学校の低学年のころまでだ。ずっと昔の話だよ。それからはピアノなんか触ってもいなかった」
男は首を振った。
「それなのに、何年もたってから先生を殺すなんて、どう考えてもおかしいべ」
大塚は、父親と目を合わせた。
当時の捜査では、家庭環境が犯行の背景にあったとされていた。酒癖の悪い父親、幼くして亡くなった母親、継母との不和。そうした事情が、少年の精神を追い詰めたのだという。
だが、それは、あくまでも捜査側が導き出した説明にすぎない。
少年が何を考え、何を憎み、何に耐えられなくなったのか。
その核心は、今も闇の中にあった。
「事件の前、お兄さんの様子に変わったところはありませんでしたか。誰かと揉めていたとか、何かに悩んでいたとか」
大塚が尋ねると、男は少し考えた。
「いや、特にねえな」
「犯行の直前も?」
「ああ。前の日なんか、兄貴は俺を祭りに連れていってくれたんだ」
「お祭りに?」
「そうだよ。俺はまだ子供だったからな。兄貴が連れていってくれて、同級生たちとも会ったんだ。みんなで騒いで、楽しかったよ」
男の表情が、ほんの一瞬だけ和らいだ。
その顔には、幼いころに自分を守ってくれた兄への愛情が残っていた。
「次の日に人を殺すような人間には、見えなかったってことですか」
「そんなもんじゃねえ。兄貴は、そんなことをする人じゃなかったんだ」
男は、同じ言葉を繰り返した。
それは証拠ではない。
だが、五十年近くたっても、その言葉を口にするときの男の目には、兄を信じたいという願いだけでは説明できないものがあった。
大塚は、次の質問に移った。
「お兄さんの同級生で、当時のことを覚えている方はいらっしゃいませんか」
「いるべ」
男は、即座に答えた。
「この町に、まだ何人もいる。俺の店にも常連で来てるやつがいるよ」
「その方たちに、お話を聞くことはできますか」
「聞いてみりゃいい。みんな、兄貴のことは覚えてるだろうからな」
悠太は、胸の中で小さな期待が膨らむのを感じた。
兄の弟だけでは分からないことも、同級生なら知っているかもしれない。事件の直前、少年が誰と会い、何を話し、どんな様子で過ごしていたのか。
そこに、捜査記録には残されていない手がかりがある可能性もあった。
しかし、悠太には、どうしても確認しておきたいことがあった。
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
「何だい」
「弟さんは、お兄さんが犯人ではないとおっしゃいました。それは、お兄さんが優しい人だったから、という理由だけですか」
男の顔から、わずかに表情が消えた。
彼は大塚を見つめ、それから父親の顔にも視線を移した。
「……確かなことが分かってるわけじゃねえんだ」
先ほどまでの勢いとは違う、慎重な声だった。
「ただな、あんたが電話で言ってた、宮城静江って人。あの人のことは知ってる」
大塚の胸が、かすかに跳ねた。
「女優として有名になった方ですからね」
「そういうことだけじゃねえんだよ」
男は、ゆっくりと首を振った。
「兄貴と一緒に学校から帰ってくることが、ときどきあったんだ。俺のことも、よく可愛がってくれた」
「静江さんが、お宅に来ることもあったんですか」
「あったさ」
男は、少し遠い目をした。
「玄関先で兄貴を待ってたり、家の中に上がってきたりな。俺にも優しくしてくれたよ」
悠太は、慎重に問いを重ねた。
「今になって考えると、お二人は交際していたのでしょうか」
「さあな。そこまでは分からねえ」
男は、困ったように笑った。
「何しろ、昔の話だ。今みたいに、好きならすぐ付き合うとか、そういう雰囲気でもなかったからな」
そこで、男は一度、言葉を切った。
「ただ……」
「ただ?」
「兄貴と宮城静江って女が二人でいると、楽しそうだった。それは覚えてる」
大塚は、息を潜めた。
静江の話では、少年は彼女にとって、心を許せる幼なじみだったという。彼女は、ピアノ教師に対して抱いていた不快感や恐怖を、少年に打ち明けていた。
そして、少年はその教師を憎んでいた。
だが、少年が彼女のために何かをしたのかどうかについて、静江は何も語らなかった。
「事件にまつわることで、何か覚えていることはありませんか」
大塚が尋ねると、男はしばらく黙っていた。
「事件のあと、兄貴が家に帰ってきたときのことなら覚えてる」
「どんな様子だったんですか」
「ひどく沈んでたよ」
男の声が低くなった。
「いつもなら、俺が学校から帰ってくると、兄貴のほうから声をかけてくれた。学校で何があったとか、友達と何をしたとか、いろいろ話を聞いてくれたんだ」
男は、両手を膝の上で組んだ。
「だけど、あの日からは違った。俺が話しかけても、ほとんど返事をしなかった。飯を食べても、黙ったまま。目も合わせようとしなかった」
「それは、事件の直後からですか」
「ああ。まるで、別人になっちまったみたいだった」
居間の空気が、わずかに重くなった。
「それと、宮城静江も、二度と家に来なくなった」
大塚は、顔を上げた。
「事件のあと、一度も?」
「一度もだ」
男は、きっぱりと言った。
「それまでは、兄貴と一緒に帰ってきたり、家に上がったりしてたのに、ぱったり来なくなった。兄貴も、あの女の名前を口にしなくなった」
大塚の頭の中で、何かが動いた。
事件の前、静江と少年は親しくしていた。
事件のあと、少年は沈黙し、静江は姿を消した。
それだけなら、殺人事件に巻き込まれた少女が、恐怖から少年と距離を置いたとも考えられる。
だが、静江は、少年がなぜ犯行に及んだのか知らないと語っていた。
本当に知らなかったのか。
それとも、知っていたからこそ、何も語らなかったのか。
大塚は、もう一つの疑問を口にした。
「お兄さんが亡くなったとき、遺書は残されていなかったんですよね」
「ちゃんとした遺書はなかったよ」
「ちゃんとした、というのは?」
男は、少し迷うような表情を浮かべた。
「手紙みたいなものはなかったんだ。ただ……」
「ただ?」
「紙切れに、何か書いてあったらしい」
大塚は、思わず身を乗り出した。
「何と書かれていたんですか」
男は、記憶をたどるように、ゆっくりと言った。
「兄貴が死んで、部屋を片づけていたときだ。母親が、机のあたりから見つけたらしい。俺も、その紙のことは母親から聞いたんだ」
「お母さんは、その紙を見たんですね」
「ああ。母親が言うには、走り書きだったそうだ。ほんの短い言葉でな」
男は、そこで一度、唇を湿らせた。
「**『Sのために』**って、書いてあったらしい」
大塚は、瞬きを忘れた。
「……Sのために?」
「ああ。俺も母親も、何のことだか分からなかった。警察にも話したかどうか、今となっちゃ、はっきり覚えてねえ」
「その紙は、今も残っているんでしょうか」
「いや、残ってねえと思う。少なくとも、俺は見たことがない。母親も、ただの走り書きだと思っていたんじゃねえかな」
大塚は、言葉を失っていた。
S。
たった一文字のアルファベット。
それが何を意味するのか、今の段階では分からない。
人の名前かもしれない。場所や物事を表す記号かもしれない。あるいは、少年にしか分からない、個人的な意味を持つ文字だったのかもしれない。
それでも、悠太の胸には、説明のつかないざわめきが広がっていた。
少年は死ぬ前に、誰かのために何かをしたと書き残した。
だが、その相手の名前は記されていなかった。
なぜ、名前を書かなかったのか。
なぜ、たった一言だけを残したのか。
そして、その言葉は、少年が殺人を犯した理由とつながっているのだろうか。
大塚には、まだ何も分からなかった。
男への聞き取りを終え、二人は礼を述べて家を出た。
階段を下りると、店の前には夕暮れの風が吹いていた。通りには人影が少なく、遠くから自動車の走る音が聞こえてくる。
悠太は、先ほどの言葉を頭の中で繰り返していた。
Sのために。
それが誰を指しているのか、今はまだ判断できない。
だが、事件の前に静江と少年が親しかったこと。そして、事件のあと、二人の関係が突然途絶えたこと。
その二つの事実を考え合わせると、無視することのできない疑問が浮かんでくる。
もしかすると、Sとは、静江のことなのだろうか。
大塚が考え込んでいると、隣を歩いていた父親が、突然、声を上げた。
「Sっていうのは、静江のことじゃないか!」
あまりに大きな声だったので、大塚は驚いて父親を振り返った。
「えっ?」
「宮城静江だよ。名前の頭文字だ。少年が書き残した『Sのために』っていうのは、あの女のことじゃないのか」
父親の目が、鋭く光っていた。
大塚は、立ち止まった。
その瞬間、頭の中に立ちこめていた霧が、ほんの少し晴れた気がした。
少年は、静江のために何かをした。
その何かが、ピアノ教師の殺害だったとしたら。
そして、少年はその行為のあと、何も語らず、三日後に命を絶ったのだとしたら。
静江は、本当に何も知らなかったのだろうか。
大塚の胸の奥で、疑念がゆっくりと膨らんでいった。
だが、同時に、別の考えも浮かんだ。
少年が静江のために何かをしたのだとしても、それが必ずしも殺人を意味するとは限らない。あるいは、静江とはまったく関係のない、別の事情があったのかもしれない。
今のところ、すべては推測にすぎない。
それでも、少年が残した短い言葉は、半世紀近い時を越えて、ようやく意味を問い始めていた。
Sのために。
その一言の向こうには、誰にも知られなかった少年の思いがある。
愛情だったのか。
憎しみだったのか。
それとも、誰かを救うために、自分自身を犠牲にしようとしたのか。
大塚は、静江の顔を思い浮かべた。
あの美しい顔。穏やかな微笑み。そして、感情を読み取らせない、深い瞳。
もし、あの瞳の奥に、少年の死につながる秘密が眠っているのだとしたら。
宮城静江は、半世紀以上もの間、何を守り続けてきたのだろう。
父親が歩き始めた。
大塚も、その後を追った。
ホテルへ戻る道すがら、二人はしばらく無言だった。
事件の真相に近づいたのかどうかは、まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの少年は、死ぬ前に、誰かの名前を頭文字だけで記した。
そして、その一文字は、今もなお、誰かの人生を暗闇の中につなぎ留めている。
その誰かが宮城静江だとしたら――。
大塚は、次の面接で彼女に何を尋ねるべきなのか、考えずにはいられなかった。
五十年以上も封印されていた秘密が、ようやく、かすかな音を立てて動き始めていた。
吐露する言葉に限りなく・・・




