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老女の覚醒  作者: egochann
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10/12

Sのために

もっと深淵に・・・・


 東北の町には、夕暮れが近づいていた。

 宮城静江の過去を追ってやって来た大塚悠太と父親は、当時の捜査を担当した元捜査官から、事件の概要と、犯人とされた少年の弟の連絡先を聞き出していた。

 二人は今、その弟が営む飲食店へ向かっていた。

 店は町の中心部にあるらしい。電話で訪問を申し込んだところ、最初、相手はひどくためらった。

『もう、とっくの昔の話だべ。今さら思い出したって、どうにもならねえだろう』

 その声には、過去を掘り返されることへの警戒がにじんでいた。

 だが、悠太が宮城静江の名前を口にした途端、相手の態度が変わった。

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

『……宮城静江?』

『はい。ご存じなんですか』

『その人が、兄貴の事件について何か話したのか』

 問い返す声には、先ほどまでの面倒くさそうな響きがなかった。

 代わりに、長い年月の底に沈んでいた何かが、急に息を吹き返したような緊張があった。

 結局、男は会うことを承諾した。

 静江の名前には、彼を動かす何かがある。

 悠太は、そのことが気になっていた。

 やがて二人は、古びた商店が並ぶ通りにたどり着いた。

 目当ての店は、間口の狭い小さな飲食店だった。色あせた看板には店名が書かれ、引き戸の向こうから、出汁と醤油の混じった匂いが漂ってくる。店先には、昼の営業を終えたことを示す札が下がっていた。

 階段を上がった二階が、店主の住居になっている。

 大塚と父親が階段を上ると、すぐに男が出迎えた。

 宮城静江が生きてきた時代と、ほぼ同じ時代を生きてきた男だった。

 年齢は五十九歳。

 五十年近く前の事件を知るには、まだ幼かったはずである。だが、兄を失った記憶というものは、年月だけで薄れるとは限らない。

 男は二人を居間に通すと、座布団を勧めた。

 身なりは質素だったが、目つきには頑固そうな鋭さがあった。人に簡単には心を許さない、そんな印象を受けた。

 挨拶を済ませ、大塚が事件について尋ねようとしたときだった。

「先に言っておくけどな」

 男は、いきなり口を開いた。

「俺は、兄貴が殺人の犯人だったなんて、今でも思ってねえ」

 その顔には、隠しようのない怒りが浮かんでいた。

 大塚も父親も、思わず相手を見つめた。

 単に兄を慕っていた弟の言葉とは、何かが違う。男は、半世紀近く前に下された結論を、今も受け入れていないのだ。

「……お兄さんが犯人ではないと?」

 大塚が慎重に尋ねると、男は強くうなずいた。

「兄貴は、本当に優しい人だった。俺にとっては、親父よりも親父らしい人だったんだ」

 男の視線が、遠い過去を探すように宙をさまよった。

「親父は酒を飲むと暴れた。そりゃあ、ひどいこともあったさ。けど、警察が言ってたように、兄貴が虐待されて精神的に追い詰められていたなんて、俺には思えねえんだ」

「でも、お父さんがお酒を飲んで暴れることはあったんですね」

「ああ。そりゃあ否定しねえよ。だけどな、それと兄貴が人を殺したかどうかは別の話だべ」

 男は、吐き捨てるように言った。

「兄貴は、そんなことをする人間じゃなかった」

 大塚は、言葉を選びながら質問を続けた。

「お兄さんが被害者の女性を殺害したとされる事件ですが、犯行の動機については、当時もはっきりしていなかったそうです」

「だから、俺にも分からねえんだよ。そもそも、兄貴がどうして先生の家に行ったのか、それさえ分からねえ」

「ピアノの先生ですよね。お兄さんは、以前、その女性からピアノを習っていたと聞いています」

「習ってたっていっても、小学校の低学年のころまでだ。ずっと昔の話だよ。それからはピアノなんか触ってもいなかった」

 男は首を振った。

「それなのに、何年もたってから先生を殺すなんて、どう考えてもおかしいべ」

 大塚は、父親と目を合わせた。

 当時の捜査では、家庭環境が犯行の背景にあったとされていた。酒癖の悪い父親、幼くして亡くなった母親、継母との不和。そうした事情が、少年の精神を追い詰めたのだという。

 だが、それは、あくまでも捜査側が導き出した説明にすぎない。

 少年が何を考え、何を憎み、何に耐えられなくなったのか。

 その核心は、今も闇の中にあった。

「事件の前、お兄さんの様子に変わったところはありませんでしたか。誰かと揉めていたとか、何かに悩んでいたとか」

 大塚が尋ねると、男は少し考えた。

「いや、特にねえな」

「犯行の直前も?」

「ああ。前の日なんか、兄貴は俺を祭りに連れていってくれたんだ」

「お祭りに?」

「そうだよ。俺はまだ子供だったからな。兄貴が連れていってくれて、同級生たちとも会ったんだ。みんなで騒いで、楽しかったよ」

 男の表情が、ほんの一瞬だけ和らいだ。

 その顔には、幼いころに自分を守ってくれた兄への愛情が残っていた。

「次の日に人を殺すような人間には、見えなかったってことですか」

「そんなもんじゃねえ。兄貴は、そんなことをする人じゃなかったんだ」

 男は、同じ言葉を繰り返した。

 それは証拠ではない。

 だが、五十年近くたっても、その言葉を口にするときの男の目には、兄を信じたいという願いだけでは説明できないものがあった。

 大塚は、次の質問に移った。

「お兄さんの同級生で、当時のことを覚えている方はいらっしゃいませんか」

「いるべ」

 男は、即座に答えた。

「この町に、まだ何人もいる。俺の店にも常連で来てるやつがいるよ」

「その方たちに、お話を聞くことはできますか」

「聞いてみりゃいい。みんな、兄貴のことは覚えてるだろうからな」

 悠太は、胸の中で小さな期待が膨らむのを感じた。

 兄の弟だけでは分からないことも、同級生なら知っているかもしれない。事件の直前、少年が誰と会い、何を話し、どんな様子で過ごしていたのか。

 そこに、捜査記録には残されていない手がかりがある可能性もあった。

 しかし、悠太には、どうしても確認しておきたいことがあった。

「一つ、聞いてもいいでしょうか」

「何だい」

「弟さんは、お兄さんが犯人ではないとおっしゃいました。それは、お兄さんが優しい人だったから、という理由だけですか」

 男の顔から、わずかに表情が消えた。

 彼は大塚を見つめ、それから父親の顔にも視線を移した。

「……確かなことが分かってるわけじゃねえんだ」

 先ほどまでの勢いとは違う、慎重な声だった。

「ただな、あんたが電話で言ってた、宮城静江って人。あの人のことは知ってる」

 大塚の胸が、かすかに跳ねた。

「女優として有名になった方ですからね」

「そういうことだけじゃねえんだよ」

 男は、ゆっくりと首を振った。

「兄貴と一緒に学校から帰ってくることが、ときどきあったんだ。俺のことも、よく可愛がってくれた」

「静江さんが、お宅に来ることもあったんですか」

「あったさ」

 男は、少し遠い目をした。

「玄関先で兄貴を待ってたり、家の中に上がってきたりな。俺にも優しくしてくれたよ」

 悠太は、慎重に問いを重ねた。

「今になって考えると、お二人は交際していたのでしょうか」

「さあな。そこまでは分からねえ」

 男は、困ったように笑った。

「何しろ、昔の話だ。今みたいに、好きならすぐ付き合うとか、そういう雰囲気でもなかったからな」

 そこで、男は一度、言葉を切った。

「ただ……」

「ただ?」

「兄貴と宮城静江って女が二人でいると、楽しそうだった。それは覚えてる」

 大塚は、息を潜めた。

 静江の話では、少年は彼女にとって、心を許せる幼なじみだったという。彼女は、ピアノ教師に対して抱いていた不快感や恐怖を、少年に打ち明けていた。

 そして、少年はその教師を憎んでいた。

 だが、少年が彼女のために何かをしたのかどうかについて、静江は何も語らなかった。

「事件にまつわることで、何か覚えていることはありませんか」

 大塚が尋ねると、男はしばらく黙っていた。

「事件のあと、兄貴が家に帰ってきたときのことなら覚えてる」

「どんな様子だったんですか」

「ひどく沈んでたよ」

 男の声が低くなった。

「いつもなら、俺が学校から帰ってくると、兄貴のほうから声をかけてくれた。学校で何があったとか、友達と何をしたとか、いろいろ話を聞いてくれたんだ」

 男は、両手を膝の上で組んだ。

「だけど、あの日からは違った。俺が話しかけても、ほとんど返事をしなかった。飯を食べても、黙ったまま。目も合わせようとしなかった」

「それは、事件の直後からですか」

「ああ。まるで、別人になっちまったみたいだった」

 居間の空気が、わずかに重くなった。

「それと、宮城静江も、二度と家に来なくなった」

 大塚は、顔を上げた。

「事件のあと、一度も?」

「一度もだ」

 男は、きっぱりと言った。

「それまでは、兄貴と一緒に帰ってきたり、家に上がったりしてたのに、ぱったり来なくなった。兄貴も、あの女の名前を口にしなくなった」

 大塚の頭の中で、何かが動いた。

 事件の前、静江と少年は親しくしていた。

 事件のあと、少年は沈黙し、静江は姿を消した。

 それだけなら、殺人事件に巻き込まれた少女が、恐怖から少年と距離を置いたとも考えられる。

 だが、静江は、少年がなぜ犯行に及んだのか知らないと語っていた。

 本当に知らなかったのか。

 それとも、知っていたからこそ、何も語らなかったのか。

 大塚は、もう一つの疑問を口にした。

「お兄さんが亡くなったとき、遺書は残されていなかったんですよね」

「ちゃんとした遺書はなかったよ」

「ちゃんとした、というのは?」

 男は、少し迷うような表情を浮かべた。

「手紙みたいなものはなかったんだ。ただ……」

「ただ?」

「紙切れに、何か書いてあったらしい」

 大塚は、思わず身を乗り出した。

「何と書かれていたんですか」

 男は、記憶をたどるように、ゆっくりと言った。

「兄貴が死んで、部屋を片づけていたときだ。母親が、机のあたりから見つけたらしい。俺も、その紙のことは母親から聞いたんだ」

「お母さんは、その紙を見たんですね」

「ああ。母親が言うには、走り書きだったそうだ。ほんの短い言葉でな」

 男は、そこで一度、唇を湿らせた。

「**『Sのために』**って、書いてあったらしい」

 大塚は、瞬きを忘れた。

「……Sのために?」

「ああ。俺も母親も、何のことだか分からなかった。警察にも話したかどうか、今となっちゃ、はっきり覚えてねえ」

「その紙は、今も残っているんでしょうか」

「いや、残ってねえと思う。少なくとも、俺は見たことがない。母親も、ただの走り書きだと思っていたんじゃねえかな」

 大塚は、言葉を失っていた。

 S。

 たった一文字のアルファベット。

 それが何を意味するのか、今の段階では分からない。

 人の名前かもしれない。場所や物事を表す記号かもしれない。あるいは、少年にしか分からない、個人的な意味を持つ文字だったのかもしれない。

 それでも、悠太の胸には、説明のつかないざわめきが広がっていた。

 少年は死ぬ前に、誰かのために何かをしたと書き残した。

 だが、その相手の名前は記されていなかった。

 なぜ、名前を書かなかったのか。

 なぜ、たった一言だけを残したのか。

 そして、その言葉は、少年が殺人を犯した理由とつながっているのだろうか。

 大塚には、まだ何も分からなかった。

 男への聞き取りを終え、二人は礼を述べて家を出た。

 階段を下りると、店の前には夕暮れの風が吹いていた。通りには人影が少なく、遠くから自動車の走る音が聞こえてくる。

 悠太は、先ほどの言葉を頭の中で繰り返していた。

 Sのために。

 それが誰を指しているのか、今はまだ判断できない。

 だが、事件の前に静江と少年が親しかったこと。そして、事件のあと、二人の関係が突然途絶えたこと。

 その二つの事実を考え合わせると、無視することのできない疑問が浮かんでくる。

 もしかすると、Sとは、静江のことなのだろうか。

 大塚が考え込んでいると、隣を歩いていた父親が、突然、声を上げた。

「Sっていうのは、静江のことじゃないか!」

 あまりに大きな声だったので、大塚は驚いて父親を振り返った。

「えっ?」

「宮城静江だよ。名前の頭文字だ。少年が書き残した『Sのために』っていうのは、あの女のことじゃないのか」

 父親の目が、鋭く光っていた。

 大塚は、立ち止まった。

 その瞬間、頭の中に立ちこめていた霧が、ほんの少し晴れた気がした。

 少年は、静江のために何かをした。

 その何かが、ピアノ教師の殺害だったとしたら。

 そして、少年はその行為のあと、何も語らず、三日後に命を絶ったのだとしたら。

 静江は、本当に何も知らなかったのだろうか。

 大塚の胸の奥で、疑念がゆっくりと膨らんでいった。

 だが、同時に、別の考えも浮かんだ。

 少年が静江のために何かをしたのだとしても、それが必ずしも殺人を意味するとは限らない。あるいは、静江とはまったく関係のない、別の事情があったのかもしれない。

 今のところ、すべては推測にすぎない。

 それでも、少年が残した短い言葉は、半世紀近い時を越えて、ようやく意味を問い始めていた。

 Sのために。

 その一言の向こうには、誰にも知られなかった少年の思いがある。

 愛情だったのか。

 憎しみだったのか。

 それとも、誰かを救うために、自分自身を犠牲にしようとしたのか。

 大塚は、静江の顔を思い浮かべた。

 あの美しい顔。穏やかな微笑み。そして、感情を読み取らせない、深い瞳。

 もし、あの瞳の奥に、少年の死につながる秘密が眠っているのだとしたら。

 宮城静江は、半世紀以上もの間、何を守り続けてきたのだろう。

 父親が歩き始めた。

 大塚も、その後を追った。

 ホテルへ戻る道すがら、二人はしばらく無言だった。

 事件の真相に近づいたのかどうかは、まだ分からない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 あの少年は、死ぬ前に、誰かの名前を頭文字だけで記した。

 そして、その一文字は、今もなお、誰かの人生を暗闇の中につなぎ留めている。

 その誰かが宮城静江だとしたら――。

 大塚は、次の面接で彼女に何を尋ねるべきなのか、考えずにはいられなかった。

 五十年以上も封印されていた秘密が、ようやく、かすかな音を立てて動き始めていた。





吐露する言葉に限りなく・・・

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