Sの影を追って
犯人の少年も深淵の森にさ迷いこんだ結果だったのか
「Sというのは、宮城静江のことじゃないか」
父の言葉が、古びた酒造店の二階で聞いた男の声とともに、大塚の頭の中で何度も反響していた。
犯人とされた少年が残した、たった一枚の紙切れ。
そこに書かれていたのは、わずか六文字だった。
――Sのために。
それが何を意味するのか。誰に向けた言葉なのか。そして、なぜ少年はその言葉を残して死ななければならなかったのか。
大塚には、まだ何ひとつ確かなことはわからなかった。
ただ、五十年近い歳月の向こう側に、宮城静江という女の影が、異様なほど濃く浮かび上がってきたことだけは確かだった。
「恐らく、彼が実際に犯行に及んだことは間違いないんだろう」
父は、落ち着いた声で言った。
「物証もあった。自供もしている。少なくとも、警察はそう判断したわけだ。だがな、悠太。事件の真相を知りたければ、犯人が誰だったかという問いだけで満足してはいけない」
「どういうこと?」
「なぜ、その少年が殺さなければならなかったのか。誰のために、何のために、あの女を殺したのか。そこを突き詰めなければ、本当の意味で事件を解いたことにはならん」
父はそう言って、窓の外に目を向けた。
七十六歳という年齢を感じさせない、背筋の伸びた姿だった。退職してから長い年月が過ぎているというのに、事件の匂いを嗅ぎつけると、父の中では何かが目覚めるらしい。
普段は子供たちに剣道を教え、近所の老人たちと他愛のない話をしている、ごく普通の年寄りである。しかし、ひとたび捜査の話になると、その目つきが変わる。人の言葉の裏側に潜むものを探り、わずかな違和感も見逃さない。
大塚は、あらためて父の力量を思い知らされていた。
自分は、少年の弟が口にした「兄は犯人じゃない」という言葉にばかり気を取られていた。兄を信じたい弟の心情に引きずられ、肝心の紙切れについては、深く考えていなかったのである。
だが、父は違った。
犯人が残した言葉から、その人物の心の奥へと踏み込もうとしていた。
「もう少し、静江とあの少年の関係を調べたいな」
父は言い終わると、すぐに携帯電話を取り出した。
前日に話を聞いた元捜査官へ連絡を入れ、少年の同級生について尋ねた。事件当時、少年と親しくしていた者はいなかったか。少年の普段の様子を知る人間は、今も地元に残っていないだろうか。
電話の向こうで、何やら資料を確認するようなやり取りが続いた。
やがて父は通話を終えた。
「県警の資料室に、当時の捜査資料が残っているそうだ。閲覧の手配もしてくれるらしい」
「そんなことまで頼めるんだ」
「昔の知り合いというのは、こういうときに役に立つんだよ」
父は、いかにも当然という顔で言った。
大塚は苦笑した。
自分ひとりなら、事件のあった町に来て、犯人の弟に話を聞くだけで終わっていたかもしれない。半世紀近くも前の事件を、今になって調べ直すこと自体、容易なことではない。まして、警察の内部資料にたどり着くなど、心理カウンセラーである自分には思いも及ばなかった。
父の背中を見ながら、大塚は心の底から感謝していた。
そして同時に、少しばかり不安にもなった。
自分は、いったい何を調べようとしているのだろう。
宮城静江は、今も生きている。
美しい洋館に暮らし、老女となった現在も、見る者を圧倒するような美貌と、容易には読み解けない眼差しを持つ女だ。
その彼女が、五十年近く前の殺人事件と、どのような関係にあったのか。
もし、父の推理が正しければ――。
大塚は、そこまで考えて、首を振った。
まだ何もわかっていない。憶測だけで結論を出すわけにはいかなかった。
しかし、静江の顔を思い浮かべると、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
あの女は、自分が過去に関わった二つの死について、驚くほど淡々と語った。
悲しみも、後悔も、恐怖も、そこにはほとんど感じられなかった。
人間が長い年月をかけて感情を封じ込めた結果なのか。それとも、そもそも彼女の中には、他人の死を悼む心が存在しないのか。
大塚には判断できなかった。
ただ、あの女の瞳を見ていると、こちらが知らない何かを、彼女だけが知っているような気がしてならなかった。
*
県警本部の資料室へ向かうには、町の中心部から電車で一時間以上かかった。
ターミナル駅で電車を降り、二人はタクシーに乗り換えた。十分ほど走ると、県警本部の建物が見えてきた。
受付で手続きを済ませ、案内された資料室は、庁舎の奥まった場所にあった。
古い紙の匂いが漂っていた。
壁際には金属製の書架が並び、背表紙に事件番号や年月日を記されたファイルが整然と収められている。窓は小さく、午後の光も室内の隅々までは届かない。長い年月を経た事件が、外の世界とは切り離されたまま、ここに眠っているようだった。
大塚は、思わず声を潜めた。
「こんなところに、五十年前の事件の資料が残っているんですね」
「残っているものもある。だが、記録があるからといって、すべてがわかるわけじゃない」
父はそう答え、職員から渡された資料を受け取った。
それは、ピアノ教師殺人事件の捜査記録だった。
表紙は色褪せ、角が擦り切れている。紙の端には、長い年月を物語る黄ばみが浮かんでいた。
大塚は、その表紙を見つめた。
このファイルの中には、かつて人々を震撼させた殺人事件の記録が詰まっている。捜査員たちの足跡、証言、物証、そして、ひとりの少年が犯人として裁かれていくまでの経緯。
だが、そこに記されているのは、あくまでも警察が把握した事実にすぎない。
記録からこぼれ落ちたものがあるとすれば、それはどこへ行ったのだろう。
誰かの胸の内に、秘密として封じ込められたまま、今も生き続けているのだろうか。
父がページをめくった。
「ここだな」
捜査資料の中に、少年の同級生三人から聴取した供述調書が残されていた。
大塚は、父の隣に腰を下ろし、慎重に文字を追った。
三人とも、少年の学校での様子について語っていた。成績や友人関係、事件前後の言動。特別に目立つ問題行動はなかったという証言もあれば、最近は口数が減っていたという話もあった。
しかし、いずれも決定的な情報には欠けていた。
少年が殺人を計画していたことを示す証言も、ピアノ教師との間に何らかの直接的なトラブルがあったことを裏づける話も見当たらない。
ただ一人、少年と特に親しかった同級生については、ほかの二人よりも詳しい記録が残されていた。
その男の住所を、大塚は手帳に書き写した。
「本間健二……」
住所は、静江が通っていた中学校の近くだった。
「この人、今も住んでいるでしょうか」
「わからん。だが、家が商売をしているらしい。商売を続けていれば、可能性はある」
父は資料を閉じた。
当時の記録によれば、本間家は代々酒造業を営む家だった。地元では知られた酒造家で、少年の同級生も家業を手伝っていたという。
時計を見ると、午後三時を少し回ったところだった。
今から向かえば、夕方には話を聞けるかもしれない。
大塚は、翌日には東京へ戻らなければならなかった。もし今日中に本間健二と会えなければ、父に後を託すことになる。
それも仕方のないことだとは思ったが、七十六歳の父を一人、見知らぬ町に残して帰るのは気が引けた。
「とにかく、急ぎましょう」
大塚が立ち上がると、父もすぐに資料を返却する手続きを始めた。
二人は県警本部を飛び出し、通りでタクシーを拾った。
*
タクシーは、町の中心部を抜けて住宅地へと向かった。
窓の外には、古びた商店や小さな工場、昔ながらの住宅が続いていた。ところどころに新しい建物もあったが、町全体には、時間の流れが東京とは違うような静けさが漂っている。
やがて、静江が通っていた中学校の前を通り過ぎた。
大塚は、思わず窓の外へ目を向けた。
事前に調べたところでは、市内でも大きな規模の学校で、今も五百人ほどの生徒が通っているという。
広い校庭では、体操服姿の生徒たちが部活動に励んでいた。サッカーのボールを追いかける少年たち。陸上の練習でトラックを走る少女たち。誰かの掛け声に、明るい笑い声が重なっていた。
どこにでもある、学校の放課後の風景だった。
けれど、大塚には、その平凡な光景が妙に眩しく感じられた。
かつて、ここに宮城静江もいたのだ。
まだ何もかもが可能性に満ちているように思えた年頃。美しい少女として周囲の視線を集め、やがて女優として世間に知られることになる、その前の静江。
そして、彼女と親しくしていた一人の少年も、この町のどこかで同じように日々を送っていた。
少年は、何を考えていたのだろう。
何を信じ、何を恐れ、何を守ろうとしていたのだろう。
その人生は、ピアノ教師の殺害によって決定的に変わった。そして事件からわずか三日後、少年は実家の庭にあった木で首を吊り、短い生涯を終えた。
その死の直前、彼は紙切れに「Sのために」と書き残したという。
S。
静江のイニシャル。
偶然なのだろうか。
それとも、少年は本当に、静江のために殺人を犯したのだろうか。
大塚は、窓に映った自分の顔を見つめた。
静江は、今もこの町に住んでいたころの記憶を持っているはずだ。
自分が過去を調べていることなど、彼女は夢にも思っていないだろう。もし知ったら、どうするだろうか。
あの鋭い瞳を細め、何もかも見透かしたような微笑を浮かべるのか。それとも、普段の静かな態度をかなぐり捨て、こちらを威嚇するような表情を見せるのか。
いや、もしかしたら――。
静江は、すでにすべてを知っているのかもしれない。
大塚は、その考えを打ち消そうとした。
根拠のない想像だ。だが、彼女について考え始めると、疑念はいつも奇妙な方向へと広がっていく。
まるで、暗い水の底に沈んだ何かを探そうとして、気づかないうちに自分まで深みへ引き込まれていくようだった。
「どうした、悠太」
隣に座る父が尋ねた。
「いや……。静江は、自分の過去をどこまで話しているんだろうと思って」
「人間はな、話したことより、話さなかったことのほうに本音が隠れている場合がある」
父は、窓の外を眺めながら言った。
「特に、長い間、秘密を抱えて生きてきた人間はな」
大塚は返事をしなかった。
静江の秘密。
それを知りたいと思う一方で、知ってしまうことへの恐れもあった。
もし、彼女が少年を殺人へと向かわせたのだとしたら。
もし、彼女が少年の死に何らかの形で関わっていたのだとしたら。
それは、彼女がこれまで語ってきた人生を、根底から覆すことになる。
そして何より、大塚はカウンセラーとして、静江という人間の内面を理解しようとしていた。彼女の苦しみを見つけ、心の空洞を埋める手助けをしたいと思っていた。
だが、彼女の中にあるものが、単なる心の傷ではなかったとしたら。
そのとき、自分は彼女にどう向き合えばいいのだろう。
タクシーは、やがて古い商家が立ち並ぶ通りへ入った。
「この辺りだな」
父が、手帳に記した住所を確認した。
ほどなくして、目的の建物が見えてきた。
大きく、古びた木造建築だった。
黒ずんだ太い梁が軒先に張り出し、風雨にさらされた板壁には、長い年月が染み込んでいる。建物の背後には、酒蔵と思われる重厚な建物が並んでいた。白壁はところどころに黒い染みを浮かべ、屋根の一部には苔が生えている。
古い酒の匂いが、どこからともなく漂ってきた。
店先には、ガラスの引き戸があり、その上に掲げられた看板には、墨文字で「本間酒造店」と記されていた。
何十年も前から、そこに掛かっているような看板だった。
大塚は、しばらくその文字を眺めていた。
この家に、少年の過去を知る人間がいる。
事件の直前、彼がどんな顔をしていたのか。誰と会い、誰に何を語ったのか。警察の調書には残らなかった何かを、この男は覚えているかもしれない。
大塚は引き戸に手をかけた。
カラカラ、と乾いた音を立てて戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
店の奥にいた女性が、こちらを振り返った。
六十代半ばほどだろうか。きちんとまとめた髪に、落ち着いた色の割烹着。酒造店の女将らしい、穏やかな雰囲気をまとっていた。
しかし、大塚たちを見ると、その顔にわずかな警戒の色が浮かんだ。
「こちらに、本間健二さんはいらっしゃいますか」
大塚が尋ねた。
「本間健二……。主人ですが」
女性は二人を見比べた。
「はあ、どちらさまでしょうか」
「東京から来ました、大塚と申します。こちらは父です。五十年近く前に起きた殺人事件について、調べている者です」
その瞬間だった。
女将の表情が、ほんのわずかに変化した。
笑顔が消えたわけではない。声を荒らげたわけでもない。ただ、目の奥にあった柔らかさが、すっと引いていった。
大塚は、その変化を見逃さなかった。
事件について、何か知っているのだろうか。
それとも、半世紀近く前の出来事を、今さら蒸し返されることに抵抗があるのだろうか。
「そうですか……。遠いところを、わざわざ」
女将は、少し間を置いてから言った。
「主人に聞いてまいります。少々、お待ちください」
そう言うと、彼女は店の奥へと歩いていった。
引き戸の向こうには、薄暗い廊下が続いていた。女将の足音は、奥へ進むにつれて小さくなり、やがて聞こえなくなった。
店内には、古い柱時計の音だけが響いていた。
チク、タク、チク、タク。
大塚は、父と顔を見合わせた。
「いるんだな」
父が、小さくつぶやいた。
「ええ。少なくとも、ここに暮らしていることは間違いなさそうです」
「問題は、何を話してくれるかだ」
父は、店の奥へ視線を向けた。
その顔には、期待とも警戒ともつかない表情が浮かんでいた。
大塚は、もう一度、柱時計の音を聞いた。
五十年近く前、ひとりの少年が死んだ。
その少年が殺人を犯したのは、愛する少女のためだったのか。それとも、誰かに利用された結果だったのか。
そして、少年が命を絶つ直前に書き残した「Sのために」という言葉は、何を意味していたのか。
その答えを知る者が、今、店の奥から現れようとしている。
大塚は、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
やがて、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
その足音が店の入口の手前で止まったとき、大塚は顔を上げた。
五十年という歳月を越えて、封じられていた記憶が、今まさに扉を開こうとしていた。
そして、その記憶の中心には、あの女――宮城静江がいる。
大塚は、胸の奥に忍び込んできた冷たい予感を、どうしても拭い去ることができなかった。
50年の時を超えて事件の真相が少しづつ暴露される




