彼女の心には、死者の影がない
老女の深淵にせまる大塚の心に闇の森が浮かぶ
宮城静江という女の過去には、二つの殺人事件が刻まれていた。
ひとつは中学生のころ。美しいピアノ教師が殺され、犯人となった幼なじみの少年もまた、事件の後に自ら命を絶った。
もうひとつは高校生のころ。女優として歩き始めた静江に執着した若い俳優が、所属する映画会社を追われたのち、何者かに殺害された。
少女だった静江の身近で、二人の人間が命を奪われている。
大人でさえ、親しい人間を殺されれば、心に癒やしがたい傷を負う。まして、まだ世界の残酷さを十分に知らない少女時代であれば、その衝撃はどれほどのものだっただろう。
心理カウンセラーの大塚悠太は、そう考えずにはいられなかった。
ところが、静江本人の説明は、悠太の予想を裏切るものだった。
彼女は、周囲の人々に支えられたおかげで、比較的短い期間で立ち直ることができたと語った。そして、過去の二つの事件が、現在の自分の心に負担を与えているとは思わない、ときっぱり言い切ったのである。
その口調には、迷いも、ためらいもなかった。
まるで、他人の身に起きた不幸を説明しているかのようだった。
大塚は、これまで多くの心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDの患者と向き合ってきた。
患者たちが抱える苦痛は、それぞれ異なっている。突然よみがえる記憶に苦しむ者もいれば、眠れない夜を重ねる者もいる。何気ない物音や、通りすがりの人間の仕草ひとつが、過去の恐怖を呼び覚ますこともある。
とりわけ、人格が形成される途上にある子供時代に受けた心の傷は、長い年月を経てもなお、その人間の生き方を支配することがある。
もちろん、悲惨な体験をした人間が、必ずしもPTSDを発症するわけではない。苦痛の現れ方も、立ち直るまでの時間も、人によって違う。
それでも、静江の話には、どうしても拭い去れない違和感があった。
彼女は本当に、二つの殺人事件から立ち直っていたのだろうか。
それとも、立ち直ったのではなく、心のどこかに事件を封じ込めてしまったのだろうか。
あるいは――。
大塚は、その先に浮かびかけた考えを、いったん押し戻した。
カウンセラーが、十分な根拠もなく相談者を疑うべきではない。相手の語る言葉を尊重し、その内面を理解することこそ、彼の仕事だった。
だが、静江の瞳を思い出すと、理屈だけでは片づけられない何かが、胸の底に沈殿していく。
あの瞳には、深い暗闇があった。
単に悲しみを押し隠した人間の暗さとは違う。過去の傷を必死に覆い隠している人間の、張り詰めた気配とも違っていた。
もっと静かで、もっと底知れないもの。
その奥には、何かを見つめ続けてきた者だけが持つ、奇妙な落ち着きがあった。
人が死んだという事実を知りながら、その死によって自分の心が揺さぶられた形跡が、彼女には見当たらないのだ。
それが、悠太には理解できなかった。
静江は、生まれつきストレスに強い人間だったのだろうか。
確かに、世の中には驚くほど精神的に強靱な人間がいる。普通なら立ち直れないような逆境に置かれても、傷ひとつ負わなかったかのように歩き続ける者もいる。
しかし、そうだとすれば、別の疑問が生まれる。
静江は現在、不眠症がひどく、どうしようもない心の空虚感に苛まれているという理由で、市役所の福祉課に相談を持ちかけていた。
長い人生を生き抜いてきた人間が、老年になって初めて心の均衡を失うことは、決して珍しくない。若いころには耐えられた苦痛が、年齢を重ねるにつれて耐え難いものになることもある。
だが、静江からは、弱り切った人間の気配が感じられなかった。
むしろ、彼女は大塚の前で、いつも自分自身を完全に支配していた。
声の調子。視線の動かし方。沈黙を置くタイミング。
それらはあまりにも自然でありながら、どこか計算されているようにも思えた。
これまで二度、面接を行った。
しかし、会話の主導権は、ほとんど静江が握っていた。
大塚が質問をしようとすると、彼女はさりげなく話題を変えることがあった。ときには、質問の最後まで聞かずに、自分の言葉を重ねてくる。
それが単なる話し好きの老人に見えないのは、彼女の語り方に、奇妙な意志の強さがあったからだ。
静江は、語るべきことを語り、語りたくないことには決して触れさせない。
そんな印象を、大塚は抱いていた。
彼女は自分の過去を話しているようでいて、実際には、その過去のどこまでを相手に見せるか、厳密に選別しているのではないか。
そう考え始めると、これまでの面接で交わした言葉の一つひとつが、別の意味を帯びてくる。
大塚は、自分の未熟さを疑った。
カウンセラーとしての経験が足りないのではないか。静江が胸襟を開いて語れないのは、自分に相手の心を解きほぐすだけの力量がないからではないか。
それとも、彼女が語ったことそのものが、事実とは異なっているのだろうか。
嘘をついているのか。
事実の一部だけを隠しているのか。
あるいは、彼女自身が、自分の過去を本当の意味では理解していないのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
次の面接は、二回目の面接から一週間後に予定されていた。
悠太は、その日を迎える前に、どうしても確認しておきたいことがあった。
静江が語った二つの殺人事件は、本当に起きたことなのか。
そして、彼女の説明は、どこまで事実に即しているのか。
大塚は、二回目の面接の後半で聞いた話を思い返した。
静江が二十歳を過ぎたころ、所属する映画会社に有力な新人女優が次々と入ってきた。静江の出演機会は徐々に減っていったが、それでも何とか女優の仕事を続けていたという。
そして二十五歳のとき、運命の人と巡り合い、結婚した。
結婚生活については、次の面接で詳しく聞くことになっている。
その話を思い返しながら、悠太はふと、あることに気づいた。
静江は、過去に起きた二つの死については、驚くほど淡々と語った。
だが、自分の女優人生について話すときには、言葉の端々に微妙な感情がにじんでいた。仕事が減ったことへの悔しさ。女優であり続けたいという執着。そして、二十五歳で結婚したという、彼女にとって人生の転機となった出来事。
彼女の心を占めているのは、死んだ人間たちではないのかもしれない。
それとも、死者について語るときだけ、感情を切り離すことができるのだろうか。
大塚は、過去の二つの事件を調べることにした。
ところが、資料を探す作業は、思いのほか難航した。
事件が起きたのは、もう五十年以上も前のことだ。近所の図書館に足を運んでみたものの、当時の新聞を閲覧することはできなかった。
全国紙なら、大規模な図書館に行けば縮刷版などが残っている可能性はある。だが、静江が話したのは東北地方で起きた事件だった。全国紙にどこまで報道されているかも分からない。
地方紙なら、当時の紙面に事件の詳細が掲載されている可能性が高いだろう。
しかし、現地まで出向くとなれば、時間も費用もかかる。次の面接までに、何らかの手がかりをつかむことはできないものか。
そのとき、大塚の頭に浮かんだのが、実父の顔だった。
父は元警察官である。
しかも、警視庁捜査一課で刑事部係長まで務めた、叩き上げの刑事だった。
現在七十六歳。すでに現役を退いて久しいが、いまだに背筋は伸び、足取りもしっかりしている。地元の警察署で子供たちに剣道を教えており、年齢を感じさせない気丈夫な男だった。
大塚は、久しぶりに父に連絡を取った。
事情を聞いた父は、しばらく黙っていた。
「随分と古い事件だな」
電話の向こうから聞こえる声は、昔と変わらず低く、よく通った。
「五十年以上前ですからね。新聞で確認できれば、それでいいんですけど」
「新聞を調べるだけなら、そう難しい話じゃない。問題は、その二つの事件を、どうして今になって調べる必要があるのかということだ」
さすがに元刑事だけあって、父は話の本質を見逃さなかった。
大塚は、静江から聞いた話を、できる限り詳しく説明した。
中学生時代のピアノ教師殺害事件。犯人となった幼なじみの少年の自殺。高校時代に親しくなった若い俳優の死。そして、その二つの事件について語る静江の、あまりにも平静な態度。
すべてを話し終えると、父はまた沈黙した。
その沈黙が長かったため、大塚は一度、電話が切れたのではないかと思った。
「……なるほどな」
やがて、父が口を開いた。
「もう俺も年だ。現役のころの勘が、そのまま残っているとは思わん。ただな、その二つの事件と、その女の関わり方。それから、今のおまえが感じている違和感。少し妙だな」
「やっぱり、そう思いますか」
「二つの殺人事件が、たまたま同じ女の身近で起きた。それだけでも、かなり珍しい話だ。まして、本人がそのどちらについても、心に大きな傷を負っていないと言う。もちろん、そういう人間もいるだろう。だが、話を聞く限り、何か引っかかるものがある」
「心の問題だけじゃない、ということですか」
大塚は、思わず声を潜めた。
父の言葉を聞いているうちに、自分が避けていた疑念が、少しずつ形を持ち始めていた。
父は、急いで結論を出そうとはしなかった。
「いいか。人間の心というのは、外から見ただけじゃ分からん。大きな事件に遭っても、平然としている人間はいる。逆に、他人から見れば取るに足らないことに、一生苦しめられる人間もいる。だから、傷が見えないからといって、傷がないと決めつけるのは間違いだ」
「ええ」
「だが、もう一つ、別の可能性もある」
父の声が、わずかに低くなった。
「もし、その女が事件の核心にいたとしたらどうだ」
大塚は、返事ができなかった。
「核心というのは……犯行に関わっていたということですか」
「そういう可能性も、理屈の上では考えられるということだ。もちろん、今の話だけで、そんなことを決めつけるわけにはいかん」
「でも、もし彼女が犯行に関わっていたのなら、それはそれで相当なストレスになるでしょう。自分が人の命を奪うことに関わったのなら、なおさらです」
「そうとは限らん」
父は、短く言った。
「人を殺した人間が、全員、良心の呵責に苦しむと思うか?」
悠太は黙った。
「もちろん、犯行のあとで恐怖や罪悪感に押し潰される人間もいる。だが、最初から自分の行為を正しいと思い込んでいる人間もいる。相手を憎み抜いた末に、殺すことで苦しみから解放されたと感じる人間だっているだろう」
父は、そこで一度言葉を切った。
「つまり、強いストレスがあったから犯行に及び、犯行を終えたことで、そのストレスから解放された。そういう仮説だって成り立つということだ」
大塚の背中に、冷たいものが走った。
静江の顔が脳裏に浮かんだ。
艶やかな髪。上品な装い。年齢を重ねても失われていない、どこか人を惹きつける美しさ。
そして、あの瞳。
人の死を語るときでさえ、そこには悲しみとも恐怖ともつかない感情が、ほとんど浮かばなかった。
もし、彼女が何かを隠しているのだとしたら。
それは、忘れたい過去なのだろうか。
それとも、誰にも知られたくない秘密なのだろうか。
あるいは――彼女にとって、秘密にする必要さえないことなのだろうか。
「父さん。もう一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「仮に、彼女が事件に関わっていたとしたら、二つの事件に共通する何かがあると思いますか」
「今の段階では何とも言えん。事件の資料もないし、関係者の話も聞いていない。推測だけでつなげれば、何でも筋書きができてしまう」
父の答えは、慎重だった。
「まずは、事件が本当にあったのかを確かめろ。新聞記事でも、当時の捜査記録でもいい。事実と推測を混ぜるな。刑事の基本だ」
「分かりました」
「それから、おまえ自身の仕事も忘れるな。彼女は、心の不調を訴えて相談に来ているんだろう。疑うことばかりに気を取られて、相談者としての彼女を見失うなよ」
電話を切ったあとも、悠太はしばらく受話器を手にしたまま、動かなかった。
父の言葉は、刑事としての慎重さを失っていなかった。
証拠がなければ、何も決めつけてはならない。
それは分かっている。
静江が二つの事件に関わっていたという証拠は、何一つない。彼女が話した内容が事実である可能性も十分にある。
それでも、悠太の心には、父の言葉が重く残っていた。
事件の核心にいた人間。
その言葉が、静江の瞳の奥にある暗闇と、妙にしっくり重なってしまうのだ。
悠太は窓の外に目を向けた。
夕暮れが街を覆い始めていた。建物の窓に灯りがともり、道行く人々の影が長く伸びている。
誰もが、それぞれの人生を抱えて歩いている。
愛する者を失い、悲しみに沈む人間がいる。
罪を犯し、その記憶に苦しめられる人間もいる。
そして、もしかすると。
人の死を、ただ静かに見つめることのできる人間もいるのかもしれない。
宮城静江は、いったいどの種類の人間なのだろう。
次の面接では、彼女の結婚生活について聞くことになっている。
二十五歳で出会った、運命の人。
静江は、その男との結婚を、どんな表情で語るのだろうか。
大塚は、ふと、ひとつの考えにとらわれた。
彼女の人生に現れた男たちは、いずれも静江の心に何らかの形で触れた人間だった。
そして、そのうちの何人かは、彼女のもとを去ったあと、あるいは彼女の人生から姿を消したあと、二度と戻ってこなかった。
それが単なる偶然なのか。
それとも、彼女の人生には、他人には見えない法則が潜んでいるのか。
答えは、まだない。
ただ一つ、悠太には分かっていた。
宮城静江の心の奥には、彼女自身が語ろうとしない何かがある。
それは、悲しみかもしれない。
罪悪感かもしれない。
あるいは、人が人を殺すという行為を、他人とはまったく異なる尺度で捉える、冷ややかな何かかもしれない。
次の面接で、彼女はまた微笑むだろう。
上品に、穏やかに、まるで何も恐れるものなどないかのように。
その微笑みの下に、どれほど深い闇が潜んでいるのか。
大塚は、まだ知らなかった。
そして、その闇が、彼自身をも呑み込もうとしていることにも――。
果てることなき深淵の森
泥沼に引き込まれる親子




