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老女の覚醒  作者: egochann
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7/11

美しい女の周囲で、男たちは死んでいく

老女が歳を重ねるごとに「死」が沸き起こる


 宮城静江の話は、高校時代に起きた、もうひとつの悲劇へと進んでいた。

 映画会社から将来を嘱望されていた新人女優。その少女に心を寄せた若い俳優。そして、二人の仲を疑った会社によって職を失い、やがて自室で死体となって発見された男。

 それだけでも、ひとつの悲劇として十分だった。

 だが、静江の話には、まだ続きがあった。

 大塚悠太は、冷めかけた紅茶に手を伸ばした。カップの縁に唇をつけると、かすかな渋みが舌に残った。

 向かいに座る静江は、相変わらず優雅な姿勢を崩していなかった。紫色のドレスに包まれた身体は、年齢を重ねた女性特有の衰えを感じさせながらも、どこか人目を引く華やかさを保っている。

 しかし、彼女の顔には、先ほどから薄い影が差していた。

「実は……」

 静江が口を開いた。

「会社の人たちに、私たちの仲が知られる前から、私は彼のことが少し嫌になっていたのです」

 大塚は、顔を上げた。

「嫌になっていた?」

「ええ。最初は、好意を持っていました。真面目な方でしたし、私の仕事のこともよく考えてくださいましたから。でも、私の撮影現場には毎日のように顔を出すのです。隙があれば話しかけてきますし、仕事が終わるまで撮影所の入り口で待っていることもありました」

 静江は、指先でペンダントの鎖をそっとなぞった。

「初めのうちは、それが嬉しかったのです。自分のことを気にかけてくれる人がいるというのは、悪い気持ちがしませんから。でも、毎日となると、少し違ってきます。私は学校にも通っていましたし、撮影の仕事もありました。疲れている日には、一人になりたいこともあります。それなのに、彼はいつも私のそばにいようとするのです」

「それで、次第に負担になっていったのですね」

「そうです。今思えば、私はまだ子供でした。人を好きになるということも、好きになられるということも、よくわかっていなかったのでしょう」

 静江は、そこで小さく息をついた。

「ですから、会社の人たちから、もう彼とは会わないようにと言われたとき、私は正直、ほっとしていたのです」

 大塚は、静江の表情を見つめた。

 彼女は、自分の本心を隠そうとしているようには見えなかった。むしろ、何十年も経った今だからこそ、当時の自分の感情を率直に語れるのかもしれない。

 しかし、その告白には、奇妙な冷たさがあった。

 男は、彼女を愛した。彼女も、最初は男に好意を抱いていた。

 だが、男の愛情が重荷になったとき、彼女はその関係から解放されることを望んだ。そして、会社の介入によって、望みどおりの結果がもたらされた。

 その男が、二か月後に死んだ。

 大塚は、喉の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。

「では、彼が亡くなったのは、自殺だったのでしょうか」

 静江の表情が変わった。

 それまで、かろうじて保たれていた穏やかさが、音もなく崩れていく。唇がわずかに開いたものの、言葉は出てこなかった。

 彼女は、しばらくテーブルの一点を見つめていた。

 やがて、かすれるような声で言った。

「私も……最初は、そう思っていました」

 大塚は、黙って続きを待った。

「彼は、私のせいで仕事を失ったのです。私がもう少しうまく対応していれば、会社の人たちに誤解されずに済んだのかもしれません。彼が私に付きまとっていたことは事実でしたけれど、だからといって、仕事を失うほどのことだったのか……」

 静江は、目を伏せた。

「私は、自分のせいで彼が死んだのだと思いました。とても苦しかったのです。申し訳ないことをした、と。あのころは、何をしていても、そのことが頭から離れませんでした」

 その声には、ようやく年齢相応の重みが感じられた。

 大塚は、静江の言葉を遮らなかった。

 罪悪感というものは、事実とは別の場所で人間を苦しめることがある。たとえ自分に直接の責任がなくても、誰かの死に自分が関わっていると思えば、その記憶は心に深く刻まれる。

 まして、思春期の少女である。

 自分に好意を寄せていた男が、職を失い、やがて命を絶ったと聞けば、責任を感じるのも無理はない。

 しかし、静江はそこで話を止めた。

 唇がかすかに震えた。

「ところが……」

 その一言を口にするまでに、また長い沈黙があった。

「その後の捜査で、彼は自殺ではなかったことがわかったのです」

 大塚の背筋に、冷たいものが走った。

「殺人だったのですか?」

「ええ」

「犯人は、見つかったのですね」

「はい。撮影所で助監督をしていた男性でした」

 大塚は、静江の顔を見つめた。

 助監督。

 映画の撮影現場で、監督を補佐し、撮影の進行を支える立場にある人間だ。俳優たちのそばにいることも多い。静江と被害者の男を知っていたとしても、不思議ではなかった。

 だが、なぜ、その男が殺人を犯したのだろう。

「その犯人も、宮城さんに好意を持っていたのですか?」

 大塚は、慎重に尋ねた。

 静江は、鋭い目で彼を見た。

「いいえ。そうではありません」

 声に、はっきりとした拒絶があった。

「犯人の男性と、私は話をしたこともありません。仕事で顔を合わせることはあったかもしれませんが、それだけです」

「失礼しました」

 大塚は、すぐに謝罪した。

 静江の表情には、いつもの優雅さとは異なる厳しさがあった。彼女は、疑われることを嫌っているというよりも、自分の説明を勝手に別の物語へと結びつけられることに、強い不快感を示しているようだった。

 大塚は、自分の推測を反省した。

 男が殺されたという事実から、すぐに嫉妬を動機とする筋書きを作ってしまった。ミステリーのように考えれば、それは一つの可能性かもしれない。しかし、現実の人間を理解するためには、可能性と事実を混同してはならない。

「すみません。先走った質問でした」

「いいえ」

 静江は、少しだけ表情を和らげた。

「ただ、犯人は、彼との間に金銭トラブルを抱えていたそうです。それが原因だったと聞いています」

「金銭トラブルですか」

「ええ。詳しいことまでは知りません。捜査の結果、そういうことだったと新聞に出ていました」

 大塚は、静江の言葉を頭のなかで整理した。

 被害者の男と、撮影所の助監督との間に金銭上の問題があった。

 その問題がこじれ、殺人事件に発展した。

 筋道としては、理解できる。

 だが、静江の周囲では、なぜこうも不幸な出来事が繰り返されるのだろう。

 中学生時代には、ピアノ教師が殺され、その犯人だった幼なじみが自殺した。

 高校時代には、自分に好意を寄せた若い俳優が殺され、その犯人もまた、のちに死んだという。

 もちろん、どの事件も、それぞれ異なる事情を抱えていたはずだ。

 静江が原因だと決めつけることなどできない。

 それでも、彼女の人生をたどるほどに、死の影が濃くなっていくように思えた。

「その犯人は、どうなったのですか?」

「実刑判決を受けて、十年ほど刑務所に入ったそうです」

「その後は?」

「確か、事故で亡くなったと聞いています。詳しいことは知りません。新聞で読んだだけですから」

「そうですか……」

 大塚は、言葉を失った。

 犯人もまた、刑務所を出た後に命を落としたという。

 偶然なのだろう。

 そう考えるのが、最も合理的だった。

 だが、人間は、偶然が何度も重なると、そこに意味を見つけようとする。

 まして、目の前の静江は、二つの事件の当事者に近い位置にいた。

 彼女は、なぜ自分の人生に起きた悲劇を、これほど淡々と語ることができるのだろう。

 そして、その淡々とした語り口の奥には、いったいどのような感情が隠されているのだろう。

「そんな事件があっても、女優のお仕事には影響しなかったのですか?」

 大塚は、話題を変えた。

「映画会社の方々が、ずいぶん気を遣ってくださいました。マスコミからも徹底的に守っていただいたのです。私の名前が大きく報道されることもありませんでしたし、仕事や生活に、それほど影響はありませんでした」

 静江は、再び落ち着いた口調に戻っていた。

「私は、その後も一か月に一本くらいのペースで映画に出演していました。撮影所へ行き、台本を覚え、監督の指示に従って演技をする。そんな生活が続いていました」

「高校を卒業するころには、映画界も変わり始めていたのでしょうね」

「そうですね。テレビが急速に普及して、世の中はテレビの時代へと移っていきました。私も、映画だけではなく、テレビドラマのお仕事が増えていったのです」

 静江の目に、遠い時代の光景が映っているようだった。

 撮影所の白いライト。化粧品の匂い。慌ただしく行き交うスタッフ。監督の怒声。カメラが回り始める直前の、息の詰まるような静けさ。

 そして、誰かの視線。

 少女だった静江は、そうした世界のなかで、女優として生きることを覚えていったのだろう。

 だが、華やかな世界は、いつまでも彼女を中心に回ってくれるわけではなかった。

「ただ、そのころから、少しずつ状況が変わってきました」

 静江は、膝の上で両手を重ねた。

「私より若い新人女優が、次々と出てきたのです。大衆的な人気を集める方もいらっしゃいました。映画会社もテレビ局も、新しい顔を求めるようになっていきました」

「宮城さんのお仕事が、減っていったのですか?」

「ええ。最初は、ほんの少しでした。でも、気がつくと、以前ほど声がかからなくなっていました。主役の話が減り、脇役の仕事も少なくなっていく。以前なら当然のようにあった撮影の予定が、空白になっていくのです」

 静江は、薄く笑った。

「女優という仕事は、残酷なものですね。昨日まで必要とされていた人間が、今日になれば、もう必要ではなくなってしまうのですから」

 大塚は、静江の言葉を聞きながら、彼女の人生に初めて別の角度から光を当てたような気がした。

 彼女は、若くして美貌を認められ、映画会社の期待を背負って売り出された。

 しかし、華やかな成功の裏側では、常に失うことへの不安を抱えていたのかもしれない。

 美しさは、彼女に扉を開いた。

 だが、その扉の向こうには、若さを失えば価値も失われるという、残酷な現実が待っていた。

「そのころが、人生で一番暗かった時代ですね」

 静江は、そう言った。

「将来が不安で仕方ありませんでした。私は、女優を生涯の仕事にするつもりでしたから。大学にも進学しませんでしたし、ほかの仕事に就くための準備もしていませんでした」

「ご両親は、何とおっしゃっていたのですか?」

「父も母も、私のことを心配していました。女優の仕事が行き詰まったら、家に戻って家業を手伝ってほしい。そんな希望を持っていたのです」

「それで、女優を辞めることも考えたのですか?」

 静江は、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ」

 その声には、初めて迷いのない響きがあった。

「私は、女優という仕事が好きだったのです」

 大塚は、黙って彼女を見つめた。

「撮影現場の緊張感が、たまらなく好きでした。台本を読み、役の気持ちを考え、カメラの前に立つ。照明が当たり、監督の声が響き、撮影が始まる。その瞬間だけは、ほかのことを何も考えずにいられたのです」

 静江の瞳が、わずかに輝いた。

「自分ではない誰かになれる。自分の人生とは違う人生を生きられる。それが、私には何よりも魅力的でした」

 その言葉を聞いたとき、大塚は、彼女の話のなかに一つの手掛かりを見つけたような気がした。

 自分ではない誰かになれる。

 それは、俳優という仕事の本質なのかもしれない。

 しかし、静江にとっては、それ以上の意味があったのではないだろうか。

 彼女は、過去の出来事を語るとき、いつもどこか他人事のような口調になる。悲惨な死を語っても、まるで舞台の上で演じられた出来事を説明しているように聞こえることがある。

 もしかすると、彼女は女優になる以前から、自分自身の人生を、どこか遠くから眺める癖を身につけていたのではないだろうか。

 そして、女優という仕事は、その感覚を満たしてくれる場所だったのかもしれない。

 大塚は、ふと尋ねた。

「宮城さんは、演じているとき、ご自分のことを忘れられたのでしょうか?」

 静江は、彼を見た。

 一瞬、その瞳の奥で何かが揺れた。

「そうですね……」

 彼女は、ゆっくりと微笑んだ。

「忘れられたのかもしれません」

 その微笑みは、先ほどまでの懐かしげな笑顔とは違っていた。

 どこか艶めいていて、底知れない。

「でも、人間というものは、不思議なものです。自分の人生から逃げようとしても、逃げ切ることはできません。どんな役を演じても、どんな人間になりきっても、最後には自分自身に戻らなければならないのですから」

 大塚は、その言葉に返事をしなかった。

 静江は、カップに残った紅茶を見つめていた。

 窓の外では、夕闇が庭を包み始めていた。木々の影が重なり、芝生の緑が黒ずんでいく。

 その光景を眺めながら、大塚は思った。

 宮城静江の人生には、いくつもの死がある。

 ピアノ教師の死。幼なじみの少年の死。若い俳優の死。そして、その俳優を殺した男の、後年の死。

 それぞれの事件には、それぞれの事情があったのだろう。

 しかし、彼女はそれらを一つずつ語りながら、決して自分の内側にあるものを、すべて明かそうとはしない。

 彼女の言葉は、いつも何かの手前で止まる。

 その先には、何があるのか。

 罪悪感か。

 憎悪か。

 あるいは、本人さえ言葉にできない、もっと奇妙な感情なのか。

 大塚には、まだわからなかった。

 ただ、彼女の話を聞けば聞くほど、彼は確信し始めていた。

 宮城静江の過去を理解するためには、事件の事実を並べるだけでは足りない。

 彼女が、誰を愛し、誰を憎み、誰を失うことを恐れていたのか。

 そして、何を失ったときに、心のなかで何かが変わってしまったのか。

 そこに目を向けなければならない。

 静江は、ゆっくりと顔を上げた。

「大塚さん」

「はい」

「人間は、どれほど長く生きても、忘れられないものがあるのですね」

 大塚は、彼女の目を見つめた。

「ええ。そういうことはあると思います」

「私にも、あります」

 静江は、微笑んだ。

「忘れられない人もいますし、忘れたくても忘れられない出来事もあります」

 そこで彼女は、言葉を切った。

 その沈黙は、これまでのどの沈黙よりも深かった。

 大塚は、質問を重ねなかった。

 静江が自ら語り始めるまで、待つことにした。

 やがて彼女は、窓の外へ目を向けた。

「さて……」

 静江の声が、再び穏やかな調子を取り戻した。

「この先のことも、お話ししなければなりませんね」

 その言葉を聞いた瞬間、大塚は胸の奥に、説明のつかない不安を覚えた。

 彼女の人生は、まだ続いている。

 若い女優として成功を夢見た時代も、仕事が減り、将来に絶望した時代も、すでに遠い過去となっている。

 それでも、静江は、あのころの出来事を語り続けている。

 まるで、まだ終わっていない物語を、少しずつ読み聞かせるように。

 そして、その物語のどこかには、彼女が決して口にしようとしない、最後の秘密が隠されているのだ。

 大塚は、静江の横顔を見つめた。

 窓の外の木々は、すでに夜の色に沈んでいた。

 その暗闇の向こうに、誰かが立っているような気がした。

 もちろん、誰もいない。

 それでも大塚は、しばらく視線をそらすことができなかった。

 宮城静江の話を聞くたびに、彼は、自分が知らない世界の扉を一枚ずつ開けているような感覚に陥る。

 そして、その扉の向こうには、いつも美しい顔をした女がいる。

 彼女は、何を失ったのか。

 何を手に入れたのか。

 そして、何を隠しているのか。

 その答えを知るまでには、まだ長い時間が必要なのだろう。

 静江は、薄暗い応接室で、静かに微笑んでいた。

 その微笑みは、まるで、これから始まる物語の結末を、彼女だけが知っているかのようだった。




どこまでも深淵の森に入り込む話をする老女

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