美貌という名の呪縛
老女の語る青春時代 そこには美しさゆえの深淵が広がっていた
宮城静江の人生が大きく変わったのは、高校生のとき、映画のオーディションに合格したことがきっかけだった。
映画会社は、彼女の類まれな美貌に目をつけた。将来のスター候補として、惜しみない宣伝費を投じ、大々的に売り出すことを決めたのである。
「夢のような世界でした」
静江は、そう言って微笑んだ。
紫色のドレスの胸元で、シャンパンゴールドのペンダントが鈍い光を放っている。年齢を感じさせない艶やかな髪には、午後の陽射しが淡く差し込んでいた。
「新人だったにもかかわらず、会社が全面的にバックアップしてくれました。有名な女優さんたちと同じメーキャップルームを使わせていただいたり、衣装を特別に用意していただいたり。何もかもが、それまでの生活とは違っていました」
向かいに座る大塚悠太は、静江の表情を注意深く見つめていた。
初回の面接で、彼女は中学生時代に起きた殺人事件について語った。ピアノ教師の惨殺。そして、その犯人だった幼なじみの少年の自殺。
どちらの死についても、静江は不思議なほど感情を表に出さなかった。
ところが今、映画界で過ごした少女時代を語る彼女の顔には、ほのかな輝きが宿っている。
人間は、忘れたい記憶ばかりを抱えて生きているわけではない。つらい過去のなかにも、幸福だった瞬間はある。むしろ、幸福だった記憶があるからこそ、失われたものの大きさに苦しむことさえある。
大塚は、そう考えた。
ただ、静江の微笑みには、何かが欠けていた。
懐かしさはある。華やかな世界を思い出す喜びも感じられる。しかし、その記憶を彩るはずの、若さゆえの無邪気さがないのだ。
まるで、少女時代の自分を、遠い舞台の上に立つ他人のように眺めている。
「当時の映画界は、今とはずいぶん違っていたのでしょうね」
大塚が言うと、静江は小さくうなずいた。
「ええ。映画が娯楽の王様だった時代ですから。スターになれば、誰もが憧れる存在になれました。でも、華やかな世界には、華やかな世界なりの暗い部分もあったのです」
「暗い部分、といいますと?」
「新人の俳優や女優は、先輩からひどい扱いを受けることがあったそうです。罵られたり、わざと恥をかかされたり。ひどいときには、お茶をかけられたという話も聞きました」
静江は、まるで他人事のように淡々と語った。
「それよりも怖いのは、現場のスタッフです。仕事のストレスを、新人にぶつける人がいたのですよ。少しでも失敗すれば怒鳴りつける。わざと難しいことを要求して、できなければ笑いものにする。新人には逆らうこともできませんから、じっと耐えるしかなかったのでしょうね」
「宮城さんも、そうした目に遭ったのですか?」
「いいえ。私は幸運でした。会社が私を特別扱いしてくれましたから」
静江は、そこで微笑んだ。
「今思えば、ずいぶん恵まれていたのだと思います」
恵まれていた。
その言葉を口にするとき、彼女の表情にわずかな陰りが差したように、大塚には見えた。
人は、何をもって幸福と呼ぶのだろう。
欲しいものを与えられることか。周囲から愛されることか。それとも、自分が望む人生を、自分の意思で選べることか。
静江は、望まれるままに映画界へ入り、望まれるままに美しい少女として売り出された。
それは幸福だったのだろうか。
それとも、彼女は少女時代から、誰かの期待に応えることを求められていたのだろうか。
「それで、女優のお仕事が楽しくなってしまったのです」
静江は、何事もなかったかのように話を続けた。
「高校を転校して、東京で暮らすことになりました」
「ご両親とは離れて、一人暮らしを始めたのですか?」
「いいえ。東京におばが住んでおりましたので、そこに部屋を用意していただいたのです。学校に通いながら、映画やテレビのお仕事をする生活でした」
「学業との両立は大変だったでしょうね」
「それはもう。撮影が入れば学校を休まなければなりませんし、仕事が終わる時間も決まっていませんでした。でも、友達がずいぶん協力してくれました。ノートを見せてもらったり、授業の内容を教えてもらったり。おかげで、何とか卒業することができたのです」
静江は、楽しそうに笑った。
その笑顔には、さきほどまでの曖昧な陰りがなかった。
「忙しかったけれど、充実していました。毎日、新しいことが起こるのです。映画の撮影があり、テレビの仕事があり、知らない人と知り合う。昨日までの自分とは違う自分になっていくような気がしました」
大塚は、静江の言葉を聞きながら、ある疑問を抱いた。
彼女は、中学時代にピアノ教師を失ったことで、目標を失ったと語っていた。
そして高校時代、映画という新しい世界に出会った。
それまでの空白を埋めるように、彼女は女優としての人生を歩き始めたのだろう。
しかし、人生が変わるということは、必ずしも幸福になるということではない。
ときには、ある扉を開けた瞬間から、以前とは違う種類の苦しみが始まることもある。
大塚は、慎重に尋ねた。
「では、高校時代には、特に心に傷を残すような出来事はなかったのですね?」
何気ない質問だった。
しかし、静江の表情は一瞬にして変わった。
微笑みが消えた。
頬から血の気が引いたわけではない。むしろ、顔の輪郭はそのままなのに、そこに宿っていた温度だけが失われたようだった。
明るい部屋に、灰色の薄布が静かに垂れ下がる。
大塚は、思わず息を止めた。
静江は、しばらく何も言わなかった。
テーブルの上では、紅茶がすっかり冷めていた。壁の時計が、乾いた音を刻んでいる。
やがて、彼女は視線を落としたまま口を開いた。
「……ありました」
その声は、先ほどまでとは別人のように低かった。
「映画デビューして、半年ほど経ったころでしょうか。私を好きになってくださった方がいたのです」
大塚は、ノートにペンを走らせる手を止めた。
「その方も、俳優だったのですか?」
「ええ。同じ映画会社に所属していました。私より二年ほど先輩でしたが、まだ脇役が多くて、なかなか芽が出ない方でした」
静江は、遠い記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと目を細めた。
「同じ映画に二本続けて出演したことがありましてね。その撮影の合間に、話をするようになったのです。演技のことや映画のこと、それから、私が知らない大人の世界についても、いろいろ教えてくれました」
「どのような方だったのでしょう?」
「真面目な方でした。口数は多くありませんでしたが、誠実で、物事をいい加減に済ませることのできない人でした」
静江の声に、ほんの少し柔らかな響きが戻った。
「最初、私のほうは、特別な感情を持っていたわけではありません。でも、その方はよく私の撮影現場に顔を出してくれました。演技のことで悩んでいると、助言をしてくれましたし、慣れない仕事で困っているときには、さりげなく助けてくれました。そういうことが重なるうちに、私も少しずつ、その方に好意を持つようになったのです」
「お付き合いをされていたのですか?」
「いいえ。学校もありましたし、仕事も忙しかったので、二人で出かける時間などありませんでした。撮影の合間に話をする。それだけの関係だったのです」
それだけの関係。
静江は、その言葉を、わざわざ強調するように口にした。
「ところが、私が好意を持っているとわかった途端、その方の態度が変わってしまったのです」
「変わった、というのは?」
「私の行くところに、必ず現れるようになりました。撮影が終わるのを待っていたり、次の仕事の予定を聞き出そうとしたり。私が誰と話しているのか、誰と帰るのか、そんなことまで気にするようになったのです」
大塚は、静かにうなずいた。
「付きまとわれるようになったのですね」
「ええ。最初は、私のことを心配してくれているのだと思いました。でも、だんだん息苦しくなってきました。私がほかの男性と話をしているだけで、不機嫌になることもありましたから」
「それで、映画会社の方々に知られてしまったのですか?」
「そうです」
静江は、カップの取っ手から指を離した。
「ある日、私たちは会社の人に呼び出されました。宣伝部の方と、制作に関わっていた責任者だったと思います」
当時の映画界では、俳優の私生活を管理する仕組みは、今ほど整っていなかった。取材や宣伝活動の際には会社の担当者が同行しても、普段の行動まで細かく監視されるわけではない。
だが、会社が将来を期待する新人女優となれば、事情は違った。
彼女の美貌も、若さも、将来性も、会社にとっては大切な財産だった。恋愛の噂ひとつが、売り出し戦略を狂わせる可能性がある。
まして、莫大な宣伝費を投じてスターに育てようとしている少女なら、なおさらだった。
「会社の方々は、私たちがどこまで親密な関係になっているのか、しつこく尋ねてきました」
静江の声には、感情を抑え込んだような硬さがあった。
「私は、何もないと説明しました。デートをしたこともありませんし、二人きりで出かけたこともない。撮影の合間に話をしていただけです、と」
「それでも、信じてもらえなかったのですね」
「ええ。何を説明しても、納得してもらえませんでした。私に迷惑をかけているのだから、彼には責任を取ってもらわなければならない。そういう話になってしまったのです」
大塚は眉を寄せた。
「彼の方は、どうしたのですか?」
「必死に抵抗したようです。私たちは付き合ってもいないし、何か問題を起こしたわけでもない。そう主張したと聞いています」
「それで……」
「会社を辞めさせられました」
静江は、あっさりと言った。
「彼は、まだ俳優として成功していませんでした。ようやく少しずつ仕事をもらえるようになったところだったのです。それなのに、突然、居場所を失ってしまいました」
「会社の判断は、かなり厳しいものだったのですね」
「会社にしてみれば、私を守るためだったのでしょう。将来有望な新人女優に付きまとい、迷惑をかける男。そういう扱いだったのだと思います」
静江は、そこで大塚を見つめた。
「実際に何があったのかを確かめるより、会社にとって都合のよい結論を出すほうが、簡単だったのでしょうね」
大塚は、返事をしなかった。
静江の言葉には、長年のあいだ沈殿してきた何かが含まれているように感じられた。
恨みなのか。
後悔なのか。
それとも、過去の出来事を、今になって別の意味で見つめ直しているのか。
彼女の声から、その答えを読み取ることはできなかった。
「その方とは、それきりになってしまったのですか?」
「ええ。会社を辞めてからは、会っていません」
静江は、そこで口を閉じた。
窓の外では、午後の光が弱まり始めていた。庭木の葉が風に揺れ、その影が壁の上をゆっくりと横切っていく。
やがて、静江は低い声で言った。
「その方が亡くなったのは、それから二か月ほど後でした」
大塚は、顔を上げた。
「亡くなった?」
「ええ。自分の住んでいたアパートで、死んでいるのが見つかったそうです」
静江は、それ以上、すぐには話さなかった。
大塚は、彼女の顔を見つめた。
「死因は……?」
慎重に尋ねると、静江は、まるで用意していた答えを口にするように言った。
「自殺だったそうです」
短い答えだった。
そこには驚きも、悲しみも、哀れみも感じられなかった。
大塚は、ノートの上でペンを止めた。
映画会社を追われた若い俳優。仕事を失い、夢を絶たれ、わずか二か月後に自室で命を絶った男。
それだけなら、悲しい話ではあっても、特別に不思議な話とはいえない。
しかし、大塚の頭には、別の男の死が浮かんでいた。
中学生だった静江の幼なじみ。
殺人事件を起こし、施設を出て三日後に、自宅の庭の木で首を吊った少年。
二人の死に、直接の関係があるとは限らない。
年齢も、境遇も、置かれていた状況も違う。ひとりは少年で、もうひとりは若い俳優だった。片方は殺人事件の犯人となり、もう片方は映画会社を追われた末に自ら命を絶った。
それでも、大塚には、二つの死が無関係なものとは思えなかった。
静江の人生に近づいた男たちが、相次いで不幸な結末を迎えている。
偶然だろうか。
もちろん、それだけで何かを疑うのは間違いだ。カウンセラーが、相談者の過去を勝手に結びつけ、根拠のない物語を作り上げることは許されない。
それでも、胸の奥に芽生えた疑念を、大塚は消すことができなかった。
彼は、静江を見つめた。
この老女は、二人の男の死を、どのように記憶しているのだろう。
そして、なぜ今になって、その話を自分に聞かせているのだろう。
「宮城さん」
大塚は、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「その方が亡くなったと聞いたとき、あなたは、どう思われたのですか?」
静江は、すぐには答えなかった。
カップのなかでは、紅茶の表面が鏡のように静まり返っていた。
彼女はその水面を見つめ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「どう思ったか、ですか……」
唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「そうですね。あのころの私は、まだ子供でしたから」
そこで、言葉が途切れた。
大塚は、その続きを待った。
しかし、静江は何も言わなかった。
ただ、窓の外の庭を見つめていた。
その横顔は、息をのむほど美しかった。
老いてなお、整った顔立ちには、若いころの面影が残っている。長い年月が刻んだ皺さえ、彼女の美しさを損なうどころか、どこか妖しい陰影を与えていた。
だが、大塚が目を奪われたのは、その美貌そのものではなかった。
美しい顔の奥にある、冷たい沈黙だった。
悲しみを押し殺しているのか。
罪悪感を隠しているのか。
それとも、誰にも理解できない感情を、今も大切に抱き続けているのか。
彼には、わからなかった。
ただ、静江の沈黙には、まだ語られていない何かが潜んでいる。
そう感じずにはいられなかった。
大塚はノートを閉じなかった。
今日の面接は、まだ終わっていない。
静江が語った男の死は、過去の悲劇のひとつにすぎないのかもしれない。
しかし、彼女の人生には、奇妙なことが多すぎる。
美しい少女を愛した男たち。
少女の人生から去っていった男たち。
そして、彼女の周囲で起きた、説明のつかない死。
それらを偶然という言葉で片づけてしまうには、大塚の胸に残る違和感は大きすぎた。
静江は、ゆっくりと紅茶のカップを持ち上げた。
その指先は、年齢を感じさせないほど優雅だった。
「大塚さん」
「はい」
「人は、誰かを愛することで、幸せになれると思いますか?」
突然の問いだった。
大塚は、わずかに戸惑った。
「そういう場合もあると思います」
「では、愛することで、その人の人生を壊してしまうことも?」
「……ありますね」
静江は、微笑んだ。
「そうですか」
それだけ言うと、彼女は紅茶をひと口飲んだ。
大塚は、何も尋ねなかった。
これ以上、質問を重ねれば、彼女は再び口を閉ざしてしまうかもしれない。今は、彼女が自分から話し始めるのを待つべきだ。
そう判断したのだった。
静江は、窓の外へ視線を戻した。
夕暮れが庭を包み、木々の影がゆっくりと濃くなっていく。
その影を見つめる彼女の横顔には、先ほどまでの悲しみとは違う、奇妙な静けさがあった。
まるで、遠い昔に終わったはずの物語を、今も心のなかで繰り返しているかのように。
大塚は、ふと思った。
この老女は、過去を忘れられずにいるのではない。
もしかすると、彼女は過去を手放したくないのではないだろうか。
それが幸福だったからなのか。
それとも、彼女の人生を決定づけた、取り返しのつかない何かだったからなのか。
答えは、まだ見えなかった。
ただひとつ確かなのは、宮城静江という女の人生が、彼の想像していたよりもはるかに深い闇を抱えているということだった。
そして彼女は、その闇をすべて明かすつもりなど、最初からないのかもしれない。
静江が再び口を開くまで、部屋には時計の音だけが響いていた。
大塚は、その音を聞きながら、彼女の次の言葉を待った。
美貌という名の贈り物。
それは、彼女に輝かしい人生を与えた。
だが同時に、彼女の周囲にいる人間たちの運命を、少しずつ狂わせていったのだろうか。
あるいは――。
彼女自身が、誰かの運命を狂わせることを、いつしか覚えてしまったのだろうか。
大塚は、その考えを胸の奥に押し戻した。
まだ、何もわかっていない。
けれど、静江の微笑みを見ていると、ひとつの疑問だけが、どうしても頭から離れなかった。
彼女は本当に、愛されたことを悲しんでいるのだろうか。
それとも、愛された男たちが自分のもとから消えていったことを、別の感情で記憶しているのだろうか。
窓の外で、夕闇が深くなっていた。
静江は、薄暗い室内で、静かに微笑んでいた。
まるで、これから語る物語の、本当の入口にたどり着いたばかりだというように。
次に語られるのはどれほどの悍ましい出来事なのか




