美貌という名の檻
語られた老女の青春時代
NPO法人で心理カウンセラーをしている大塚悠太が、相談者の宮城静江の洋館を初めて訪ねてから、二日が過ぎていた。
二回目の面接は、静江の希望によって午後の遅い時間に設定された。大塚が最寄り駅に降り立ったのは、午後三時を少し回る前だった。
秋の陽射しは、すでに傾き始めていた。駅前の商店街を抜け、閑静な住宅街へと続く道を歩いていく。整然と並ぶ家々の向こうに、静江の住む洋館が待ち受けている。
大塚の胸には、初回の面接で聞かされた奇妙な殺人事件の記憶が、まだ生々しくこびりついていた。
中学生だった静江のピアノ教師が殺されたこと。その犯人が、静江の幼なじみだったこと。そして、少年が施設を出て帰宅したわずか三日後、庭の木で首を吊って死んだこと。
どれもが、現実の出来事とは思えないほど不気味だった。
大塚は、あのときの静江の顔を思い出した。
悲しみを語っているはずなのに、そこには悲しみらしいものがなかった。幼なじみの死を悼む様子も、殺されたピアノ教師を哀れむ気配もない。むしろ、長いあいだ誰にも話せなかった秘密を、ようやく口にできたことを楽しんでいるようにさえ見えた。
もちろん、それは大塚の思い過ごしかもしれない。
人間の心は、他人が想像するほど単純ではない。強い衝撃を受けた人間が、感情を表に出せなくなることもある。悲しみを語るときに微笑む人もいれば、笑いながら残酷な記憶を語る人もいる。
それでも、大塚の胸に残った違和感は消えなかった。
あの老女は、何かを隠している。
しかも、単に過去を忘れられずにいるというだけではない。彼女は、過去のどこかに、今なお自分だけの楽しみを見つけているのではないか。
そんな考えが浮かぶたび、大塚は自分を戒めた。カウンセラーが相談者を先入観で判断するのは禁物である。自分の役目は、相手を裁くことではなく、相手の話に耳を傾け、その心を理解することなのだ。
そう自分に言い聞かせながらも、洋館へ向かう足取りは、いつもよりわずかに速くなっていた。
今日は、どんな話が飛び出すのだろう。
期待と不安が入り交じった感情を、大塚は胸の奥に押し込めた。
やがて、見覚えのある門扉が現れた。
門から玄関までの長いアプローチには、手入れの行き届いた植え込みが続いている。美しい庭だった。しかし、二度目に訪れても、そこには人の暮らしの気配が乏しかった。
大きな屋敷のなかに、静江は本当に一人で暮らしているのだろうか。
そんな疑問を抱きながら玄関へ近づくと、前回と同じように、静江が扉の内側で大塚を待っていた。
「お待ちしておりました。今日もよろしくお願いします」
静江は、柔らかく微笑んだ。
その日の彼女は、深い紫色のドレスを身にまとっていた。胸元にはシャンパンゴールドのペンダントが輝いている。年齢を考えれば驚くほど艶やかな髪は、薄くカールされ、肩のあたりで優雅に揺れていた。
どこかの名家の奥方を思わせる、洗練された装いだった。
しかし、その美しさには、妙に生々しいものがあった。
老いを隠そうとする必死さとも違う。若さを取り戻したいという未練とも違う。まるで、何十年ものあいだ、鏡のなかの自分を慈しみ続けてきた人間だけが身につけられる、奇妙な艶だった。
大塚は、彼女の笑顔を見つめながら、ふと、以前に聞いた話を思い出した。
――先生は、とても美しい人だったんですよ。
静江がそう語ったときの声には、懐かしさとも憧れともつかない響きがあった。
美しい人。
その言葉は、彼女にとって、どれほど特別な意味を持っていたのだろう。
「どうぞ、お入りください」
静江に促され、大塚は屋敷のなかへ入った。
応接室も、前回と何ひとつ変わっていなかった。重厚な家具、磨き上げられた調度品、壁に掛けられた絵画。外の世界から切り離されたような室内には、時間の流れが滞っているような印象があった。
大塚は前回と同じソファに腰を下ろした。
テーブルには、すでに紅茶のセットが用意されていた。白い磁器のカップから、ほのかな湯気が立ち上っている。
「どうぞ、召し上がってくださいな」
静江が勧めた。
「ありがとうございます」
大塚はカップを手に取った。
前回、自分が紅茶をほとんど口にしなかったことを、静江は覚えているのだろう。今日は、座るなり勧めてきた。
何気ない気遣いにすぎない。そう考えれば、それまでのことだった。
けれど大塚は、彼女の細かな振る舞いを、つい観察してしまう自分に気づいた。
静江は、相手の反応をよく見ている。
言葉を発する前の一瞬のためらいも、視線の揺れも、見逃さない。そうした人間は、相手の心を読むことに長けている場合がある。
あるいは、長い年月をかけて、人間の反応を観察する必要があったのかもしれない。
「この前は、中学生までのお話をいたしましたね」
静江は、ゆっくりと話し始めた。
「今日は、その続きです。高校生になってからのことを、お話ししようと思います」
「よろしくお願いします」
大塚は、ノートを開いた。
「先生が亡くなり、あの事件が起きてから、私は二か月ほど、何も手につかない状態でした。でも、その後は少しずつ落ち着いていきました。両親も心配してくれましたし、学校の先生や友人たちも、いろいろと励ましてくれましたから」
静江の声は、穏やかだった。
「それで、無事に中学校を卒業できたのです」
「二か月ほどで、気持ちが落ち着いてきたのですね」
「ええ。もちろん、事件のことを忘れたわけではありません。でも、いつまでもそのことばかり考えているわけにもいきませんから」
静江は、カップの縁を指先でなぞった。
「私は中高一貫の学校に通っていましたので、高校受験をする必要もありませんでした。あのころの私には、それもよかったのかもしれません。受験勉強に追われることなく、自然に高校生になれましたから」
「環境が大きく変わらなかったことが、心の安定につながったのかもしれませんね」
「そうでしょうね。ただ……」
静江は、そこで言葉を切った。
ほんのわずかな沈黙だった。
「それまでの私には、ピアノがありました」
大塚は顔を上げた。
「ピアノが、ですか」
「ええ。毎日のレッスンが生活の中心でした。学校から帰ればピアノを弾く。休日もピアノを弾く。先生に教えていただき、次のレッスンまでに少しでも上達しようと努力する。それが当たり前の生活だったのです」
静江の瞳が、わずかに遠くを見つめた。
「ところが、先生が亡くなってしまった。私は、何を目標に生きていけばいいのか、わからなくなってしまったのです」
「それまでの生活の中心を失ってしまったのですね」
「そうです。中学時代を何とか乗り越えたという安堵もあったのでしょう。緊張の糸が切れてしまったのかもしれません。高校一年生のころは、何をしても意欲が湧きませんでした。勉強も、友人との付き合いも、以前ほど楽しいとは思えなかったのです」
大塚は、静江の話に耳を傾けながら考えた。
喪失のあとに訪れる空白。
それは、誰にでも起こり得ることだった。長年の目標を失った人間は、次に何をすればいいのか見失う。とりわけ、思春期の少女にとって、人生の指針となっていた人物を突然失うことは、想像以上の打撃だったに違いない。
ただし、静江の場合、ピアノ教師の死は、単なる恩師との別れではなかったはずだ。
彼女自身が語った、教師から受けていた過剰な接触。秘密のように交わされた手紙。自分を特別な存在として見つめる教師の眼差し。
それらの記憶が、少女の心のなかでどのように結びついていたのか。
大塚には、まだ想像することしかできなかった。
「そんな私を心配した父が、高校一年生の終わりごろ、ある提案をしてくれました」
静江は、そこで初めて、ほんの少し表情を明るくした。
「映画のオーディションを受けてみないか、と」
「映画のオーディションですか?」
「はい」
静江は微笑んだ。
「当時の私は、外見だけは、それなりによかったようです」
自分の美貌を話題にしているというのに、静江の口調には照れがなかった。
むしろ、他人の持ち物について説明しているような、淡々とした調子だった。
「中学生のころは、まだ子供っぽい顔立ちでしたけれど、高校生になると、ずいぶん大人びてきました。父は、私の顔を見て、何かに使えるのではないかと考えたのかもしれません」
「お父様は、どのようなお考えだったのでしょう」
「どうでしょうね。娘が元気をなくしているのを見て、新しい目標を与えたかったのかもしれません。あるいは、私の将来を心配していたのかもしれません」
静江は、少し首を傾けた。
「ただ、父は県会議員でしたから、人脈はそれなりにあったのです。映画会社の関係者とも、付き合いがあったのでしょう」
政治家の父親が、娘のために映画のオーディションを用意する。
不自然な話ではない。むしろ、恵まれた家庭なら十分にあり得ることだった。
それでも大塚は、静江の言葉のなかに、わずかな引っ掛かりを覚えた。
彼女は、父親の意図を語りながら、どこか他人事のようだった。
自分の人生を変えた出来事であるはずなのに、そこには感謝も反発も、はっきりとした感情も感じられない。
「私は、もともと人前に出るのが苦手でした」
静江は続けた。
「人嫌いというのでしょうか。引っ込み思案で、知らない人と話すだけでも緊張してしまうような子供だったのです。ですから、父から映画の話を聞かされたときも、あまり乗り気ではありませんでした」
「それでも、オーディションを受けることにしたのですね」
「母も勧めてくれましたし、気分転換になるかもしれないと思ったのです。それで、東京へ行くことにしました」
そのときのことを思い出したのか、静江は窓のほうへ目を向けた。
「最初は、ただ受けてみるだけのつもりでした。合格するとも思っていませんでしたし、映画に出たいという気持ちも、特にありませんでした」
「ところが、何かが変わった?」
「ええ」
静江は、ゆっくりとうなずいた。
「書類選考に通ったのです。東京へ向かうことが決まったころでしょうか。私は、急に思うようになりました。どうしても、このオーディションに合格したい。映画に出たい、と」
「それは、どうしてだったのでしょう」
大塚は、できるだけ自然な口調で尋ねた。
静江はすぐには答えなかった。
白い指先が、カップの取っ手に触れたまま止まっている。
「どうしてでしょうね」
やがて、彼女は笑った。
「自分でも、よくわからないのです。ただ、何かが始まるような気がしたのかもしれません。それまでの私には、ピアノしかありませんでした。先生が亡くなって、そのピアノさえも、以前と同じようには弾けなくなっていた。そんなときに、別の世界への扉が開いたのです」
静江の声が、少しだけ低くなった。
「その扉の向こうに、何があるのか。見てみたくなったのでしょうね」
大塚は、彼女の横顔を見つめた。
扉。
その言葉が、妙に心に残った。
少女は、恩師の死によって、それまでの世界を失った。そして、新しい世界へ続く扉を見つけた。
しかし、それは本当に、彼女自身が見つけた扉だったのだろうか。
それとも、誰かが彼女の前に用意したものだったのか。
大塚が考えを巡らせているうちに、静江は話を先へ進めた。
「二次選考にも合格し、最後の選考にも通りました。結果は、見事に合格です」
「それはすごいですね」
「役は、主人公の娘でした。出演場面はそれほど多くありませんでしたが、映画会社の方々は、私のことを気に入ってくださったようです」
静江は、わずかに胸を張った。
「その後、続けて三本の映画に出演することになりました。映画会社の方々は、私を将来の有力な女優候補として売り出したいと考えていたそうです。両親にも、そのように申し出があったと聞いています」
「高校生で、そこまで期待されるとは」
「私は、ただ言われたとおりにしていただけです。演技の勉強も、現場で教えていただくことばかりでした。それでも、周囲の方々は、私の将来に大きな期待を寄せてくださいました」
静江は、そこで言葉を止めた。
それまでの穏やかな表情が、ふと消えた。
「私の人生は、あのときから大きく変わりました」
応接室に沈黙が落ちた。
窓の外では、午後の光が少しずつ弱まり、庭の木々が長い影を地面に伸ばしていた。
大塚は、静江の顔を見つめた。
彼女は、自分の人生が変わったことを語っている。
けれど、その声には、成功を手にした人間の喜びがなかった。華やかな映画界への第一歩を踏み出した少女の、胸躍るような興奮も感じられない。
あるのは、ずっと昔に起きた出来事を、誰か別の人間の身に起きたことのように語る、奇妙な冷静さだった。
大塚は、ふと考えた。
彼女は、本当に女優になりたかったのだろうか。
それとも、ピアノ教師を失った空白を埋めるために、目の前に差し出された道を歩き始めただけなのだろうか。
そして、もうひとつ。
あの殺人事件は、彼女の人生にどのような影を落としているのだろう。
静江は、教師の死について、まだすべてを語ってはいない。
幼なじみの少年が、なぜ教師を殺したのか。なぜ、施設を出てわずか三日後に自ら命を絶ったのか。彼女自身は、その二つの死をどのように受け止めてきたのか。
それらの疑問は、解決されないまま、大塚の胸に積み重なっていた。
「大塚さん」
静江が、突然、彼の名を呼んだ。
「はい」
「人間というものは、不思議なものですね」
静江は、窓の外を見つめたまま言った。
「何かを失ったときには、もう二度と幸せにはなれないと思うものです。でも、人生は、思いもかけないところから変わっていく。自分では望んでいなかったことが、いつの間にか、何より大切なものになっていることもあるのです」
「そうかもしれませんね」
「ええ。私も、あのころは、まさか自分が映画に出るようになるなんて、夢にも思っていませんでした」
静江は、大塚に顔を向けた。
その目には、柔らかな光が宿っていた。
しかし、その光は、彼女の微笑みとどこか噛み合っていなかった。
「ただ……」
静江は、言葉を継いだ。
「人生には、自分では選んだつもりのない道を、歩かされていることもあるのではないでしょうか」
大塚は、返事をしなかった。
静江の言葉が、単なる人生論とは思えなかったからだ。
彼女は、何かをほのめかしている。
それが映画界に入った経緯を指しているのか。それとも、もっと昔、中学生だったころに起きた、あの忌まわしい事件を指しているのか。
大塚には、まだ判断できなかった。
静江は再び、紅茶のカップに手を伸ばした。
細い指が、白い磁器を包み込む。
「さて、大塚さん。次は、私が映画に出演するようになってからのお話をいたしましょう」
彼女は、いつもの優雅な微笑みを浮かべた。
「きっと、驚かれると思いますよ」
その声には、ほんのわずかに、愉しげな響きが混じっていた。
大塚は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
何に驚くというのだろう。
女優として成功した話だろうか。それとも、華やかな映画界の裏側に潜む、人間たちの欲望についてだろうか。
あるいは――。
静江の紫色のドレスが、夕暮れの影のなかで、いっそう深い色に沈んでいく。
その姿を見つめながら、大塚は思った。
この老女の人生には、まだ誰にも明かされていない何かがある。
そして彼女は、その秘密を一度に語るつもりなど、最初からないのだ。
まるで、獲物を少しずつ追い詰めるように。
あるいは、長いあいだ封じ込めてきた物語を、最も効果的な順序で披露するように。
静江は、次の話を始める前に、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
窓の外では、庭の木々が夕闇に溶け始めていた。
その木々のどれかに、かつて一人の少年が首を吊ったのと同じような、深い影が垂れ下がっているように見えた。
大塚は、目を伏せた。
まだ、何もわかっていない。
ただひとつ確かなことがあるとすれば、宮城静江という女の過去は、彼が最初に想像したよりも、はるかに深く、暗い場所へと続いているらしいということだった。
そして、その入口には、いつも美しい顔をした誰かが立っている。
その顔が、微笑んでいるのか。
それとも、こちらを見定めているのか。
大塚には、まだわからなかった。
次々に明かされる深淵の闇




