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老女の覚醒  作者: egochann
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薔薇のように美しい秘密

語られた深淵の森



 宮城静江は、冷めかけた紅茶のカップを両手で包み込んでいた。

 窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き、庭木の葉に深い陰影を落としている。磨き上げられたテーブルの上には、白いレースの敷物が広がり、その中央に置かれた銀色のティースプーンが、かすかな光を返していた。

 美しい部屋だった。

 調度品の一つ一つに品格があり、壁に掛けられた絵画にも、棚に並んだ陶磁器にも、持ち主の洗練された趣味が感じられる。

 それなのに、大塚はこの部屋にいると、いつも奇妙な息苦しさを覚えた。

 美しいものに囲まれているはずなのに、どこか冷たい。花の香りが漂っているのに、その奥に腐敗した何かの気配が潜んでいるような気がする。

 そして、その不気味さの中心にいるのが、目の前の老女、宮城静江だった。

「彼は逮捕され、処分が出て、養護施設に送られたのです。そこで半年ほど過ごし、家に帰されました」

 静江は、つい先ほどからの話を続けた。

「そして、帰宅して三日後、自宅の庭にある木にロープを掛けて、自殺したのです」

 その声には、感情らしいものがなかった。

 幼い頃から親しくしていた少年が、人を殺し、やがて自ら命を絶った。その悲劇を語っているというのに、彼女の口調は驚くほど平坦だった。

 大塚は、静江の顔を見つめた。

 その瞬間、彼女の瞳の奥に、何か黒いものが閃いたように感じた。

 憎悪だろうか。

 それとも、長い年月を経ても消えることのない、秘密めいた喜びなのだろうか。

 大塚は、自分の感覚を疑った。

 心理カウンセラーとして、相談者の言葉や表情を注意深く観察することは日常の仕事である。しかし、観察することと、勝手な解釈を加えることは違う。

 彼女の内面を理解するには、まだ情報が足りない。

 それでも、どうしても尋ねずにはいられなかった。

「どうして、彼は死んだのでしょうね」

 静江は、カップの縁を指先でなぞった。

「罪の重さに耐え切れなかったのでしょう」

 あっさりとした返事だった。

 そこには、幼馴染を哀れむ気持ちも、死を悼む様子もなかった。

 まるで、枯れた花が散るのを見届けたとでもいうような口調だった。

「まだ中学生だったのでしょう?」

「そうです」

「自分が犯した罪を、十分に理解できていたのかどうか……」

「人を殺したのですから、理解していたのではありませんか」

 静江は、少しも表情を変えずに答えた。

 大塚は、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。

 この老女は、なぜこれほど他人事のように話せるのだろう。

 幼い頃から親しくしていた少年が、殺人犯となり、最後には自ら命を絶ったのである。普通なら、悲しみや怒り、戸惑い、あるいは自責の念の一つくらいは表に出ても不思議ではない。

 だが、静江にはそれがなかった。

 いや、なかったというより、彼女はそうした感情を、まるで必要のないものとして扱っているように見えた。

 大塚は、もう一歩踏み込むことにした。

「宮城さん。彼は、どうしてあなたのピアノの先生を殺したのでしょうか」

「分かりません」

「本当に、何もご存じないのですか」

「何度も申し上げているとおりです」

「彼は、先生からピアノを習っていたのですか」

「いいえ。習っていませんでした」

「それでは、先生とは面識もなかったのでしょうか」

「私の知る限り、ありません」

 大塚は、ゆっくりと頷いた。

 面識のない女性を、なぜ殺害しなければならなかったのか。

 もちろん、通り魔的な犯行という可能性もある。しかし、被害者が静江のピアノの先生であり、犯人が静江の幼馴染だったという事実は、偶然として片づけるには気になる組み合わせだった。

「警察から、犯行の動機について何か説明はなかったのでしょうか」

「父が警察へ行ったそうです。私のことを心配していたのでしょう。ピアノの先生が殺され、その犯人が私の友人だったのですから。私がどれほどの衝撃を受けているか、父にも分かっていたのだと思います」

「それで、何か分かったのですか」

「いいえ。少年事件なので、詳しい情報は開示できないと言われたそうです」

 静江は、そこで言葉を切った。

 大塚は、彼女の顔から目を離さなかった。

「ですが、お父様は県会議員だったのでしょう?」

「そうです」

「地元でも、それなりに影響力のある方だったのではありませんか」

「父は県議会議員でした」

「それほどの立場にあった方なら、何とかして事件の真相を知ろうとなさったのではないでしょうか。警察から何も聞き出せなかったというのは、少し不思議に思えるのですが」

 静江の指が止まった。

 カップを支えていた手に、わずかな力がこもる。

「ああ……それは……」

 初めてだった。

 これまで、どれほど凄惨な出来事を語っても、静江の表情はほとんど変わらなかった。ところが今は、明らかに動揺している。

 大塚は、その変化を見逃さなかった。

「宮城さん。どうか、聞かせていただけませんか」

 彼は、できるだけ柔らかな声で言った。

「私は、あなたを責めようとしているのではありません。あなたが今抱えていらっしゃる心の闇と、この事件が関係しているのではないかと考えているのです。もしそうなら、当時のことを少しでも詳しく知ることが、あなたを理解する手掛かりになるかもしれません」

 静江は黙っていた。

 カップの中に残った紅茶を見つめている。

 その液面には、窓辺の光が細く揺れていた。

 やがて彼女は、ためらうように口を開いた。

「あまり、お話ししたくはないことなのですが……」

「お気持ちは分かります。失礼を承知で申し上げますが、あなたご自身のためにも、話しておいたほうがよいことがあるのではないでしょうか」

 しばらくして、静江は小さく息を吐いた。

「分かりました。お話ししましょう」

 そう言った彼女の頬に、かすかな赤みが差した。

 大塚は、その変化に違和感を覚えた。

 悲しい記憶を語ることにためらいがあるのなら分かる。しかし、彼女の顔に浮かんでいるのは、悲しみとは少し違うものだった。

 羞恥だろうか。

 それとも、長いあいだ胸の奥にしまい込んでいた秘密を、ようやく誰かに打ち明けられるという、奇妙な高揚感なのだろうか。

 静江は、静かに言った。

「私のピアノの先生は、私に恋をしていたのです」

 大塚は、思わず聞き返しそうになった。

「恋を……?」

「ええ。先生は女性でした。音楽大学の助教授で、三十代の終わりだったと思います。独身で、とても美しい方でした」

 静江の声に、ほんの少しだけ柔らかさが混じった。

「私は五歳の頃から先生にピアノを習っていました。先生は厳しい方でしたけれど、私のことを特別にかわいがってくださいました。私も先生が大好きでした。先生に褒められることが、何よりもうれしかったのです」

 彼女は遠くを見るような目をした。

「小学校の高学年になると、先生の態度が少しずつ変わっていきました」

 大塚は、黙って耳を傾けた。

「レッスン中に、ペダルの踏み方を教えると言って、私の太ももに触れるようになったのです。うまく弾けると、頬を撫でたり、肩に手を置いたり……。何かにつけて、私の身体に触れようとするようになりました」

 静江は、カップから手を離した。

「最初は、先生なりの愛情表現なのだと思っていました。でも、だんだん、そうではないと分かるようになりました」

「今でいう、セクシュアルハラスメントに当たる行為ですね」

 大塚がそう言うと、静江はかすかに頷いた。

「中学生になると、先生は私に手紙を渡すようになりました」

「手紙には、どのようなことが書かれていたのですか」

「ピアノの練習についての助言もありました。でも、それだけではありませんでした」

 静江は、少しずつ言葉を選びながら続けた。

「君のピアノを弾く姿は美しい。君がいるだけで、私は生きる希望を持つことができる。君と過ごす時間が、私にとって何よりも大切だ……。そうしたことが書かれていました」

 彼女は目を伏せた。

「先生と生徒の関係を、明らかに超えていました」

 大塚は、胸の内で何かがつながるのを感じた。

 尊敬していた大人から、特別な感情を向けられる少女。

 その秘密を知った幼馴染の少年。

 そして、突然、惨殺された女性教師。

 それぞれの出来事が、一本の細い糸で結ばれ始めたように思えた。

「そのことを、菊池君にも話していたのですね」

「はい」

「なぜ、彼に話そうと思ったのですか」

 静江は、すぐには答えなかった。

 長い睫毛の下で、瞳がかすかに揺れている。

「彼は、私の幼馴染でした。小さい頃から一緒に遊んでいましたし、学校でも親しくしていました。私は彼を信頼していたのです」

「彼に、先生のことを相談したのでしょうか」

「相談というより……。自分の気持ちを聞いてもらいたかったのだと思います」

 静江は、わずかに唇を噛んだ。

「先生のことが好きなのに、先生の態度が怖い。うれしいのに、嫌な気持ちもする。先生を傷つけたくないけれど、このままではいけない気もする……。そんな気持ちを、彼には話していました」

 大塚は、静江の言葉を注意深く受け止めた。

 十四歳の少女が、信頼する少年に胸の内を打ち明けた。

 そのこと自体は、何も不自然ではない。

 だが、少年がその話を聞いて、何を思ったのか。

 先生に対する怒りを募らせたのか。それとも、静江を守らなければならないと考えたのか。

 あるいは、二人の間には、大塚の想像も及ばない別の感情があったのだろうか。

「それで……」

 大塚は、慎重に尋ねた。

「菊池君は、先生のことを何と言っていたのですか」

 静江は、顔を上げた。

 その頬には、先ほどよりもはっきりと赤みが差していた。

「彼は、先生のことを嫌っていました」

「嫌っていた?」

「ええ。とても」

 静江は、そこで口を閉ざした。

 大塚は、彼女の次の言葉を待った。

 しかし、静江はそれ以上話そうとしなかった。

 窓の外で、風が木々の枝を揺らした。

 葉擦れの音が、かすかに部屋の中まで届いてくる。

 大塚は、初めて暗闇の中に灯りがともったような感覚を覚えていた。

 先生が少女に向けた、歪んだ愛情。

 少女が抱えていた、憧れと恐怖。

 その秘密を知った幼馴染の少年。

 そして、少年による殺人と、その後の自殺。

 事件の輪郭が、少しずつ見えてきたように思えた。

 だが、それは真相に近づいたというより、むしろ新たな謎の入口に立ったということなのかもしれなかった。

 なぜ、少年は先生を殺したのか。

 静江を守るためだったのか。

 それとも、彼自身の中に、誰にも知られてはならない感情があったのか。

 そして、静江は本当に何も知らないのだろうか。

 大塚が考え込んでいると、静江がふいに微笑んだ。

 それは、先ほどまでの無表情とは違う、どこか妖しい微笑みだった。

「先生は、とても美しい方でした」

 彼女は、誰に言うともなく呟いた。

「本当に……美しい方だったのです」

 その声には、懐かしさにも似た響きがあった。

 大塚は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 静江は、先生の死を悲しんでいるのだろうか。

 それとも、あの美しい女性が自分だけに向けていた感情を、今も心のどこかで愛おしんでいるのだろうか。

 あるいは、もっと別の何かを思い出しているのか。

 彼女の心の奥底は、相変わらず深い闇に覆われていた。

 そして、その闇の中には、まだ語られていない秘密が潜んでいる。

 大塚は、そう確信し始めていた。

 静江はカップを持ち上げた。

 冷めた紅茶を一口飲み、ゆっくりとテーブルに戻す。

 それから、彼女は大塚の目を見つめた。

「先生が殺された日のことを、私は今でも覚えています」

 静江の声は、先ほどよりも低く、静かだった。

「忘れられるはずがありませんもの」

 その言葉が、部屋の中に落ちた。

 大塚は、何も答えられなかった。

 静江の瞳の奥で、再び黒い光が揺れたように見えたからだった。

 それは、悲しみの光なのか。

 それとも、誰にも知られてはならない秘密を抱えた人間だけが持つ、暗い歓びの光なのか。

 大塚には、まだ分からなかった。

 ただ、彼は思った。

 この老女の話は、まだ始まったばかりなのだ。

 そして、これから語られることこそが、自分を本当の闇へ導くのかもしれない。

          *

 


老女の記憶の闇が次々に語られていく

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