死んだ幼馴染
語り始めた深淵な世界
「私のピアノの先生が亡くなったのです。それも、殺されたのです」
宮城静江は、まるで明日の天気でも話すような口調で言った。
その声には、悲しみも怒りもなかった。ましてや、長い年月を経ても消えないはずの恐怖など、どこにも感じられなかった。
心理カウンセラーの大塚は、思わず背筋を伸ばした。
目の前に座る老女は、相変わらず微動だにしない。白髪の一本一本まで整えられた髪。年齢を感じさせる深い皺。それなのに、顔全体から人間らしい温度が抜け落ちているように見える。
大塚は、先ほどから彼女の話に奇妙な違和感を覚えていた。
悲惨な過去を語っているはずなのに、語り手自身が、その出来事に何の関心も持っていないようなのだ。
まるで、他人の人生を記録した古い新聞記事を読み上げているかのようだった。
「それは……いつ頃のお話ですか」
大塚は慎重に尋ねた。
「私が中学二年生のときです」
静江は、膝の上で組んだ両手に視線を落とした。
「五歳のときからピアノを習っていました。先生は音楽大学の助教授をされている女性でした。厳しい方でしたけれど、私にはとても優しかった。私の才能を認めてくださって、将来は音楽の道に進むようにと、いつもおっしゃっていました」
そこで、静江はわずかに首を傾けた。
「その先生が、ある日、自宅のレッスン室で殺されていたのです」
大塚は息を呑んだ。
「胸に、刃渡り二十センチほどのナイフが突き刺さっていたそうです」
静江の声は変わらない。
むしろ、その淡々とした語り口が、話の内容をいっそう生々しいものにしていた。
大塚の脳裏に、薄暗いレッスン室が浮かんだ。
磨き上げられた黒いグランドピアノ。譜面台に置かれた楽譜。白鍵と黒鍵の上に落ちる、午後の淡い光。
そして、鍵盤のそばに倒れた女性の身体。
音楽を教えるための部屋で、命を奪うための刃物が振るわれた。
それだけで、十分におぞましい光景だった。
「先生が亡くなったことを知ったのは、学校から帰ったときでした」
静江は話を続けた。
「玄関に入ると、母がそこにうずくまっていたのです。顔色がひどく悪くて、何かあったのだとすぐに分かりました。私は母に尋ねました。どうしたの、と」
彼女は一度、言葉を切った。
「母は、ピアノの先生が亡くなったと言いました。私は驚いて、どうして、と聞いたのです。すると母は……」
静江の口元に、ほんのわずかな歪みが生じた。
笑ったのかと思ったが、そうではなかった。
「あなたには話せない、と言いました」
大塚は黙っていた。
母親が娘に真実を告げられなかった理由は、いくつも考えられる。あまりに残酷な現場だったのかもしれない。あるいは、警察から何かを聞かされ、子供には伝えられない事情があったのかもしれない。
いずれにしても、まだ十四歳の少女には耐えがたい出来事だったはずだ。
「私は自分の部屋に閉じこもりました。何も考えられませんでした。夕食も喉を通らなかった。先生が亡くなったということが、どうしても現実だとは思えなかったのです」
そこまで語っても、静江の顔には何の変化もなかった。
大塚は彼女の目を見た。
悲しみを押し殺しているのだろうか。それとも、悲しみがあまりに深かったために、感情そのものが凍りついてしまったのだろうか。
人間は、耐えがたい経験に直面したとき、感情を切り離すことで自分を守ろうとする場合がある。
大塚は職業上、そのことを知っていた。
しかし、目の前の老女の無表情には、そうした心理的な防衛だけでは説明しきれない何かがあった。
「父が帰宅したのは、深夜でした」
静江が言った。
「父は私の部屋に来て、先生が殺されたことを改めて話しました。犯人はまだ捕まっていないけれど、気をしっかり持ちなさい。きちんと食事をしなさい。そう言って、私を諭したのです」
「お父様は、ずいぶん心配されたのでしょうね」
「父は県会議員でしたから。家族のことについても、何かと気を遣っていたのだと思います」
静江は他人事のように答えた。
「犯人が捕まったのは、それから三日後でした」
大塚は、無意識のうちに膝の上で手を握りしめていた。
「犯人は、私のクラスメイトでした。菊池という男の子です」
その瞬間、静江の声がほんの少しだけ低くなった。
「幼馴染でした。小さい頃から親しくしていたのです。一緒に遊んだこともありますし、学校でも普通に話をしていました。まさか、あの子が先生を殺すなんて……」
静江は、そこで初めて大塚の顔を見た。
しかし、その瞳に浮かんでいたのは、懐かしさでも悲しみでもなかった。
何かを確かめるような、ひどく冷たい眼差しだった。
「先生を殺した犯人が、私の知っている男の子だった。私は、もう限りなく落ち込みました」
大塚は、静かに頷いた。
慕っていた先生が殺された。その犯人が、幼い頃から親しくしていた少年だった。
十四歳の少女にとって、それは世界の土台を根こそぎ崩されるような経験だったに違いない。
信じていたものが、信じられなくなる。
人間の顔が、それまでとは違って見える。
昨日まで隣で笑っていた少年が、ある日突然、恐ろしい犯罪者として自分の記憶の中に現れる。
その衝撃を想像するだけで、大塚の胸は重くなった。
「それは……大変な心痛だったでしょうね」
彼は、カウンセラーとしての立場をひとまず脇に置き、一人の人間として言った。
静江は答えなかった。
「一週間ほど、私は家の外に出られませんでした」
やがて彼女は、再び話し始めた。
「その間に、刑事さんが家に来たそうです。私から話を聞きたいと言ったらしいのですが、父が断りました」
「お父様が?」
「ええ。娘は精神的に不安定だから、今はそっとしておいてほしい。そう言ったのではないでしょうか。詳しいことは知りません。ただ、父が警察にそう告げれば、普通の家庭とは事情が違ったのだと思います」
静江の父親は県会議員だった。
警察がどの程度の配慮をしたのか、大塚には分からない。だが、事件の重要な関係者である少女への聞き取りが、父親の意向によって行われなかったというのは、少々気になる話だった。
もちろん、当時の状況を知らずに判断することはできない。
大塚は、その疑問をひとまず胸の内にしまった。
「ところで……菊池君は、どうして先生を殺したのでしょうか」
問いかけると、静江はゆっくりと首を横に振った。
「分かりません。逮捕されてから、一度も会っていませんから」
「動機についても、何も?」
「父は詳しく話してくれませんでした。少年だったので、刑務所には行かなかったのだと思いますけれど、その後どうなったのかも、よく分かりません」
大塚は考え込んだ。
少年による殺人事件。それも、被害者は音楽大学の助教授で、犯人は被害者の教え子の親しい友人だった。
世間の注目を集めても不思議ではない事件だ。
それなのに、静江は動機も処分も知らないという。
父親が意図的に娘を事件から遠ざけたのか。それとも、静江自身が、知りたくないことを知ろうとしなかったのか。
あるいは、もっと別の事情があったのか。
「少年事件とはいえ、殺人となれば重大な事件です。菊池君のご家族も、周囲の目に耐えられなかったのではないでしょうか。もしかすると、別の土地へ移られたのかもしれませんね」
大塚がそう言ったときだった。
静江の表情が、すっと硬くなった。
ほんの一瞬の変化だった。
だが、大塚は見逃さなかった。
それまで、どれほど凄惨な話をしても変わらなかった顔が、初めて何かに反応したのである。
彼は自分の発言を振り返った。
何か不適切なことを言っただろうか。
犯人の家族について触れたのがいけなかったのか。それとも、静江の記憶の中に、まだ語られていない何かがあるのだろうか。
静江は顔を伏せた。
白い指が、膝の上で組まれている。
沈黙が落ちた。
壁に掛けられた時計の音が、妙にはっきりと聞こえた。
こつ、こつ、こつ。
秒針が時を刻むたびに、部屋の空気が少しずつ重くなっていくようだった。
大塚は、次の言葉を待った。
沈黙を埋めるために不用意な質問をしてはいけない。カウンセリングでは、相手が言葉を探している時間を尊重することも大切なのだ。
頭では分かっていた。
それでも、今の沈黙には耐えがたいものがあった。
まるで、自分が知らず知らずのうちに、開けてはならない扉の前まで来てしまったような気がした。
どれほどの時間が経ったのだろう。
実際には、一分にも満たなかったのかもしれない。
やがて静江が、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、大塚を捉えた。
薄暗い部屋の中で、彼女の瞳だけが妙に鮮明に見えた。
「じつは……」
静江は、そこで一度言葉を切った。
大塚の喉が、小さく鳴った。
「その菊池という子は、事件のあと、すぐに死んでいるのです」
大塚は思わず椅子から立ち上がりそうになった。
「亡くなった……?」
「ええ」
「それは、どういう……」
「詳しいことは、私も知りません」
静江は、何事もなかったかのように答えた。
「ただ、死んだのです」
大塚は言葉を失った。
殺人犯となった少年が、その事件のあとすぐに死亡した。
事故だったのか。自ら命を絶ったのか。それとも、何者かに殺されたのか。
静江の話だけでは、何一つ分からない。
しかし、彼女はそれ以上説明しようとしなかった。
大塚の頭の中で、いくつもの疑問が渦巻いた。
菊池はなぜ、ピアノの先生を殺したのか。
その死は、先生の殺害事件と無関係だったのか。
そして、なぜ静江の父親は、娘が警察から事情を聞かれることを拒んだのか。
どれも、今すぐに答えを知りたい疑問だった。
だが、それ以上に大塚を困惑させていたのは、静江自身の反応だった。
親しかった幼馴染が殺人犯となり、ほどなくして死んだ。
その話をする彼女の顔には、悲しみも、怒りも、恐怖もなかった。
ただ、底の見えない静けさがあった。
人は、あまりに大きな悲しみを経験すると、感情を失ったように見えることがある。
大塚は、それを理解しているつもりだった。
しかし、目の前の老女に感じる違和感は、それとはどこか違っていた。
彼女は悲しみを隠しているのではない。
悲しみという感情そのものが、最初から存在しなかったかのように見えるのだ。
いや、そう考えるのは早計だろう。
大塚は自分を戒めた。
人の心を外見だけで判断してはならない。感情の表現は人それぞれだ。ましてや、半世紀以上も前の出来事である。記憶が変容している可能性もある。
カウンセラーとして、目の前の相談者を理解する努力を怠ってはならない。
それは彼が長年守ってきた信条だった。
だが、その信条を自分に言い聞かせるほど、胸の奥に不安が広がっていく。
静江の話には、何かが欠けている。
大切な何かが、意図的に抜き取られている。
そう感じてならなかった。
「宮城さん……」
大塚は、慎重に口を開いた。
「その出来事は、今でもあなたの心に残っているのでしょうか」
静江は、すぐには答えなかった。
彼女は大塚を見つめていた。
その眼差しには、先ほどまでとは違う何かが宿っていた。
好奇心。
そう呼ぶのが、いちばん近いのかもしれない。
まるで、こちらの心の動きを観察し、どこまで耐えられるのかを確かめているような目だった。
「先生」
静江が言った。
「あなたは、人間の心というものを、どこまで理解していらっしゃるのですか」
大塚は返事に窮した。
「私は心理カウンセラーです。人の心を理解するために、日々努力しています」
「理解するために、努力を?」
静江は、かすかに微笑んだ。
その笑みには、温かさがなかった。
「そうですか」
彼女はそれだけ言って、再び口を閉ざした。
大塚は、ひどく嫌な予感を覚えた。
自分は今、相談者の過去を聞いているのではない。
何かの試験を受けさせられているのではないか。
そんな考えが、ふいに頭をよぎった。
この老女は、いったい何を確かめようとしているのだろう。
自分の心を開こうとしているのか。それとも、自分の心の中にある、何かを見つけ出そうとしているのか。
静江の顔から、再び表情が消えた。
部屋の隅に置かれた古い置時計が、低い音を立てた。
その音を聞きながら、大塚は初めて、自分がこの面談を最後まで続けられるのかどうか、本気で不安になった。
心理カウンセラーとして、これまでさまざまな悩みを抱えた人々と向き合ってきた。
家族を失った人。人生に絶望した人。自分自身を許せない人。誰にも言えない秘密を抱え、救いを求めて訪ねてきた人。
どんな話にも耳を傾け、相手の心に寄り添う。それが自分の仕事だった。
しかし、宮城静江という老女は、これまで出会った誰とも違っていた。
彼女の話を聞けば聞くほど、理解に近づくどころか、見えない闇の奥へ引きずり込まれていくような気がする。
そして大塚は、まだ知らなかった。
今、静江が語ったのは、彼女の過去のほんの一部分にすぎないということを。
その記憶の底には、半世紀以上ものあいだ、誰にも明かされることなく封じられてきた、もう一つの真実が眠っているのかもしれなかった。
そして、その真実に触れたとき、自分自身もまた、決して無傷ではいられないのかもしれない。
大塚は、静江の目を見つめた。
老女は、微笑んでいた。
まるで、彼の考えをすべて見透かしているかのように。
その微笑みが何を意味しているのか、大塚には分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
この面談は、彼が当初考えていたような、ありふれた心理相談ではなかったのである。
そして、宮城静江という女は、自分が想像していた以上に、危険な何かを心の奥底に抱えている。
大塚は、そのことを直感していた。
それが何なのかを知るには、まだ時間が必要だった。
だが、知りたいという気持ちと、知ってはならないという恐怖が、彼の胸の中で、静かにせめぎ合い始めていた。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾いていた。
応接室の隅に、長い影が伸びていた。
その影は、まるで誰かがそこに立っているかのように見えた。
大塚は、思わず視線を向けた。
もちろん、誰もいなかった。
再び静江に目を戻すと、彼女は相変わらず、薄い笑みを浮かべていた。
その顔を見た瞬間、大塚は、なぜか胸の奥が冷たくなるのを感じた。
この老女は、いったい何を知っているのだろう。
そして、自分に何を語ろうとしているのだろう。
その答えを求めるように、大塚は静江を見つめ続けた。
静江は何も言わなかった。
ただ、その目だけが、静かに笑っていた。
*
悍ましい記憶の森に迷い込む




