紅蓮の瞳
洋館に一人暮らしの老女は闇への案内人のようだった
「まず、お話は私のほうからさせていただきます。途中で質問をなさらないでください」
宮城静江は、そう言って大塚祐太を見据えた。
それは相談者がカウンセラーに向ける言葉というより、これから始まる何かに立ち会う者へ告げる、厳格な命令のように聞こえた。
大塚は、思わず眉をひそめた。
心理カウンセリングにおいて、相談者の話に耳を傾けることは基本である。しかし、話の内容を整理し、必要に応じて質問を挟むこともまた、専門家としての役割だった。初対面から一方的に発言を制限されることには、いささかならず抵抗があった。
何と居丈高な老女なのだろう。
市役所からの紹介がなければ、こんな依頼は早々に切り上げていたかもしれない。
だが、口に出しかけた不満は、静江の目を見た瞬間、奇妙なほどあっけなく消え失せた。
その瞳には、尋常ではない何かがあった。
老いた人間の目に宿るはずの、諦念や疲労、あるいは長い人生を振り返る者の穏やかさ。そうしたものが、彼女の瞳には微塵も感じられなかった。
代わりに燃えていたのは、暗い炎だった。
憎しみなのか、執念なのか、それとも、もっと別の感情なのか。
大塚には判断できなかった。ただ、その眼差しの奥には、長い年月を経ても決して消えることのなかった何かが、赤黒い炎となって燃え続けているように思えた。
彼女が話し始めるのを待っていると、部屋の静寂が次第に重みを増していった。
壁を覆う深紅のビロード。暖炉の前に置かれたロッキングチェアー。窓を塞ぐように垂れ下がった厚手のカーテン。
それらが一体となって、外の世界からこの部屋を切り離しているようだった。
大塚は、ここから早く立ち去りたいと思った。
相談者の話を適当に聞き、当たり障りのない助言をして、頃合いを見て辞去すればいい。そう考えていたはずだった。
ところが、実際には腰を上げることさえできなかった。
静江の存在には、人をその場に縫い止めてしまうような奇妙な迫力があった。彼女が何を語るのか知りたいという好奇心と、知ってしまえば後戻りできなくなるのではないかという恐怖。その二つが、大塚の胸の内でせめぎ合っていた。
「よろしいですよ。どうぞ、お話しください」
ようやくそう答えると、静江はわずかに口元を緩めた。
「ありがとう。では、私の生い立ちからお話ししましょう」
「生い立ちから、ですか」
大塚は思わず口を挟んだ。
「お悩みになっていることからお聞きするのではなく?」
その瞬間だった。
静江の瞳から、先ほどまでの静かな炎が消えた。
いや、消えたのではない。
炎の底から、別のものが浮かび上がってきたのだ。
憎悪。
大塚には、そうとしか思えなかった。
それは、目の前の人間に対する一時的な怒りなどではなかった。もっと深く、もっと古い、長い年月の底に沈んでいた感情。ほんの一瞬、その感情が静江の瞳を満たし、彼女の顔から人間らしい温度を奪った。
大塚は喉の奥が乾くのを感じた。
「失礼しました。どうぞ、お話しください」
静江は何も答えなかった。
ただ、先ほどと同じように背筋を伸ばし、両手を膝の上に重ねた。
その仕草は優雅であり、同時にどこか儀式めいていた。
「私は、東北のある大きな町で生まれました」
彼女の声が、静かに部屋の中へ流れ始めた。
「父は酒造会社を経営しておりましてね。地元では、そこそこ知られた人間でした。会社を大きくしただけでなく、県会議員も務めておりましたから、いわゆる地方の名士というものでしょう」
静江は淡々と語った。
父親の会社には多くの従業員がいた。家には使用人もおり、季節ごとに客人が訪れた。地元の有力者が集まる宴席では、父親はいつも上座に座り、母親はその傍らで客人をもてなしたという。
裕福で、恵まれた家庭。
少なくとも、外から見れば何ひとつ不自由のない暮らしだった。
静江には兄がひとりいた。家業を継ぐのは兄と決まっていたため、娘である彼女には、将来の進路について比較的自由が与えられていたという。
「父は、私に好きなことをすればいいと言っていました。大学に行きたければ行けばいい。音楽をやりたければ音楽を。東京に出てみたいのなら、それも構わないと」
そこで静江は、かすかに笑った。
「今にして思えば、ずいぶん恵まれていたのでしょうね」
その笑みには、懐かしさよりも、どこか他人事のような響きがあった。
「それに、私は容姿にも恵まれていたそうです」
彼女は自分の顔に触れることもなく、まるで遠い昔に出会った別人について話すように続けた。
「小さい頃から、きれいな子だと言われました。親戚にも、近所の人にも、学校の先生にも。成績も悪くありませんでしたから、何をしても褒められる。そういう子供だったのです」
大塚は黙って聞いていた。
静江の顔立ちを見れば、若い頃に相当な美貌の持ち主だったことは容易に想像できた。年齢を重ねた今でも、整った鼻筋や薄い唇には、かつての面影が色濃く残っている。
しかし、彼女の話し方には、自慢している人間に特有の熱がなかった。
まるで、美しさも才能も、彼女にとってはすでに遠い過去の出来事でしかないかのようだった。
「母は教育熱心な人でした。五歳になるとピアノを習わされました。そのほかにも、英語、習字、バレエ。学校から帰れば習い事です。友達と遊ぶ時間など、ほとんどありませんでした」
静江は窓のほうへ視線を向けた。
カーテンの隙間から差し込む午後の光が、彼女の頬をかすめた。光の中に浮かぶ細かな埃が、ゆっくりと漂っていた。
「けれど、ピアノだけは違いました」
その声に、初めてわずかな変化が現れた。
「私はピアノが好きでした。鍵盤に指を置き、音を出す。それだけで、目の前に自分だけの世界が広がっていくような気がしたのです。嬉しいときも、悲しいときも、腹立たしいときも、ピアノを弾いている間だけは、何もかも忘れられました」
五歳から始めたピアノは、やがて彼女の生活の中心になった。
母親に言われたからではない。誰かに褒められたいからでもない。ただ、音楽そのものが好きだった。
家に帰ると、学校の勉強もそこそこに、ピアノの前に座った。何時間も鍵盤に向かい、指先が痛くなるまで練習したという。
やがて、その才能は周囲にも認められるようになった。
指導にあたったのは、音楽大学で助教授を務める男性教師だった。地方では名の知れた音楽家で、東京の音楽界にもつながりを持つ人物だったという。
「先生は、私の演奏をとても褒めてくださいました。あなたには才能がある。努力を続ければ、プロとして十分にやっていけるかもしれない。そうおっしゃったのです」
静江の声は、少しずつ柔らかくなっていた。
「先生に褒められるのが嬉しくて、私はますます夢中になりました。学校から帰ると、すぐにピアノの前に座る。食事の時間になっても、母に呼ばれるまで気づかないことがありました」
大塚は、ようやく彼女の中に、ごく普通の少女の姿を見いだした気がした。
裕福な家に生まれ、美しい容姿と音楽の才能を持ち、将来を期待されていた少女。
何不自由ない暮らしの中で、ひとつのことに夢中になり、褒められるたびに喜びを覚える。
その頃の静江は、きっと幸福だったのだろう。
だが、そう考えた直後、大塚は自分の考えを疑った。
静江は、幸福だったとは一言も言っていない。
ただ、恵まれていたことと、ピアノが好きだったことを語っただけだ。
幸福だったかどうか。
それだけは、彼女自身がまだ口にしていなかった。
「ところが、中学二年生のとき、ある事件が起きたのです」
静江は、そこで言葉を切った。
部屋の空気が、再び張り詰めた。
大塚は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「その事件を境に、私はピアノを辞めました」
先ほどまで、遠い昔を懐かしむように話していた静江の表情から、柔らかさが消えていた。
細い指が、膝の上でゆっくりと組み合わされた。
「それまでの私は、ピアノを弾くことが人生のすべてだったと言ってもいいでしょう。けれど、ある日を境に、鍵盤に触れることさえできなくなってしまったのです」
大塚は唾を飲み込んだ。
「……どのような事件だったのですか」
気づけば、彼は質問をしていた。
先ほど、質問はしないようにと言われたばかりだった。それでも、もう黙ってはいられなかった。
静江は彼を見た。
その瞳の奥に、再びあの暗い炎が灯り始めていた。
彼女は傍らのテーブルに置かれた紅茶のカップを手に取り、ゆっくりと一口含んだ。
そして、長いため息をついた。
「私の先生が、亡くなったのです」
静かな声だった。
あまりにも静かで、かえって不自然なほどだった。
大塚は、すぐには言葉を返せなかった。
人が亡くなること自体は、決して珍しい話ではない。ましてや、何十年も前の出来事である。老女が人生の転機となった恩師の死を語る。それだけなら、何も不思議なことはないはずだった。
それなのに、静江の口から発せられたその言葉には、単なる悲しみとは異なる響きがあった。
まるで、死という事実の向こう側に、誰も触れてはならない何かが潜んでいるかのようだった。
静江はカップをソーサーに戻した。
陶器の触れ合う音が、薄暗い室内に小さく響いた。
「先生が亡くなった日のことは、今でも昨日のことのように覚えております」
彼女は微笑んだ。
それは、懐かしい人を思い出した者の微笑みではなかった。
「いいえ……忘れようとしても、忘れられないのです」
深紅の壁が、夕暮れの光を吸い込みながら、いっそう暗い色へと沈んでいった。
大塚は、もうこの部屋を出たいとは思わなくなっていた。
いつの間にか、彼は静江の話の続きを待ち望んでいた。
それがカウンセラーとしての好奇心なのか、それとも彼女の瞳に宿る異様な力に引き寄せられているだけなのか、彼自身にもわからなかった。
ただひとつ確かなことがあった。
宮城静江が語ろうとしているのは、恩師を失った少女の悲しい思い出などではない。
それは、彼女の人生を決定的に変えた、何か別の出来事なのだ。
そして、その出来事は、今もなお彼女の心の奥底で、決して消えることのない炎となって燃え続けている。
静江は大塚を見つめたまま、再び口を開こうとしていた。
彼は息を潜め、その言葉を待った。
深淵の入り口が開かれようとする




