紅の館
私鉄に揺られて都心から二十分ほど。
その駅は、いわゆる山の手の高級住宅街の中にあった。
戦前から都心に暮らす裕福な人々が別荘を構えていた土地で、戦争によって都心が焼け野原になると、焼け出された富裕層が次々と移り住んできたという。
そのためだろうか、街には今も独特の品格があった。
住宅地には建築協定があり、六十坪に満たない敷地には住宅を建てることができない。ブロック塀だけの塀も認められておらず、ところどころには古い杉並木が残されている。
大きな邸宅がゆったりと間隔をあけて並び、街全体が静かな時間の中に置き去りにされたようだった。
目指す洋館は、街でもひときわ異彩を放っていた。
古くから名家が軒を連ねる高級住宅街。その一角に、周囲の邸宅とは明らかに趣を異にする建物があった。昭和初期に建てられた木造の洋館で、かつては財界の大物が別宅として所有していたという。戦後の財閥解体によって主を失い、その後は幾人もの所有者の手を渡り歩いた。十年前、宮城静江という老女がこの館を買い取り、ひとりで移り住んだのだった。
高い鉄柵に囲まれた敷地には、門の脇に樹齢を重ねた大木が枝を広げていた。幹は黒ずみ、地上に這い出した根は、長い歳月のあいだに大地を侵食してきた生き物のようにも見える。玄関へと続く砂利道の脇には、車寄せが設けられていた。
戦前の建築にありがちな荒廃や疲弊は、少なくとも外からは感じられなかった。壁も窓枠も丁寧に手入れされ、古びてはいても、朽ちてはいない。
むしろ、そこには何かを頑なに守り続けている家特有の、張り詰めた気配があった。
人が住んでいるというより、館そのものが、訪れる者を選んでいる。
そんな印象さえあった。
NPO法人「心の窓」で心理カウンセラーを務める大塚祐太が、その館を訪れたのは、午後も終わりに近づいた頃だった。
市役所からの依頼だった。
相談者は宮城静江。年齢は八十を超えている。生きる目的を失い、不眠に悩まされ、鬱状態に陥っている可能性がある。独居であり、周囲との交流も乏しい。早急な心理的支援が必要と判断された――。
報告書には、事務的な文言が並んでいた。
大塚はこれまで、似たような境遇にある高齢者を何人も担当してきた。伴侶を亡くした者。子供に先立たれた者。社会との接点を失い、長い余生を持て余す者。そうした人々の多くは、表情から生気が抜け、背中を丸め、言葉を発することさえ億劫そうにしていた。
だが、この館に暮らす老女については、なぜか報告書の文字だけでは捉えきれないものを感じていた。
大塚は門の脇に設けられた小さな通用口をくぐった。
敷地内に足を踏み入れると、街の音が急に遠のいた。車の走る音も、人の話し声も、厚い壁の向こうに閉じ込められたかのようだった。頭上では大木の枝葉が風に揺れていたが、そのざわめきさえ、どこか遠い場所で囁かれているように聞こえた。
玄関までは、思いのほか距離があった。
砂利を踏むたび、乾いた音が足元から立ち上がる。
ようやく玄関にたどり着くと、扉はわずかに開いていた。
大塚がインターフォンを押すと、すぐに応答があった。
「心の窓の大塚と申します。市役所から紹介されて伺いました」
「どうぞ、お入りください」
返ってきたのは、老女の声だった。
弱々しさの奥に、奇妙なほど確かな芯があった。声量は大きくない。それなのに、相手の言葉を待つ余地を与えないような、静かな力を帯びていた。
大塚は通用口を抜け、玄関へと歩み寄った。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
そう言って扉を押し開けた瞬間、彼は思わず言葉を失った。
そこに立っていた老女は、真紅のドレスをまとっていた。
年齢を考えれば、あまりにも鮮烈な色だった。深い赤というより、血の色を思わせる赤。華美であるはずなのに、けばけばしさはない。細身の身体に仕立てられたドレスは、老女の立ち姿をかえって際立たせていた。
背筋はまっすぐに伸び、顎はわずかに上がっている。人を迎えるというより、訪問者を見定めるために、そこに立っているようだった。
その姿には、老いがもたらす衰えとは別の時間が流れていた。
肩にかかる髪は、年齢相応に艶を失っていた。染められた色にも、ところどころに衰えが滲んでいる。しかし、顔立ちは驚くほど整っていた。通った鼻筋、薄い唇、深く刻まれてはいない皺。痩せた頬にも、老人特有の生々しい衰弱は見られなかった。
美しい、と言うべきなのだろうか。
大塚はそう考え、すぐにその考えを打ち消した。
この老女の印象を、単純に美醜で語ることはできない。
そこには、長い年月を生き抜いた者だけが持ち得る、冷ややかな威厳があった。それと同時に、何かを失った人間に特有の空虚さも、ほんのわずかに感じられた。
ただし、その空虚さは悲しみとは違っていた。
むしろ、底知れぬ何かを封じ込めた器のような空虚さだった。
「こちらへどうぞ」
老女はそれだけ言うと、身を翻した。
大塚は促されるまま、玄関ロビーに面した応接室へ通された。
一歩、室内に入ったとき、今度はその内装に目を奪われた。
壁一面が、濃い赤のビロードのような素材で覆われていた。光を吸い込むような深紅。その色は、壁紙というよりも、部屋そのものの血肉であるかのようだった。
窓は小さく、厚手のカーテンが引かれている。夕刻にはまだ早い時刻だというのに、室内には十分な自然光が届いていなかった。薄闇のなかで赤い壁だけが、鈍い光を帯びている。
右手の壁には、古い暖炉があった。
その前に置かれたロッキングチェアーは、誰かがつい先ほどまで座っていたかのように、わずかに傾いて見えた。隣には革張りのソファーがある。どちらも上質な品であることはわかったが、時代を感じさせる傷や皺が、長く使われてきたことを物語っていた。
それ以外に、目立った家具はない。
飾り棚もなければ、写真立てもない。花瓶も、絵画も、書物も見当たらなかった。
人が暮らしている家ならば、そこかしこに生活の痕跡が残るものだ。ましてや、ひとりで長く住んでいる高齢者の家であれば、亡き家族の写真や、使い古した品々のひとつくらいあってもよさそうだった。
しかし、この部屋には何もなかった。
まるで、住人の存在だけを残し、それ以外の一切を取り除いてしまったかのようだった。
「どうぞ、お掛けになって」
老女はソファーを示した。
「ありがとうございます」
大塚が腰を下ろすと、老女はお茶を用意してくると言い残し、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
その瞬間、静寂が戻ってきた。
大塚は室内を見回した。壁の赤は、見つめているうちに、単なる色彩ではない何かへと変わっていくようだった。光の加減なのか、目の錯覚なのか。壁の奥に、長い年月をかけて染み込んだ記憶でもあるのではないか。そんな馬鹿げた考えが、不意に脳裏をよぎった。
彼は小さく息を吐いた。
自分は心理カウンセラーだ。
建物の雰囲気に呑まれる必要はない。古い家には独特の匂いや空気がある。依頼人の印象が報告書と違っていたとしても、それだけで判断を変えるべきではない。
そう自分に言い聞かせた。
やがて、廊下から足音が聞こえてきた。
「お待たせしました」
老女が盆を手に戻ってきた。白い湯呑みから、かすかな湯気が立ち上っている。
彼女は盆をテーブルに置くと、向かい側の椅子に腰を下ろした。動作に無駄はなく、その一つひとつが、あらかじめ決められた手順をなぞっているように滑らかだった。
「宮城静江と申します」
老女は大塚を正面から見据え、静かに名乗った。
「本日は、わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、お時間をいただきまして」
大塚はそう答えようとした。
だが、言葉が続かなかった。
宮城静江の目を見たからだった。
その眼差しは、老いた人間のそれとは思えなかった。
濁りも、怯えも、相手にすがろうとする気配もない。黒い瞳の奥には、深く澄んだ光が宿っていた。いや、澄んでいるというより、暗い水底に沈んだ何かが、こちらをじっと見返しているようだった。
その目は大塚の顔を見ている。
しかし、彼の表情や身なりを観察しているのではない。
まるで、彼の奥にあるものを、ひとつずつ確かめているかのようだった。
大塚は職業柄、人の目を見ることには慣れていた。言葉にできない感情が、視線に表れることも知っている。悲しみ、怒り、恐怖、諦め。そうした感情を読み取ることは、彼の仕事の一部だった。
けれど、目の前の老女からは、どの感情も読み取れなかった。
その代わりに感じられたのは、途方もない時間の重みだった。
何十年という歳月ではない。
もっと長い、測ることのできない時間。
そんなものが、彼女の瞳の奥に折り畳まれているように思えた。
「大塚さん」
老女が口を開いた。
「あなたは、人の心を救うお仕事をなさっているのですね」
「救う、というほどのことではありません。お話を伺い、ご本人が少しでも楽になれるよう、お手伝いをする仕事です」
「そうですか」
静江は微笑んだ。
それは愛想笑いでも、皮肉な笑みでもなかった。相手の答えを聞き終えたうえで、何かを確かめた人間の笑みだった。
「では、ひとつお聞きしてもよろしいかしら」
「はい。もちろんです」
静江は湯呑みに手を伸ばした。白い指が取っ手のない器を包む。その手は痩せていたが、震えはなかった。
「人は、生きる目的を失ったら、どうすればよいのでしょう」
大塚は一瞬、息を止めた。
市役所からの報告書に記されていた言葉だった。
「生きる目的というのは、人によって違います。失ったと思っていても、別のところに見つかることもありますし……」
「見つからなかったら?」
静江が言葉を継いだ。
声は穏やかだった。
「もう、何も残っていなかったら?」
大塚は答えに窮した。
相談の初めにしては、あまりにも唐突な問いだった。しかし、静江の口調には、助言を求める切実さが感じられなかった。
むしろ、試されているようだった。
心理カウンセラーとしての知識を試されているのではない。人間として、彼が何を信じ、何を恐れているのか。その根底を見透かそうとしているように感じられた。
静江は湯呑みをテーブルに戻した。
陶器が触れ合う、小さな音がした。
「私はね、大塚さん」
彼女はそこで言葉を切った。
薄暗い部屋のなかで、真紅のドレスだけが、奇妙なほど鮮やかに浮かび上がっていた。
「もう、ずいぶん長いこと、生きてきましたの」
その言葉に、大塚はようやく気づいた。
市役所の報告書には、彼女が何を失ったのか、何に苦しんでいるのか、具体的なことは何ひとつ書かれていなかった。
そして今、目の前にいる老女は、自分の苦しみについて、まだ何も語ってはいない。
それなのに彼は、なぜか確信していた。
この館に招き入れられたのは、自分が彼女の悩みを聞くためだけではない。
ここには、報告書に記されていない何かがある。
この老女が十年前にこの館を買い、ひとりで暮らし続けてきた理由。生活の痕跡ひとつ見当たらない応接室。血のように赤い壁。そして、底知れない光を宿した瞳。
それらはすべて、何かひとつの秘密へとつながっているように思えた。
静江は、じっと大塚を見つめていた。
やがて、その唇がわずかに開いた。
「あなたに、お話ししたいことがあるのです」
暖炉の奥で、乾いた木が爆ぜたような音がした。
だが、火は入っていなかった。
大塚は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
静江の瞳の奥で、暗い光が揺れていた。
それが何を意味するのか、彼にはまだわからなかった。
ただ、この午後を境に、自分がこれまで信じてきた人間の心というものの輪郭が、少しずつ崩れていくことになる。
そんな予感だけが、確かなものとして胸の底に沈んでいた。




