9話 黒い槍の持ち主
三回。
二秒の沈黙。
もう三回。
地下四十一階へ続く旧式保全通路の第二隔壁から、同じ打音が返ってくる。
偶然じゃない。
鳴海主任が管理棟の壁時計を見た。
「最後に音を確認してから四分。中のやつが人間なら、体力を使わせるな。返事は決めた回数だけにしろ」
俺は隔壁の手前へ膝をついた。金属板へ直接耳を当てず、長い打診棒の先端を触れさせる。
手元へ届く振動は弱い。それでも、三回、二秒、三回の間隔は崩れていなかった。
俺は打診棒の柄で、こちらから二回だけ返した。
向こうから一回。
旧式の救難打音では、二回は〈受信した〉、一回は〈了解〉だ。
「聞こえてます。少なくとも、合図を理解できる人です」
その場にいた全員の息が、わずかにほどけた。
けれど、生体反応があることと、扉を開けて助け出せることは同じじゃない。
第二隔壁の表示窓は黒い。開閉灯も圧力計も止まっている。蝶番の周囲には細い亀裂が走り、下端から灰色の砂が少しずつこぼれていた。
力任せに開けば、隔壁の向こうに積もった瓦礫までこちらへ崩れるかもしれない。
「ミコト。隔壁の向こうの空気は、人が呼吸できる状態か」
手首の白い紋章が温かくなる。
『第二隔離区画の環境記録は欠損しています。現在値を取得できません』
「生体反応の呼吸数は分かる?」
『一分間に二十八回。変動幅は七回。正常値との照合には対象者情報が不足しています』
速い。
恐怖だけならいい。酸素が足りないか、怪我をしている可能性もある。
雨宮が携帯端末へ数字を記録した。
「成人なら頻呼吸。救出を急ぎたい。でも、扉を開ける前に空気を採りたい」
俺たちは隔壁から三メートル下がり、床へ黄色い線を引いた。城戸が大型盾を線の前へ据え、真壁が左右の壁へ退避用ロープを固定する。レナは剣を抜かず、柄へ手だけを置いた。
倉橋調査官が全員の配置を読み上げ、閉域記録へ残す。
俺は隔壁下端の隙間へ、細い樹脂管を差し込んだ。金属針を使えば、向こうの導管へ触れたときに魔力が流れるおそれがある。管の先を少しずつ進め、手押しの採気袋へ空気を引いた。
携帯測定器が短く鳴る。
「酸素は十八・九。少し低い。一酸化炭素は検出限界以下。可燃性ガスなし」
雨宮がすぐ答えた。
「短時間なら呼吸できます。ただ、長く待たせたくない」
「隔壁を開けずに空気を送ります」
樹脂管をもう一本通し、手動送風器につなぐ。急に大量の空気を入れれば、粉じんを巻き上げる。最初は弱く、採気側の数値を見ながら少しずつ送った。
隔壁の向こうで、一度だけ打音がした。
こちらの作業が伝わったらしい。
「開け方は?」
レナが低い声で聞いた。
俺は隔壁の右側へ目を向けた。扉そのものより、壁の奥から痛みの音がする。
細い金属線を強く張り、その中央を指ではじいたような音。高く、途切れそうで、同じ場所から何度も響く。
「正面の開閉機構は使えません。右の枠へ荷重が集まってます。ロックを外したら、扉じゃなく壁が落ちる」
「別の入口は」
倉橋が尋ねる。
ミコトの声が頭の奥へ触れた。
『保全用受渡口があります。床面から六十二センチ、隔壁左端から九十一センチ。現在は壁材に覆われています』
俺はミコトの言葉をそのまま全員へ伝えた。見えていない情報だ。現物で確かめるまで、入口が使えるとは決めない。
指定された位置を樹脂槌で軽く叩く。
周囲より鈍い音が返った。表面の補修材を薄く削ると、手のひら二つ分ほどの四角い継ぎ目が現れる。
「受渡口を確認。開けば人が通れる大きさになるか、ミコト」
『外板を除去後、開口は縦七十六センチ、横五十四センチです』
大人には狭い。それでも、正面隔壁を動かすより安全だ。
俺は作業手順を声に出した。
受渡口の周囲を支柱二本で仮受けする。外板へ二点ロープをかける。固定具を一つずつ緩め、そのたびに亀裂と粉じんを確認する。異音が変わったら即停止。
「久世さんが開口を作り、私が最初に入ります」
雨宮が言った。
「中が狭すぎた場合は?」
「私はチームで一番小さいです。治療具も背負わず、腰袋だけなら通れます」
レナが何か言いかけ、雨宮の顔を見て飲み込んだ。
代わりに自分の腰から細い命綱を外し、雨宮へ渡す。
「引く合図は一回。異常は連続。返事がなくても三分で引く」
「了解」
作業を始めた。
一つ目の固定具は錆びていた。回すのではなく、浸透剤を染み込ませて待つ。二つ目は頭が潰れていたため、外板側へ溝を切って工具をかけ直す。
急げば二分で壊せる。
壊した後に何が落ちるか確かめる時間を入れると、十二分かかった。
最後の固定具を半回転させたとき、壁の奥の高い音が一段上がった。
「止めて」
全員の手が止まる。
隔壁下からこぼれる砂が増えていた。仮支柱の左側に、髪の毛ほどの隙間ができている。
俺は支柱へ薄い荷重板を足し、床との間へくさびを打った。音が元の高さへ戻るまで、少しずつ力を移す。
「再開します」
外板がロープに支えられ、音を立てずに外れた。
開口の向こうは暗い。
雨宮が灯りを最低照度にして差し入れた。
光が届いたのは、二メートルほど先までだった。
床には白い管が何本も這い、その上へ天井材が斜めに落ちている。人が立って歩ける高さはない。奥へ続く隙間も、途中で石に塞がれていた。
「開口から奥まで、何メートルある」
『現在使用可能な待避空間は奥行き三・八メートルです。崩落前は九・二メートルでした』
半分以上が潰れている。
しかも、開口のすぐ内側を横切る白い管から、壁の痛みとは違う低い音がした。一定の間隔で液体を送る音だ。これを踏み割れば、中にいる人へ何が起きるか分からない。
「雨宮さん、右膝をつく位置に管があります。入ったら左肘で体を支えて。正面の板は天井を受けてるので押さないでください」
俺は開口の外から、触れてよい床へ一本ずつ番号を付けた布札を置いた。
雨宮は動きを声に出しながら進む。
「左肘、異常なし。一番札へ右手。身体を通します」
救助する側が新しい崩落を起こさないために、数十センチを何度も確かめた。
「探索局救助班です。聞こえますか」
しばらく返事がなかった。
命綱を引く準備をしたとき、かすれた声がした。
「聞こえ、ます」
若い女の声だった。
「名前を言えますか」
「白石……灯。シルバー・バードの、記録術師です」
半年前に消息を絶ったチームの名が、隔壁の向こうから返ってきた。
レナの手が、剣の柄を強く握る。
倉橋は表情を変えず、時刻と本人申告の名前を記録した。
「白石さん。今から治療術師が入ります。動かずに待てますか」
「はい。でも、床の……白い線には、触らないで」
俺は開口へ近づきすぎない位置から中を照らした。
狭い保全待避室だった。奥の壁は瓦礫で塞がれ、床には乳白色の細い導管が何本も露出している。その間に、短い髪の少女が座り込んでいた。
頬は痩せ、左足首には布が巻かれている。肩から提げた硬い記録箱を、両腕で抱えていた。
半年。
普通の食料や水で耐えられる時間じゃない。
その疑問を口にする前に、雨宮が開口を抜けた。
脈、意識、瞳孔、外傷。順に確認し、水を一度に飲ませず、濡らした布で口を湿らせる。
「左足首に腫れ。古い傷です。体温は低い。意識は清明。搬出できます」
白石は記録箱を離そうとしなかった。
「それも運びます。あなたと同時に」
倉橋が言うと、ようやく指の力が緩んだ。
記録箱は白石の肩から外せなかった。帯の金具が潰れ、瓦礫の角へ噛み込んでいる。
雨宮が小型の切断具を出したが、白石が首を振った。
「帯に、記録を保つ術式が通っています。切ると、中身が消えるかもしれない」
「身体を優先します」
雨宮の声は揺れなかった。
「箱が原因で出せないなら切ります。記録を残すためにも、あなたが説明できる状態で帰る必要があります」
白石は目を閉じ、やがて頷いた。
俺は開口越しに帯の張り方を確認した。切る前に、瓦礫へかかっている力だけを抜けるかもしれない。
細い樹脂板を雨宮へ渡し、帯と石の間へ差し込んでもらう。板を滑らせながら箱を数センチ持ち上げると、潰れた金具が瓦礫から外れた。
帯は切らずに済んだ。
開口を広げる余裕はない。白石の身体を布担架へ固定し、頭からゆっくり通す。雨宮が中から押し、城戸と救助班員が外で受ける。
左足が開口へ触れたとき、白石が息を詰めた。
「止めます」
一度戻し、足首の横へ薄い保護板を差し込む。開口の金具を布で包み、角度を変えて通した。
白石の全身がこちら側へ出た直後、奥で石の崩れる音がした。
レナが剣を抜きかける。
「壁です。生体反応じゃない」
俺が言うと、彼女は刃を鞘へ戻した。
白石は担架の上で目を開け、俺の手首を見た。
「その印……保全の人、ですか」
「東央迷宮サービスの清掃員です」
「清掃員……」
弱った顔に、ほんの少しだけ笑いが浮かんだ。
「迅さんが聞いたら、喜ぶと思います」
鷹森迅。
黒い槍に刻まれていた銀の鳥の持ち主だ。
「鷹森さんは、どこにいるんですか」
白石の笑みが消えた。
「分かりません」
倉橋が俺を制し、救命を優先するよう告げた。それ以上の質問は地上で医師の許可を得てからだ。
俺たちは隔壁を開けないまま受渡口を仮封鎖し、白石を地上へ運んだ。
搬送中、彼女は何度も目を閉じた。そのたびに雨宮が名前を呼び、白石は小さく返事をした。
地上の救護室で検査が始まった。
白石が半年を生き延びられた理由は、待避室の設備にあった。壁から一日二回、栄養を含んだ透明な保全液が少量ずつ出る。ミコトはそれを〈保全補助者用緊急維持食〉と呼んだ。
ただし、十分な量ではない。白石は著しく衰弱し、脱水と筋力低下がある。すぐに長い事情聴取ができる状態ではなかった。
壁の管は、もともと七日間の救助待機を想定した設備だった。白石は一日分を二日に分け、管の結露を布へ集めて水を補ったという。眠る時間を長くし、打音は朝と夜の二度だけにした。
それでも半年という時間を説明するには足りない。
『待避対象者の生命維持を優先し、周辺循環から供給を継続しました』
ミコトはそう答えた。
周辺循環から何を、どれだけ回したのか。白石の身体へ影響がないのか。救護室の医師が追加検査を指示し、倉橋も未確認事項として記録した。
助かったという結果だけで、安全だったことにはできない。
それでも彼女は、記録箱だけは自分の見える場所に置いてほしいと頼んだ。
医師が十五分だけ許可し、倉橋、レナ、俺が救護室へ入った。
白石は毛布の下で両手を組んでいた。
「黒い槍について、一点だけ確認します」
倉橋が写真を見せる。
白石は折れた槍を見て、目に涙をためた。
「迅さんのです。でも、最初から迅さんの武器だったわけじゃありません」
「どこで入手しましたか」
「地下四十一階の奥です。壁の収納に入っていました。槍に見えたから、迅さんが持ちました。でも、刃はなくて……柄の文字を読むと、導管固定具と書いてあった」
黒い槍は武器ではない。
旧式の保全工具だった。
「銀の鳥の刻印は」
「見分けるために、後から私たちが刻みました。迅さんの装備には、全部つけていたから」
白石は息を整え、途切れながら続けた。
半年前、シルバー・バードは地下四十一階で、正規地図にない通路へ入った。奥で導管が大きく裂け、天井が沈み始めた。
鷹森は黒い工具を裂け目の固定穴へ差し込み、横の環を回した。沈んでいた天井は止まったが、通路の隔壁が次々と閉じた。
「迅さんは、私に記録箱を持って逃げろって言いました。自分は固定具が抜けないように押さえるって」
「ほかの仲間は?」
「迅さんのところへ戻りました。私は一人で待避室へ入って、その直後に壁が崩れて……戻れなくなった」
「それ以降、鷹森さんたちの声を聞きましたか」
白石は長く黙った。
「声はありません。でも、三日前まで、奥の導管を伝って音が来ていました」
「どんな音ですか」
「四回、少し間を置いて、一回。私たちが使っていた合図です。〈まだ進む〉」
それが人の打音か、設備の反復音か、今は判別できない。
鷹森たちが生きている証拠にはならない。
けれど、半年前に閉じた通路の奥で、三日前まで新しい音がしていた。
白石は記録箱へ視線を向けた。
「中に、迅さんが槍を使う前までの記録があります。地図も、壁に書いてあった文字も、全部」
倉橋が箱をその場で開けず、封印番号を付けた。白石本人の同意、医師の立会い、複製手順を記録してから読み出すためだ。
医師が時間を告げる。
俺たちが退出しようとしたとき、白石が俺を呼び止めた。
「久世さん」
名乗っていない。
俺が振り返ると、彼女は俺の手首の白い輪を見た。
「待避室の壁に、その印と同じ形がありました。その下に名前が出たんです」
「俺の名前が?」
「はい。救難先、久世直人。接続が戻るまで、記録を保持せよって」
白石が閉じ込められたのは半年前だ。
ミコトが俺を保全担当者として認定したのは、数日前。
なのに待避室の壁は、俺が来ることを知っていた。
救護室を出ると、倉橋が封印した記録箱を抱えていた。
箱の側面に、古い文字で一行だけ刻まれている。
〈第八都市保全記録・引継用〉
俺の手首で、白い紋章が脈を打った。




