8話 御堂アークスの買収条件
「保全記録の公開範囲は、御堂アークスが決定する」
俺が契約書の一文を読み上げると、会議室の空気が冷えた。
提示年俸は今の収入の十二倍。社宅ではなく都心の専用住宅、能力使用後の治療費、専属補助員二名まで付く。条件だけを見れば、契約作業員の俺が断る理由はない。
ただし、俺が現場で得た記録も、ミコトから受け取った情報も、公開するかどうかは会社が決める。
「返事は今日でなくていいそうだ」
鳴海主任が封書を机へ戻した。
「七日間。弁護士へ見せてもいい。東央迷宮サービスを辞めるなら、引き継ぎ期間も向こうが買い取る」
「主任は、止めないんですか」
「止めてほしい顔をするな。十二倍だぞ。俺なら一度は電卓を叩く」
主任はそう言ってから、契約書の末尾を指で叩いた。
「ただし、ここを読まずに判を押したら殴る」
御堂アークスの名の下には、情報資産、独占利用、守秘義務という文字が並んでいた。
昨日の配信で藤崎が止めた中継器の事故も、会社の許可がなければ話せなくなる。地下四十一階で見つけた壊された安全ピンも、過剰に積まれた魔石も、契約後に知れば社外秘になる。
見えない仕事の値段は上がる。
仕事そのものは、また見えなくなる。
「会ってから決めます」
「そう言うと思った。倉橋さんが立会人に入る。単独で行くな」
「商談ですよ」
「お前は耳鳴りがしても大丈夫と言う男だ。金額で目を回しても自己申告を信用できん」
翌日の午前十時、御堂アークス本社の二十六階で面談が始まった。
窓の向こうに、新宿第八ダンジョンを覆う白い隔離屋根が見える。その周囲を、御堂アークスの社名が入った搬送車が何台も走っていた。
御堂蓮司は二十九歳には見えないほど落ち着いていた。濃い灰色のスーツに、飾りのない黒い腕時計。笑顔は柔らかいが、机の上の紙は角まで揃っている。
「久世直人さん。昨日の公式配信を拝見しました。停止判断を個人の勘ではなく、再現可能な手順へ変えようとされた。高く評価しています」
「ありがとうございます」
「率直に申し上げます。あなたの現在の待遇は、能力と責任に見合っていません」
否定できなかった。
契約作業員の給料で、地下四十一階の崩落を止めた。事情聴取と再点検に出ても、手当は社内規定の範囲だった。会社が悪いというより、俺のような仕事を想定した賃金表がなかった。
蓮司は契約書とは別の紙を差し出した。
年間の医療費上限、補助員の資格、勤務時間、危険手当。どれも具体的な数字が入っている。
「能力使用後の平衡検査は毎回実施します。医師が中止を判断した場合、現場責任者にも覆させません。聴覚障害が残った場合の補償も用意します」
俺の弱点を利用するだけの契約ではない。
だからこそ、最後の条件が重かった。
「記録を御社が管理する理由を聞かせてください」
「誤った情報が市場へ出れば、採掘権と探索計画が混乱します。未確認の仮説を公開して株価や地域経済を揺らすことは、公益とは呼べません」
「確認できた事故原因は?」
「必要な相手へ開示します」
「必要な相手を決めるのは」
「弊社です」
即答だった。
倉橋さんが口を挟む。
「探索局へ提出する法定記録まで制限する条項ではありませんね」
「もちろんです。法令と行政命令には従います」
「法定項目にない、事故の前兆や採掘量との相関は?」
蓮司は僅かに間を置いた。
「企業秘密として扱う場合があります」
机の端に、水の入った硝子瓶が置かれていた。新宿第八ダンジョン産の魔石を利用した浄水器の商品見本だという。
御堂アークスは、迷宮から出る物で何千人もの仕事を作っている。全部を止めればいいわけではない。
だが、過剰採掘で迷宮の循環が乱れた可能性を隠せば、次の現場の誰かが同じ床を踏む。
「契約書へ条件を三つ追加してください」
俺は持参した紙を開いた。
「一つ。人命と構造安全に関係する記録は、確認後七十二時間以内に探索局と関係事業者へ開示する。公開を延期する場合は、理由と期限を第三者が確認できる形で残す」
蓮司の隣にいた法務担当が書き始めた。
「二つ。現場で危険を確認したとき、俺には作業停止を要請するだけでなく、九十秒の緊急停止を発令する権限がある。その間に現場責任者と医療担当が継続か撤退かを判断する」
「御堂アークスの指揮系統へ、外部出身者が停止権限を持つと?」
「俺が御社の社員になるなら、外部ではありません」
蓮司は初めて、少しだけ笑った。
「三つ。ミコトの発言を、俺個人や御社の所有物として扱わない。原文、質問した人、質問した時刻、回答できなかった項目を記録する。都合のいい答えだけを切り取らない」
法務担当のペンが止まった。
「管理人格に権利主体性を認める要求ですか」
「そこまでは俺に決められません。でも、ミコトは情報が入力されなければ判断できないと言った。質問の仕方で答えが変わる相手です。答えだけを会社の財産にしたら、間違いの原因を調べられなくなります」
蓮司は紙を受け取る前に、法務担当から白い端末を受け取った。
「では、仮の事例で確かめましょう」
画面に地下三十二階の採掘記録が映る。御堂アークスが今日の面談用に用意した資料だった。
一日あたりの採掘量、作業人数、魔物の出現数、床温度。数字は細かい。しかし、どの壁から採ったかを示す区画番号がない。
「この記録を公開すれば、十分だと思いますか」
「思いません」
「採掘量は記載されています」
「一つの階層全体の合計です。循環路の近くで採ったのか、外縁で採ったのか分からない」
俺は二日前に見た回収機を思い出した。推奨量の二百八十七パーセントまで魔石を詰め込まれ、吐き出せなくなっていた。
「それに、異常がなかった日だけでは比べられません。床鳴り、迷宮漏れ、魔物の移動、回収機の詰まり。採掘前と後で同じ項目を測らないと、原因に近づけない」
「すべて測れば作業が遅れます」
「はい。だから最初に、最低限を決めます」
紙を一枚借り、採掘前後に残す項目を書いた。
区画番号。採掘開始と終了の時刻。魔石の重量。循環路からの距離。床と壁の温度。作業前後の異音。設備の警告。途中停止の有無。
「十項目ですね」
「八つです。時刻と温度を二つずつに数えれば十ですけど、欄は八つで済みます」
法務担当の隣にいた技術者が、初めて口を開いた。
「測定に一班あたり十三分は増えます。深層班が六班なら、一日七十八分です」
「事故で階層を閉鎖したら?」
「前回は十一日でした」
「比較するなら、増える七十八分と、失う十一日を同じ紙へ書いてください」
技術者は端末を操作した。
深層班六班の人件費、停止中の採掘損失、復旧業者への支払いが並ぶ。記録作業の増加分は一日十二万円。十一日の閉鎖損失は七千三百万円を超えた。
もちろん、記録を取れば事故が必ず消えるわけではない。それでも、比較する数字を片方だけ見せるのは違う。
蓮司が問う。
「事故との因果が証明される前でも、記録を公開しますか」
「事実と推測を分けて出します。採掘量が何キロだった。どんな異常が起きた。関係は調査中。それなら、証明されていない原因を断定せず、次の班へ危険を知らせられる」
「世間は『調査中』を読み飛ばします」
「だから原文と一覧を残すんです。短い発表だけで決めさせないために」
窓の外を搬送車が曲がった。荷台には、迷宮から採れた青い魔石が積まれている。
あれで発電設備が動き、病院も工場も電気を使う。採掘そのものを悪と呼ぶつもりはない。
「止めたいんじゃありません」
俺は言った。
「壊れるまで続ける以外のやり方を作りたいんです」
蓮司は採掘記録と、俺が書いた八項目を重ねた。
「あなたを雇えば、弊社に不利な情報も外へ出すと宣言している」
「不利な情報を先に使って事故を止めれば、十一日を失わずに済むかもしれません」
「それを利益と呼びますか」
「人が帰ってこられるなら。結果として会社にも利益が残ります」
蓮司の指が、八項目の紙の上で止まった。
それから、ようやく俺の三条件を受け取った。
「あなたは、ご自身の待遇より記録を優先するのですね」
「待遇も大事です」
十二倍という数字は、今も頭から離れていない。母へ仕送りを増やせる。父の事故を調べる時間も買える。耳に障害が残った後の生活も守れる。
「だから、同じ条件で記録も守りたい」
「両方を得られる契約ばかりではありません」
「両方が必要な仕事だと思っています」
面談は一時間四十分続いた。
医療補償と補助員には合意できた。九十秒停止権限も、地下二十階より深い現場と保全指定区画に限るなら検討すると言われた。
記録の自動開示だけは、蓮司が譲らなかった。
「御堂アークスは、競合他社へ採掘技術を無償で渡す慈善団体ではありません」
「採掘方法を全部出せとは言っていません。どれだけ採った後に、どんな異常が出たかです」
「それこそ採掘効率の中心情報です」
「事故を防ぐための中心情報でもあります」
結論は出なかった。
蓮司は七日間の回答期限を取り消し、修正案を三日以内に返すと約束した。俺も、その場で契約を断らなかった。
面談室を出る直前、技術者が俺を呼び止めた。
「先ほどの八項目、現場ではもう二つ必要です」
彼は周囲を気にしながら、紙の余白へ〈振動値〉と〈回収機の整備番号〉を書き足した。
「床温度だけでは、採掘機の振動と迷宮側の変化を分けられません。整備番号がなければ、機械の故障履歴とも結べない」
「今の記録には?」
「採掘班の作業日報と、整備班の台帳が別です。照合は事故後にしかしていません」
「名前を聞いても?」
技術者の肩が固くなった。
「公開記録の担当者欄へ載せるためです。告発者としてではありません」
彼は少し考え、名刺を差し出した。
設備安全課、三枝浩一。
「保全記録が外へ出ることを、社員全員が嫌がっているわけではありません。ただ、自分から不利な数字を出せば、採掘を遅らせた責任だけが残る」
「止めて事故を防いだ記録は、評価に入りませんか」
「採掘量は月ごとに数字になります。起きなかった事故は、ゼロとしか書かれない」
昨日の藤崎と同じだった。
止めた結果、何も起きなければ、怖がっただけだと思われる。
だから停止票には、止めた理由と、見つけた異常と、再開条件を残した。
「三枝さん。この二項目も修正案へ入れていいですか」
「私の名前ごと入れてください。後から聞いていないと言われる方が困ります」
名刺と紙を、倉橋さんにも見える位置で撮影した。
一人の内緒話にしない。証言を抱え込めば、その人がいなくなったときに消える。
御堂アークスの廊下には、今月の採掘量を示す大きな表示板があった。目標まであと十二パーセント。その下に、無事故継続日数が小さく表示されている。
百四十二日。
どちらも大事な数字なのに、文字の大きさは十倍ほど違っていた。
エレベーターを待つ間、俺は倉橋さんへ言った。
「採掘量を減らせと言うだけでは、現場の人が隠す理由を増やすかもしれません」
「では、何を変えますか」
「止めて守ったものも数えます。落ちなかった機械、閉鎖せずに済んだ日数、帰れた人数。事故が起きなかった理由を、ゼロの中へ残したい」
倉橋さんは手帳へ〈予防の記録〉と書いた。
「契約の成否にかかわらず、探索局の検討事項にします」
会社へ雇われるかどうかは、まだ決まっていない。
それでも、今日の話を今日だけで終わらせない道が一つ増えた。
帰りのエレベーターで、倉橋さんが尋ねた。
「十二倍を捨てるのが惜しいですか」
「かなり」
「正直ですね」
「父なら記録を残せと言います。でも、父は自分の事故記録を残せなかった」
地下鉄設備事故という四文字しか、俺には知らされていない。
どの設備に触れ、何を見つけ、誰へ報告したのか。記録がないから、息子の俺にも分からない。
「だから、同じことをしたくない」
倉橋さんは返事をせず、手帳へその言葉を書いた。
東央迷宮サービスへ戻ると、鳴海主任が保全倉庫の前で待っていた。
「商談帰りに悪いが、現場だ」
「どこですか」
「地下四十一階へ続く旧式通路。閉じていたはずの第二隔壁が、内側から三回叩かれた」
胸の奥が冷えた。
あの通路の先には、シルバー・バードに似た足跡が残っていた。
「魔物ですか」
「ミコトは生体反応を一つ検出した。ただし、魔物の登録形式と一致しない」
閉域端末へ、ミコトの文字が表示されている。
『保全補助者候補より、救難信号を受信しました』
その下に、百八十七年前の様式で記された短い信号があった。
三回、間を置いて二回、もう一度三回。
人が設備の向こうにいると知らせる、古い打音だった。




