7話 修理屋の初配信
「止めてください。今の音、さっきと違います」
藤崎芽衣がそう言った瞬間、配信画面のコメントが止まった。
止まったように見えたのは一秒だけだ。
すぐに八万を超える視聴者の言葉が、濁流のように画面を流れ始める。
〈開始三分で停止?〉
〈何もいないぞ〉
〈新人が怖がっただけでは〉
〈天城レナの戦闘を見に来たんだけど〉
俺は手元のコメント表示を閉じた。
新宿第八ダンジョン地下七階。入口から二百メートルほどの保全用通路で、ブルー・クラウンの五人と、昨日の講習に参加した新人二人が足を止めている。
頭上の三台の公式撮影球には、探索局の青い認証灯が点いていた。
今日の配信題は〈攻略しない探索者――三十秒で事故を止める方法〉。
広報室が最初に出した九十秒という数字は、講習後に改められた。停止の宣言から最初の確認を始めるまで三十秒。異常が見つかれば、その後の点検時間に上限は設けない。
題名だけなら簡単そうに見える。
実際にやることは、簡単ではない。
「停止時刻、十時七分十二秒」
倉橋さんが読み上げた。
「申告者、藤崎芽衣。全員、その場から動かないでください。確認を開始します」
藤崎の顔は青かった。
昨日なら、自分の聞き間違いだと言っていたかもしれない。
今日は八万人の前で手を上げた。
レナが藤崎の隣へ立つ。
「何が違った?」
「金属を引きずる音がしました。一度だけです。右側の壁の奥から」
「聞こえた人」
レナが全員へ尋ねる。
岡部陸と夏目が手を上げた。
俺には別の音が聞こえていた。
細い針金を何度も折り曲げたときのような、短く乾いた音だ。
迷宮が痛がる低い響きではない。人間が取り付けた設備のどこかで、金属が限界へ近づいている。
「入口」
倉橋さんの確認に、城戸が答えた。
「開放状態。帰路に障害なし」
「人数」
「十一人。探索者七、保全員二、撮影と探索局職員が二」
「床」
真壁がしゃがみ、盾の先で床へ触れる。
「段差なし。振動は一定。魔物の接近反応もない」
「壁」
俺は藤崎が指した右壁を見た。
灰色の岩盤へ、後付けの配線管が三本固定されている。そのうち一本が、昨日の記録写真より僅かに下がっていた。
「撮影球二番。壁の固定金具を拡大できますか」
銀色の撮影球が近づく。
「正面ではなく斜めから。金具の裏を映してください」
映像に、固定ボルトの根元へ走る髪の毛ほどの黒い線が映った。
〈傷?〉
〈汚れじゃないの〉
〈こんなの配信で分かるか〉
コメントを読み上げる夏目が俺を見る。
「久世さん、視聴者にも説明を」
「まだ傷とは決められません。汚れかもしれない。触る前に、上と下が何を支えているか確認します」
俺は携帯端末で保全図面を開いた。
三本のうち、上の二本は照明と通信。下の一本は、地下六階の排水監視器から管理棟へ信号を送る古い配線だ。
だが、管の上には別のものが載っていた。
配信のため昨日増設された撮影中継器。その支持枠が、本来の固定金具ではなく配線管の留め具へ重ねて取り付けられている。
「中継器の重量は?」
広報担当の顔が強張った。
「支持枠を含めて二十二キロです」
「配線管の留め具が支えていい荷重は?」
答えは図面にあった。
四キロ。
真壁が口笛を吹きかけ、倉橋さんに睨まれて口を閉じた。
「触らないでください。固定部が破断しかけています」
岡部が全員を二歩下げ、床へ赤い停止札を置いた。
上を見る。中継器が落ちれば、先頭を歩くレナの肩へ直撃する位置だった。
俺は図面と現物を撮影し、設備担当を呼んだ。設置記録には中継器の型番と通信試験の結果しかない。重量、支持箇所、立会者の欄は空白だった。
「誰が付けたか、分かりますか」
藤崎が聞いた。
「作業員の名前はある。でも、今必要なのは犯人捜しじゃない」
広報担当が息を呑む。
「二十二キロを四キロ用の金具が支えている。それを先に直します」
広報担当が小さく息を呑んだ。
「彼らが、規格外の場所へ付けたということですか」
「指示書には設置位置が書かれていません。作業員が勝手に決めたのか、口頭で指定されたのか、今は分かりません」
俺は撮影球へ向き直った。
「今見つかったのは、誰かの罪ではなく、二十二キロの機械を四キロ用の金具が支えているという事実です。先に機械を下ろします」
広報担当が配信停止を提案した。
レナは首を横へ振る。
「危険な作業は映さない。でも、停止した理由と結果は隠さない。それが今日の配信でしょう」
撮影球を安全な分岐まで下げ、固定映像へ切り替えた。
俺たちは中継器の電源を落とす。
感電の危険がないことを検電紙で確認し、落下範囲へ赤い紐を張った。
城戸が支持枠を下から支え、真壁が補助ロープを二点へ取る。俺はボルトを一つずつ緩めた。
最後の一本へ触れたとき、金具が乾いた音を立てた。
藤崎が聞いたのと同じ音だった。
ボルトの頭が半分欠け、支持枠が数センチ沈む。
「保持!」
城戸が盾と肩で重さを受けた。
真壁がロープを締める。
中継器は床へ落ちなかった。
全員でゆっくり下ろし、緩衝材の上へ置く。
外した金具の裏には、黒い亀裂が半周まで進んでいた。
設備担当が破断面を見て顔をしかめる。
「あと何分持ったかは言えません。次の強い振動で折れた可能性があります」
その真下は、先頭を歩くレナの位置だった。
コメント欄から、戦闘を求める言葉が消えていた。
「藤崎さんが止めなければ、久世さんが気づきましたよね」
夏目が視聴者から届いた質問を読んだ。
藤崎も俺を見ている。
「たぶん気づいた。でも、それでは駄目なんです」
俺は外した金具を証拠袋へ入れた。
「俺は深い階層の音を聞きすぎると、平衡感覚がずれる。いつでもここにいるわけでもない。一人だけが気づく仕組みは、その一人がいなくなれば終わります」
昨日までなら、自分の耳の話を配信でする気はなかった。
けれど、何でも分かる清掃員だという切り抜きの誤解を直すには、できないことも見せなければならない。
雨宮が俺の正面へ立ち、目の動きを確認した。
「今は?」
「耳鳴りなし。めまいもありません」
「本人申告だけでは再開しません。脈拍正常、眼振なし。記録しました」
〈本人が大丈夫でも駄目なのか〉
〈医療役が止められるのいいな〉
〈攻略配信よりうちの工場で見せたい〉
レナが撮影球の前へ出た。
「以前の私は、仲間から異音の申告を受けても、もう少し確認してから撤退しようとしました」
倉橋さんが僅かに顔を上げる。
台本にはない言葉だった。
「あと少しで攻略できる。視聴者も待っている。そう考えて、止まる理由より進む理由を集めました。その結果、朝比奈遼を失いました」
コメントの速度が落ちた。
「今日の藤崎さんの申告が空振りでも、止めた判断は間違いにしません。結果を知った後で、最初の判断を笑う規則にはしない」
レナは停止票の参加者欄へ署名した。
広報担当もカメラの前へ立つ。
「安全配信の機材が安全を損ねました。設備担当へ用途と重量を伝えず、通信試験だけで使用を決めたのは私です」
設置作業員だけへ責任を押しつけない。その説明も、配信から消さなかった。
「今後は増設機器の重量、支持箇所、設置責任者、撤去期限を保全記録へ残します」
倉橋さんが新しい様式をその場で作った。
設備担当が壁を調べる間、俺は藤崎と岡部に外した金具を見せた。
表から見える黒い線は短い。裏返せば、亀裂は半周まで進んでいる。
「音を聞いたのに、僕は気のせいだと思いました」
岡部が言った。
「次は言えばいい」
藤崎が答えた。
「でも、また私だけだったら怖いです」
「二人のどちらが先でもいい」
レナが言った。
「勇気を競う規則じゃない。気づいた人が止める規則だから」
四十七分後、中継器は独立した三脚へ移された。
配線管の留め具は交換し、排水監視線の導通も正常。壁には最大荷重と増設禁止を示す黄色い札を付けた。
停止確認票には、発見した異常だけでなく、再開条件も記す。
入口と帰路に障害なし。
十一人全員を確認。
交換後の設備に異常なし。
参加者の体調に異常なし。
倉橋さんが一つずつ読み上げ、担当者が返事をした。
俺の番では、雨宮が先に答えた。
「久世直人、作業継続可能。ただし本日は深層音の探索を禁じます」
「自分で答えるところじゃないんですか」
「あなたは大丈夫と言うので、私が答えます」
真壁が笑い、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
配信を再開する。
同じ通路なのに、全員の歩く速度は始める前より遅かった。
〈地味だけど怖い〉
〈二十二キロが落ちてたのか〉
〈藤崎さん止めて正解〉
〈停止確認票を公開してほしい〉
今度はコメントを閉じなかった。
地下七階の巡回は、予定より一時間十二分遅れて終わった。
倒した魔物はゼロ。
手に入れた魔石もゼロ。
交換した金具が一個。追加した注意札が二枚。修正した設置記録が一件。
管理棟へ戻る前に、俺たちは外した金具をもう一度調べた。
亀裂の起点には、新しい銀色の擦れ跡がある。支持枠を取り付ける際、寸法が合わず、工具で金具を広げた跡だった。
岡部が設置記録と見比べる。
「曲げたことも書いてありません」
「現場で少し直しただけだと思ったんだろう」
「少しなら、書かなくてもいいんですか」
「少しだから書く。元の図面と違う部分が小さいほど、次に見る人は気づけない」
藤崎は停止票の余白へ、〈金具の変形〉と書き加えた。
「音がした場所だけ見て終わっていたら、この跡は分からなかったですね」
「音は入口です。原因そのものとは限りません」
俺が痛みの音と呼んでいるものも同じだ。
どこかが苦しんでいることは分かっても、何が、いつ、どう壊したのかまでは教えてくれない。
だから図面を開く。触る順番を決める。別の人に見てもらう。直した後も、同じ条件でもう一度確かめる。
ミコトへも、閉域端末から確認を求めた。
『当該増設物は迷宮保全設備として登録されていません』
「登録されていない物が載ったとき、知らせられる?」
『重量および支持部材の情報が入力されれば、許容値超過を警告できます』
「情報がなければ?」
『判断できません』
機械でも、知らないことは分からない。
俺はその返答を、配信にも流してもらった。
〈迷宮AIなら全部分かると思ってた〉
〈入力しないと無理なのか〉
〈現場猫案件じゃん〉
「ミコトも俺も、何でも知っているわけじゃありません。分からないまま進めないために、記録と停止があります」
言葉にすると当たり前だった。
けれど、当たり前を全員で守る方が、魔物を一体倒すより難しいこともある。
藤崎は書き終えた停止票を見て、ようやく肩の力を抜いた。
「次に同じ音がしても、今度はもう少し早く言えそうです」
「俺より先にお願いします」
そう返すと、岡部も今度は笑わず頷いた。
それでも配信の同時視聴数は、地下四十一階の切り抜きを上回った。
最も再生されたのは、中継器を外した場面でも、レナが過去を話した場面でもない。
藤崎が「止めてください」と言った最初の七秒だった。
配信終了後、探索局へ届いた質問は三千件を超えた。
停止確認票を使いたいという探索チーム。
講習を依頼したいという地方支部。
工場や建設現場でも使えるかという問い合わせ。
鳴海主任は印刷された一覧を見て、深いため息をついた。
「お前、配信外の仕事を増やす配信をしたな」
「俺もそう思います」
「断る仕事を先に決めろ。全部受けたら、耳より先に体が壊れる」
主任は講習依頼を三つの山へ分けた。
探索局が対応するもの。東央迷宮サービスとして検討するもの。今は断るもの。
俺一人の机へ積まなかった。
その一番上に、厚い封書が置かれている。
差出人は御堂アークス。
「久世さん個人へ、専属保全契約の提案です」
倉橋さんが封を開けずに渡した。
提示年俸は、今の収入の十二倍。
住宅、治療、専属補助員も付く。
ただし、保全記録の公開範囲は御堂アークスが決定する、と書かれていた。
俺は最後の一行を二度読んだ。
迷宮を直すための記録が、迷宮を壊したかもしれない会社の中へ閉じられる。
配信で見えるようになった仕事を、また見えない場所へ戻す条件だった。




