第6話 初心者講習は配信外で
「今日は、迷宮の声を聞く方法を教えてください」
訓練室へ入った俺に、十八歳くらいの女性が真顔で言った。
背中には新品の短杖。防具には傷一つない。
その隣に立つ青年も、期待を隠さず俺の耳を見ていた。
「悪いけど、それは教えられない」
二人の顔から、同時に期待が消えた。
新宿第八ダンジョン管理棟の地下二階。
実地講習用に作られた訓練区画は、迷宮の通路を真似た灰色の壁で囲まれている。床の罠も照明も換気設備も、実際の浅層で使われているものと同じ規格だ。
ただし、魔物はいない。
今日ここにいるのは、探索者登録を終えたばかりの十二人と、ブルー・クラウンの五人。それから、探索局に頼まれて臨時講師を引き受けた清掃員が一人。
俺だった。
「久世さんにしか聞こえないんですか」
短杖の女性が尋ねた。
名札には藤崎芽衣とある。
「俺に聞こえているものが、みんなと同じ音かは分からない。ただ、設備が壊れる前の違いを、音みたいに感じることがある」
「それでは、私たちには使えません」
「だから、聞こえなくても帰れる方法をやる」
俺は工具箱を床へ置いた。
中から出したのは、短いチョーク、番号札、細い紐、小型の鏡、検電紙、打診棒だった。
武器らしいものは一つもない。
青年の岡部陸が、腰の剣へ手を置いたまま首を傾げる。
「魔物に襲われたときの訓練じゃないんですか」
「襲われる前に戻る訓練だ」
後ろで真壁が吹き出した。
「地味だろ。俺もそう思う」
「真壁」
レナが睨む。
「でも、配信したら視聴者は減りそうですよ」
「今日は配信しない」
倉橋さんが入口の端末を確認した。
公開回線の接続欄には、赤い斜線が入っている。記録は探索局の講習保管用だけで、外へは出ない。
「受講者が失敗する過程を見世物にはしません。質問も失敗も、この部屋に置いて帰ってください」
十二人の肩が少しだけ下がった。
俺も同じだった。
地下四十一階の切り抜き映像が広がってから、知らない相手の目を考えずに話せる場所が減っていた。
昨日、過積載の回収機を見つけたあと、俺たちは地上へ戻った。
一度ずれた平衡検査は、休憩後には正常へ戻った。鼻血も耳からの出血もない。それでも鳴海主任から、今日の深層作業は禁止された。
休めと言われた俺へ、倉橋さんが提示したのが、この初心者講習だった。
「休養日に仕事を増やすな」と鳴海主任は怒った。
だから条件を決めた。
迷宮へは入らない。異常の音を長時間探さない。体調に変化があれば雨宮が終了させる。講習時間も午前中だけ。
俺が守らせる側ではなく、守る側にも条件が要る。
それは昨日、自分から撤退を選んでようやく理解したことだった。
「最初に何をしますか」
俺が尋ねると、岡部が剣を抜いた。
「周囲の敵を確認します」
「その前」
藤崎が照明球を浮かべる。
「暗い場所を照らす」
「もっと前」
誰も答えなかった。
俺は入口の扉を指した。
「帰る場所が開くか確かめる」
岡部が振り返り、扉の取っ手を引いた。
扉は半分までしか開かなかった。
床へ落ちた小さなボルトが、蝶番の下へ挟まっている。
「入るときは開いたのに」
「押して入るときは、これでも通れる。逃げるとき、後ろ向きで押さえながら全員を通せるか?」
岡部は答えず、ボルトを拾った。
俺は番号札の一番を扉へ掛ける。
「入口。扉の開き方。戻る方向。入った人数。時刻。この五つを最初に残す」
「全部、覚えておけばよくないですか」
藤崎が言った。
「怖くなったときも十二人分を覚えていられるならな」
夏目が受講者へ端末を見せた。
画面には、以前の探索記録が映っている。戦闘開始前は整っていた隊列が、警報のあとには何度も人数を数え直していた。
「記録は記憶力が悪い人のためじゃないよ。頭を別のことへ使えるようにするため」
俺たちは四人ずつ三組に分かれ、訓練通路へ入った。
最初の分岐では、正面の照明が明るく、左は薄暗い。
全員が正面を選んだ。
三十メートル進んだところで、俺は止める。
「戻って、もう一度見て」
「何かありましたか」
「答えを探すんじゃなく、最初に見なかったものを探す」
分岐へ戻ると、藤崎が左の壁へ小さな矢印を見つけた。
避難路を示す緑色の塗料が、汚れで半分隠れている。
岡部は正面の床へしゃがんだ。
「こっちは、靴跡が多い」
「人がよく通るから安全、とは限らない」
「では、どちらへ行けばいいんですか」
「今はどちらでもいい。選んだ理由と、戻る道を残す」
答えが一つあると思っていた受講者たちが、互いの顔を見た。
探索者試験では、正しい道を選ぶ問題が出る。
現場では、昨日まで正しかった道が今日も正しいとは限らない。
正面の通路を選び、分岐に二番札と帰路の矢印を付けた。
二つ目の区画には、壁から六本の金属管が出ている。
「罠ですか」
「それを確かめる」
岡部が剣の鞘で一本を叩こうとした。
俺は手を上げて止める。
「分からないものを、いきなり叩かない」
「久世さんは壁を叩いてましたよね」
「叩いていい場所と強さを、図面と材質で決めてからだ」
俺は鏡を棒の先へ付け、管の下側を映した。
五本には青い点。一本だけに赤い点がある。
真上から見れば、どれも同じ銀色だった。
「赤は高温管」
藤崎が表示を読んだ。
「でも、触らなくても分かるようにしてある」
「表示が残っていればな」
夏目が訓練用の汚れ布を一本へ被せた。
赤い点が見えなくなる。
「照明、鏡、記号、周りとの違い。使えるものを重ねる。魔法一つに決めつけない」
藤崎は自分の照明球を少し低くし、管の影まで照らした。
さっきより動きが慎重になっている。
三つ目の区画で、城戸が進路を塞いだ。
大型盾の固定爪を床へ下ろし、受講者へ尋ねる。
「この盾の後ろなら安全だと思う者」
十人が手を上げた。
昨日までの俺なら、たぶん同じだった。
岡部だけが、盾の足元を見た。
「固定爪が一本、浮いています」
城戸が頷く。
「正解。盾が強くても、床へ力を逃がせなければ倒れる」
「わざとですか」
「今日はな」
城戸は三本を正しく固定した。
「本番では、誰も間違いだと教えてくれない。俺の装備だから俺だけが見る、では足りない。気づいたら言え」
レナが通路の先で腕を組んでいた。
講習が始まってから、ほとんど口を開いていない。
受講者の一人が、小声で言った。
「ランキング七位でも、装備を見落とすことがあるんですか」
レナの肩が僅かに動いた。
「ある」
短い返事だった。
「だから、見つけた人間のランクを先に確かめるな。何を見つけたかを聞いて」
俺はレナの横顔を見た。
彼女は受講者ではなく、床の継ぎ目を見ていた。
四つ目の区画へ入る前に、換気音が変わった。
高い金属音ではない。
一定だった低い回転音が、七回ごとに一度だけ沈む。
俺は反射的に耳へ手を当て、すぐ下ろした。
今日は音を探し続けない約束だ。
自分で聞き取る前に、受講者へ尋ねる。
「ここへ入ってから、何か変わったものは?」
「照明は同じです」
「床も動いていない」
藤崎が目を閉じた。
「風が、時々弱くなる?」
岡部が天井の紙片を見る。
換気の流れを示す細い紙が、一定の間隔で垂れ下がっていた。
「七回に一回です」
俺だけに聞こえる異常ではない。
見える形へ置き換えれば、二人も同じ変化を見つけられた。
「全員、分岐まで戻って」
藤崎が最初に言った。
俺ではなく、受講者の声だった。
誰も笑わない。
番号札を確認し、十二人が順番に戻る。真壁が最後尾で人数を数え、城戸が扉を閉めた。
設備担当を呼んで点検口を開けると、換気機の吸入口に訓練用の布が巻き込まれていた。
予定された仕掛けではなかった。
昨日の清掃で使った布が一枚、回収されず残っていたらしい。
モーターの外装は熱を持ち、保護装置が作動する直前だった。
「このまま動かしていたら、どうなったんですか」
岡部が尋ねた。
設備担当は、吸入口と通路の扉を順番に見た。
「まず換気量が落ちる。次にモーターが止まる。この訓練区画だけなら警報が鳴って扉が開くが、迷宮内で同じことが起きれば、煙や毒気を外へ出せなくなる」
藤崎は短杖を握り直した。
「布一枚で?」
「最初は布一枚だ。そこへ埃が付き、湿気を吸い、空気の通り道を塞ぐ」
俺は外された布を透明な証拠袋へ入れた。
端には清掃班の管理番号が残っている。
「拾って捨てたら駄目なんですか」
「直すだけなら、それで終わる。でも、どの作業で残ったかを確かめなければ、別の区画でも同じ布を残す」
岡部は自分が書いた時刻の横へ、布の番号を加えた。
藤崎も、七回ごとに風が弱まったことを線で残す。
二人の記録を重ねれば、何を見て止めたのかを、ここにいなかった設備員にも説明できる。
俺の耳がなくても、異常は消えなかった。
俺の耳がなくても、異常を見つける手段は作れた。
「本当に壊れかけていたんですか」
藤崎の声が震えた。
「この区画は安全だと聞いていたのに」
「安全に作った場所でも、使えば汚れるし壊れる」
俺は主電源が切られたことを確認し、設備担当と一緒に布を外した。
巻き込み部分へ焦げ跡はない。羽根にも欠けはない。軸の温度が下がるまで再起動はしない。
岡部が番号札の裏へ時刻を書いた。
「何も起きなかった、じゃなくて、止めたから起きなかったんですね」
「そういう記録は、配信だと地味なんだ」
真壁が言う。
今度は誰も笑わなかった。
講習はそこで中断になった。
訓練室へ戻ると、レナが俺を呼び止めた。
受講者たちは水分休憩を取りながら、見つけた変化を紙へ書いている。
「朝比奈も、音がおかしいと言ったことがある」
レナは扉の向こうを見たまま言った。
「前のチームで、崩落事故が起きた日。遼は斥候だった。床の奥で、石が擦れる音がすると言った」
俺は黙って続きを待った。
「ボスの体力は残り一割だった。配信の同時視聴も、それまでで一番多かった。私は、あと少しだけ確認してから撤退すると決めた」
レナの右手が、左腕を強く掴む。
「その少しの間に、帰路が落ちた。遼は後ろにいた二人を押し出して、自分だけ間に合わなかった」
詳しい秒数も、崩れた位置も、まだ聞かなかった。
彼女が今ここで話せるのは、これだけなのだと思った。
「遼の言葉を信じなかったんじゃない。確認できる証拠が足りないと思った。今なら、それが止まらない理由を探していただけだと分かる」
「俺も、音だけでは全員を止められません」
レナがこちらを見る。
「でも、止まってから確かめる手順は作れます。誰が言ったかじゃなく、異常の申告が出たら一度止まる。何もなければ、その記録も残す」
「空振りが続けば、誰も従わなくなる」
「だから停止時間と、見る項目を決める。九十秒でも、三十秒でもいい。無期限に怖がるんじゃなく、その間だけ全員で探す」
レナは訓練室の十二人を見た。
藤崎が換気音の間隔を書き、岡部が紙片の動きを図にしている。
「新人にも、停止を言わせるの?」
「異常を見つけるのに、ランキングは要りません」
少し前に、彼女自身が言った言葉だった。
レナは目を伏せ、それから小さく頷いた。
講習の最後に、新しい規則を一つ加えた。
隊列の誰でも「停止確認」と言える。
責任者は、発言者を叱る前に時刻を記録する。
三十秒間だけ進行を止め、入口、人数、床、壁、天井、装備の順で変化を見る。
異常がなくても、申告者の失点にはしない。
藤崎が最初の署名をした。
岡部が二人目。
レナは、講師欄ではなく参加者欄へ自分の名前を書いた。
昼前、管理棟の出口で倉橋さんから封筒を渡された。
「来週の初心者講習も依頼したい、という申請です」
「深層の再点検が先です」
「承知しています。もう一通は広報室から」
嫌な予感がした。
中には、公式配信企画書が入っていた。
題名は〈攻略しない探索者――九十秒で事故を止める方法〉。
「断ります」
「まだ一行目ですよ」
「題名でもう十分です」
レナが横から企画書を取り、最後まで読んだ。
「私は、やった方がいいと思う」
「初心者の失敗を配信する気ですか」
「違う。今日の子たちは映さない。私たちが受講者になる」
レナは署名の増えた停止確認票を折らずに持っていた。
「切り抜きでは、あなたが一人で全部分かったように見えた。次は、分からない人間がどう止まり、どう確かめるかを最初から見せる」
管理棟の外では、配信開始を待つ記者がまだ何人もいた。
配信外で終えるはずだった講習が、次の配信を始めようとしていた。




