5話 迷宮が食べられないもの
「停止を宣言します。九十秒。正体を確かめるまで、誰も右へ踏み込まないでください」
俺の声と同時に、真壁の端末で計時が始まった。
右区画から聞こえる足音は、一定ではなかった。
三歩進み、止まる。硬いものを引きずり、また二歩進む。
人間なら怪我をしている。
だが、人間の呼吸音がない。
「生体反応、取れません」
雨宮が検知器を構えたまま言った。
「魔力反応も薄い。少なくとも普通の魔物じゃない」
レナは長剣を抜いていたが、前へ出なかった。
城戸が大型盾を通路の中央へ立て、固定爪を石床へ噛ませる。昨日交換した三本の爪は、どれもまっすぐ荷重を受けていた。
夏目が照明球を右区画へ送る。
乳白色の光の端に、細長い影が入った。
最初に見えたのは、人の手に似た五本の金属指だった。
次に、頭のない胴体。
身長は百七十センチほど。灰色の板を重ねた身体に、片側だけ車輪のついた台車を引いている。胸には文字ではなく、旧式保全通路の壁と同じ記号が刻まれていた。
台車の上には、砕けた魔石が山積みになっている。
「機械……?」
レナが剣先をわずかに下げた。
人型の機械は、俺たちから五メートル離れた場所で止まった。
胸の板が開き、赤い灯りが三度点滅する。
『回収工程を継続します』
ミコトの声が頭へ届いた。
「あれが言っているんですか」
『第七採取残渣回収機です。識別名はありません』
「危険は?」
『保全担当者への接触は禁じられています』
俺は全員へ、確認できた情報とミコトから得た情報を分けて伝えた。
倉橋さんが時計を見る。
「残り四十一秒。接触禁止が今も有効とは限りません。進路を空け、こちらから触らず通過を確認します」
城戸が盾ごと半歩左へ寄る。
人型機械は動かなかった。
胸の赤い灯りだけが、同じ間隔で点滅している。
『進路が閉塞しています』
「通れる幅はあります」
俺が答えると、ミコトが少し遅れて言った。
『積載物が規定値を超過しています。旋回できません』
人型機械が引いている台車は、通路の幅ぎりぎりだった。右側の車輪が歪み、斜めに引きずられている。
足音が不規則だったのは、脚ではなく台車のせいだ。
「人じゃありません。故障した回収機です。台車の右輪が曲がって、進路を変えられない」
九十秒が終わった。
倉橋さんは俺を見る。
「修理できますか」
「現物を見なければ断定できません。ただ、荷を下ろせば旋回はできるかもしれない」
「魔石には触れないで」
夏目が言った。
「全部、表面が死んでる。魔力を抜き切った石みたい」
俺は新たな停止を宣言しなかった。
九十秒停止は、考える時間を無制限に増やす権利ではない。危険を見つけ、次の判断材料を揃えるための時間だ。
「倉橋さん。回収機へ二メートルまで接近し、車輪だけ確認したいです。城戸さんの盾越しに。魔石と本体には触れません」
「許可します。異常があれば即時撤退」
城戸の盾の後ろへ入り、ゆっくり近づく。
人型機械は反応しなかった。
曲がった車輪の軸には、黒い粉が固着している。迷宮漏れではない。細かく砕けた魔石と、金属の摩耗粉が混ざったものだ。
台車の側面には新しい黄色い管理札が結ばれていた。
〈御堂アークス・第四十一階臨時採掘区画〉
日付は、シルバー・バードが消息を絶つ二日前。
「御堂アークスの札です」
真壁が映像を寄せる。
「臨時採掘区画って、探索局の公開記録にはなかったはず」
倉橋さんの声が硬くなった。
「採掘許可は三十八階までです。四十一階は当時も調査区画でした」
レナが暗い通路の奥を見た。
「許可なしで掘ったってこと?」
「まだ断定しません。この札が正規に使われたものか、台車がどこから運んだものかを確認します」
倉橋さんはそう言ったが、赤鉛筆を握る指には力が入っていた。
俺は車輪を見直した。
軸受けの割りピンが半分抜けている。工具で抜いた跡ではない。過積載で車輪が外へ開き、振動のたびに押し出されたのだ。
「荷を減らさずに直せば、また曲がります」
「石を下ろせないなら、どうするの」
レナに聞かれ、俺は天井を見た。
旧式通路の上部には、荷物移動用らしい細いレールが走っている。回収機の肩には、折り畳まれた吊り金具があった。
「台車の重量を天井レールへ逃がします。車輪にかかる重さを減らして、軸を戻す」
「そのレールが荷重に耐える根拠は?」
倉橋さんが尋ねる。
「ありません。だから先に打診と目視をします」
俺は伸縮棒でレールを一メートルごとに叩いた。
三か所目で、澄んだ音の後ろに濁った響きが混じる。
固定ボルトの一本が緩んでいた。
もしすぐ真上へ吊っていれば、レールごと落ちていた。
「ここは使えません。二メートル手前なら固定部が二重です」
城戸が回収機へ向けて声を張った。
「押していいのか、これ」
『接触は禁じられています』
ミコトが同じ答えを返す。
「向こうから動かせない。こっちから触れない。どうしろっていうんだ」
夏目の言葉に、少女の声は沈黙した。
質問されない情報は開示しない。
だが、今の問いは広すぎる。
俺は聞き方を変えた。
「回収機に、保全担当者の指示を受ける機能はありますか」
『あります』
「指示できる内容を教えてください」
また沈黙。
「停止、後退、積載解除、吊り金具の展開。この四つは可能ですか」
『停止と後退は可能です。積載解除は回収地点でのみ可能です。吊り金具の展開は保全工程に含まれます』
「じゃあ、吊り金具を展開。二メートル後退して停止」
人型機械の肩から金具が起き上がった。
曲がった車輪を引きずりながら、ゆっくり二メートル下がる。
全員が息を止めて見守った。
「命令できるなら、最初からそう言ってください」
俺が漏らすと、ミコトは真面目な声で答えた。
『質問されませんでした』
頭痛がした。
耳鳴りではない方の痛みだ。
「ミコト。今後、俺が危険を避けるために使える機能があり、開示を禁じる規則がない場合は、質問されていなくても知らせてください」
しばらく返事がなかった。
手首の白い輪が二度、淡く明滅する。
『要求を保全優先規則へ仮登録します。あなたが危険と判断する条件を学習する必要があります』
初めて、決められた答えではなく、こちらの意図を確かめる言葉が返ってきた。
「一緒に決めましょう」
『了解しました、保全担当者』
「マスターよりはいいです」
レナが小声で聞いた。
「今、少し笑った?」
「笑ってません」
「そういうことにしておく」
◇
吊り金具をレールへ固定し、手動巻き上げ器で台車の右側だけを数センチ浮かせた。
城戸が荷重を支え、レナが回収機の周囲を警戒する。夏目は魔石の魔力変化を監視し、真壁が作業手順を記録した。
俺は歪んだ車輪を足で押さえ、やっとこで割りピンを戻す。
新品へ交換したかったが、回収機の規格は現代の部品と合わない。応急的に抜け止め線を通し、帰還に必要な距離だけ持たせる。
「荷重を戻します」
巻き上げ器をゆっくり緩める。
車輪は傾かなかった。
回収機がこちらの脇を通過する。
台車の魔石は、近くで見ると不自然なほど小さく砕かれていた。普通の採掘なら、内部の魔力を傷つけないよう結晶の筋に沿って外す。これは壁の奥まで削り取り、残った欠片まで回収した形だ。
「迷宮にとって、魔石は何ですか」
俺はミコトへ聞いた。
『循環媒体です。余剰魔力を吸収し、必要な区画へ放出します』
「人間に例えると」
『血管、および一時貯蔵器官に近似します』
夏目へ伝えると、彼女は青ざめた。
「じゃあ、私たちは迷宮の血管を売ってたの?」
「適量なら再生するんだと思います」
俺はミコトへ確認した。
『規定量以内の採取は循環を促進します。規定を超えた場合、欠損部を補うため周辺区画から魔力を移送します』
第四補助弁。
黒い槍が刺さっていた導管。
魔力粒子が通常の半分しかない旧式保全通路。
ばらばらだった異常が一本の線でつながった。
「過剰採掘で右区画の魔石が減った。迷宮は不足分を補おうとして、周りから魔力を集めた。誰かが第四補助弁を無理に閉じたせいで循環圧が逃げられなくなり、導管が裂けた」
倉橋さんが図面へ流れを書き込む。
「因果関係は仮説として記録します。採掘量の証拠が必要です」
「回収地点へ行けば残っています」
レナが右区画を見る。
回収機が来た道だ。
俺は首を横へ振った。
「今日は行きません」
「どうして?」
「回収機の台車だけで規定量を超えている可能性がある。奥の地盤、残存魔力、退路のどれも分かりません。目的は事故地点の再点検です。証拠を見つけたからといって、準備なしで調査範囲を広げるべきではない」
レナは右区画から俺へ視線を戻した。
「了解。戻って正式な調査計画を作る」
以前なら、先へ行きたいと言ったかもしれない。
今は、一度の返事で剣を納めた。
回収機の台車には、重量表示が残っていた。
現代の単位へ換算できない。だがミコトへ規定量との比率を尋ねると、答えはすぐに返った。
『当該区画の推奨採取量に対し、二百八十七パーセントです』
真壁が数字を復唱する。
倉橋さんが記録へ赤い線を引いた。
「御堂アークスの札、許可範囲外の区画、推奨量の二・八七倍。回収機と積載物を現状保存し、探索局の証拠封印を行います」
真壁が回収機の周囲を一周し、積載物へ触れない距離から連続映像を撮った。
夏目は封印札へ直接魔力を流さず、通路の入口側と奥側へ検知糸を張る。魔石は魔力へ反応する可能性があるため、現代の封印箱で覆うこともできない。
俺は床へ樹脂製の目印を置き、車輪、台車、落ちた粉の位置を測った。回収機を修理するために二メートル移動させた事実も、元の停止位置と一緒に記録する。
「直した人間が、証拠を動かした人間でもあるんですね」
俺が言うと、倉橋さんは記録票をこちらへ向けた。
「だから、修理前の映像、移動理由、距離、作業者を残します。必要な保全まで隠せば、かえって記録の信用を失います」
俺は作業者欄へ署名した。
その隣へ城戸が荷重補助、真壁が撮影、倉橋さんが現場承認として名を記す。
誰か一人の記憶ではなく、違う立場の記録を重ねる。
半年前の現場にも、これだけの記録が残っていればと思った。だが、失われたものを想像で埋めれば、今見つけた証拠まで形を変えてしまう。
まずは、ここにあるものを正確に残すしかない。
回収機は命令された位置で静止した。
胸の赤い灯りが消え、代わりに白い灯りが点く。
『回収工程を中断しました』
ミコトの声は、先ほどよりわずかに近く感じた。
「迷宮は、魔石なら何でも食べるわけじゃないんですね」
俺が言うと、返事までに少し間があった。
『訂正します。迷宮は魔石を食べません』
「例えです」
『例えを学習します』
「じゃあ質問を変えます。迷宮が食べられないものは何ですか」
レナが怪訝そうに俺を見る。
ミコトは長く沈黙した。
『欠損です』
少女の声が答えた。
『存在しないものは循環できません。失われた量が許容値を超えています』
通路の乳白色の灯りが、一つだけ暗くなった。
俺の耳の奥で、地下四十一階全体が低く軋んだ。
痛みの音だった。
今度は一か所ではない。
遠く離れた複数の壁と床が、足りないものを埋めようとして同時に悲鳴を上げている。
右耳の奥が熱くなり、平衡感覚が一瞬遅れた。
身体が傾く前に、レナが腕を掴んだ。
「久世さん?」
雨宮がすぐに俺の正面へ回る。
「右、左、中央」
視線が右から中央へ戻るとき、わずかに遅れた。
「一回目のずれ。次も出たら撤退です」
契約に書いた条件だ。
俺は反論せず、壁から手を離した。
聞けば原因へ近づける。
だが、聞き続ければ俺の身体が先に壊れる。
「戻ります」
自分の口で言うと、レナが掴んでいた腕を少しだけ緩めた。
「それが聞けるなら、まだ大丈夫」
旧式保全通路を引き返す。
入口へ向かう灯りが順に点き、樹脂の楔まで退路は開いたままだった。
俺たちの後ろには、過剰に削られた魔石と、止められた回収機が残っている。
半年前、誰が弁を壊したのか。
シルバー・バードは何を見たのか。
答えはまだ右区画の奥だ。
けれど少なくとも、迷宮が壊れた理由の一つは見えた。
迷宮は無限に資源を吐き出す穴ではない。
失われたものを補うため、今も地下全体を削っている。
そしてその痛みを、俺だけが聞いていた。




