4話 地下四十一階、再点検
「この先は、前回の入場時には壁でした」
午前六時十二分。新宿第八ダンジョン地下四十一階。
俺が指した先には、確かに通路があった。
灰色の壁。人が二人並べる幅。天井には乳白色の灯りが等間隔で埋め込まれ、奥へ向かって静かに点灯している。
だが、二日前に最後に見たとき、そこにあったのは継ぎ目のない黒い壁だった。
「映像、両系統とも記録中」
真壁が胸元の端末を確認する。
公開配信用の送信機は、契約どおり事務所へ置いてきた。今動いているのは探索局事故調査室と東央迷宮サービスへ未加工映像を送る閉域回線だけだ。
「建築図面とも探索地図とも一致しません」
灰色の作業服に防護帽をかぶった倉橋調査官が、紙の平面図へ赤鉛筆で線を引いた。
「最新の端末表示では〈旧式保全通路〉。昨夜、久世さんが契約へ署名した時刻に追加されています。入口の認証者も久世さん。間違いありませんね」
「俺は開けていません」
「事実の確認です。責任を決めているのではありません」
倉橋さんはそう言ってから、紙を折り直した。
俺たちは午前五時に管理棟へ集合した。装備確認、二系統の通信試験、雨宮による平衡検査を終え、封鎖解除と同時に転移門へ入った。
隊列は訓練どおりだ。城戸が大型盾を構えて先頭。レナが左前、真壁が右後ろ、夏目が後方から術式を維持する。雨宮は俺のすぐ後ろにいる。
俺だけが戦闘員ではない。
だから全員が、俺の歩幅に合わせていた。
「まず正規経路を確認する」
倉橋さんが決めた。
「未知の通路は逃げません。先日の事故地点を記録し、既知の危険を除いてから戻ります」
レナは灰色の通路を一度だけ見て、うなずいた。
「ブルー・クラウン、前進。久世さんは中央から出ないで」
「分かりました」
正規経路へ足を向ける。
三歩目で、耳の奥を細い針が引っかいた。
高く、短い音。
前回聞いた迷宮漏れの低いうなりとは違う。何かが開こうとして、固着した金具へ何度も力をかけている音だった。
「停止を宣言します。九十秒」
声を出すと、全員がその場で止まった。
契約書に書いた権限が、初めて現場で使われた。
城戸は盾を構えたまま周囲を警戒し、レナは俺を急かさない。真壁が端末の計時を始め、夏目は照明球を天井へ浮かべた。
俺は床へ片膝をつき、ゴム頭の打診棒で目地を順に叩いた。
一枚目。鈍い。
二枚目。鈍い。
三枚目だけ、硬い音のあとに空洞の反響が返った。
「床下に可動部があります。平面図では何もない場所です」
俺は携帯内視鏡の先端を目地へ差し込んだ。黒い石材の下に、灰色の金属板と、閉じたまま震える円形の羽根が見える。
「換気弁?」
夏目が俺の肩越しに画面をのぞく。
「形は似ています。でも空気を送るには配管が太すぎる」
手首の白い輪が、かすかに熱を持った。
頭の奥へ、少女の声が触れる。
『循環支管、第四補助弁。開度三パーセント。動作不良です』
突然ではあったが、最初に声を聞いたときのように工具を落としはしなかった。それでも首の後ろが固くなる。
「ミコト。俺以外にも聞こえるようにできますか」
返事はない。
「誰と話してるの?」
レナが尋ねた。
「管理人格です。この下は第四補助弁。開度三パーセントで固着していると言っています」
「本人は?」
「俺にしか聞こえていません」
倉橋さんが時刻を記録した。
「久世さん、根拠を分けてください。ご自身で確認した事実と、管理人格から得た情報」
「確認したのは、床下に弁らしい可動部があること、振動が続いていること。第四補助弁という名称と開度はミコトからです」
「結構です。残り二十九秒」
俺は内視鏡をさらに奥へ送った。羽根の根元に白い析出物が固まり、軸を締めつけている。無理に開けば砕けた析出物が支管へ流れ込む。
「今は動かしません。位置を標識して、帰路に外側から振動だけ再確認します。進行の妨げにはなっていない」
九十秒が終わる。
倉橋さんが続行を決めた。
雨宮が俺の前へ指を立てる。
「右、左、中央」
視線を動かす。遅れはない。
「一回目、正常」
「毎回これをやるんですか」
「契約を作ったのは久世さん」
そのとおりだった。
◇
事故地点には、先日の応急補修がそのまま残っていた。
黒い槍を抜いた導管は乳白色の補修材で塞がれ、周囲には探索局の黄色い封鎖帯が張られている。迷宮漏れの黒い液体は止まっていたが、焦げたような甘い臭いが薄く漂っていた。
「戦闘痕を記録します」
倉橋さんの指示で、真壁が壁と床を一定の速度で撮影する。
夏目は魔力残滓を色分けし、城戸は盾を置かずに退路を守った。レナは中央へ踏み込まず、事故時に自分が長剣を振った位置を一つずつ指した。
「ここで大型種を斬った。次に床が沈んで、城戸が裂け目を盾で固定した。私が踏み込みかけたのは、この印の手前」
最後の言葉だけ、わずかに息が詰まった。
レナは黄色い印の手前で靴を止めたまま、呼吸を三つ数えている。床が沈んだ瞬間を思い出しているのだろう。
俺が声をかけるより先に、城戸が盾の縁で床を軽く叩いた。
「固定爪は交換済み。荷重試験も通した。今日は帰り道まで俺が守る」
「分かってる」
レナは短く答えた。強がって前へ出るのではなく、もう一度だけ足元を確かめてから記録を続けた。
怖くなくなったわけではない。
怖さを一人で隠さず、確認へ変えようとしている。その変化を、俺は何も言わず作業ノートへ刻んだ。
「配信映像と一致します」
倉橋さんが答える。
「槍を抜いたのは、そのあとですか」
「はい」
俺は補修箇所の周囲へ透明な格子板を置いた。
漏出の広がりを面積で記録するための道具だ。前回はそんな余裕がなかった。
格子の端、封鎖帯の外側に、薄い灰色の粉が筋になって残っている。
俺は指で触れず、採取用の刷毛を出した。
「待って」
レナがしゃがみ込む。
「足跡に見える」
照明を低くすると、粉の濃淡が靴底の模様を浮かび上がらせた。
片足分だけではない。壁際から導管へ向かい、途中で何度も向きを変えている。前回の入場で俺たちがつけた跡より古く、細部は崩れていた。
真壁が探索者装備台帳を呼び出した。
「この三角の滑り止め、シルバー・バードが使ってた旧型ブーツに似てる。半年前の失踪時の装備一覧にある」
「似ているだけで断定しない」
倉橋さんが言う。
「寸法を取ります。前回の入場者の靴底も全員照合してください」
レナが足跡の先へ照明を向けた。
痕跡は黒い槍が刺さっていた導管を離れ、正規経路の壁際で途切れている。
その向こう側にあるのは、今朝現れた旧式保全通路だった。
「壁が閉じていたなら、ここで消えたように見える」
城戸が低く言う。
「反対側へ抜けた可能性があります」
俺は壁へ打診棒を当てた。
同じ厚さの石ではない。表面材の向こうに、縦方向へ走る空間がある。
「戻って、あの入口から確認しましょう」
レナが立ち上がった。
倉橋さんはすぐには許可しなかった。採取物の封印、足跡の写真、応急補修の漏れ検査。決めていた項目をすべて終えてから、ようやく赤鉛筆で平面図の灰色の線を囲んだ。
「未知通路へ入ります。ただし十メートルごとに停止。通信品質が一系統でも基準を下回れば帰還。異常検知時は久世さんの九十秒を優先します」
「了解」
全員の返事が重なった。
◇
旧式保全通路は、正規経路より温度が低かった。
湿気も魔物の臭いもない。足元には細い排水溝が走り、壁には人間の文字とは違う記号が刻まれている。
俺が入口へ手首を近づけると、灰色の壁が横へ滑った。俺たちが通過すると、自動では閉じず、開いた状態で停止した。
「帰路を勝手に塞がない。そこは信用していいのかしら」
レナが言う。
「信用ではなく、開放位置へ機械式の止め具を入れます」
俺は工具箱から樹脂製の楔を出し、扉の下へ固定した。迷宮側が善意でも、故障しない保証にはならない。
次に空気を測る。
酸素、可燃性ガス、魔力粒子。携帯測定器の吸入口を通路の上、中、下へ向け、それぞれ十秒待った。
「酸素濃度は正規経路と同じ。可燃性ガスなし。魔力粒子は通常値の半分以下です」
「安全ってこと?」
夏目が尋ねる。
「測った三項目について、今この場所では基準内というだけです」
「保全の人って、絶対に安全って言わないんだね」
「絶対と言った瞬間、見落とした項目が消えるわけではありませんから」
城戸が楔の位置へ黄色い反射紐を結んだ。真壁は入口から十メートル分の細い誘導索を伸ばし、壁へ仮固定する。帰路の灯りが消えても、手でたどれるようにするためだ。
レナはその作業を待っていた。
以前の配信で見た彼女なら、未知の通路が開けば最初に飛び込んだはずだ。今も長剣を握る指には力が入っている。それでも足は入口の線を越えない。
「遅く感じますか」
俺が尋ねると、レナは奥を見たまま答えた。
「感じる。でも、先日の私は、その遅さに助けられた」
言葉を切り、手首の通信端末を確認する。
「確認が終わるまで待つ。私が先に進みたそうな顔をしても、気にしないで」
「顔だけなら止めません。足が動いたら止めます」
「契約どおりね」
短いやり取りのあと、雨宮が俺の耳元を小型灯で照らした。出血はない。指先の震えもない。入場時の記録と比較し、異常なしの印をつける。
点検、退路、体調。
三つが揃って、ようやく倉橋さんが進入を許可した。
十メートル。通信正常。
二十メートル。平衡検査正常。
三十メートルで、通路が二つに分かれた。
左は事故地点の裏側へ続く。右は平面図の表示範囲外だ。
左の壁面に、腰の高さほどの円形ハンドルが並んでいた。
第一、第二、第三、第四。
文字は読めないのに、手首の紋章を通すと意味だけが頭へ入ってくる。
正規経路の床下で見つけた第四補助弁。その操作部だった。
「触る前に外観記録」
俺が言うより先に、レナが全員を下げた。
これまでなら、自分で剣先を入れて確かめていたかもしれない。
真壁が全周を撮影し、夏目が残留魔力を調べる。俺はハンドルの軸、固定具、開度表示を順に見た。
第四だけが三パーセントの位置で止まっている。
固着の原因は、正規経路側で見た白い析出物だけではなかった。
ハンドルの根元にある安全止めが割れている。
「経年劣化?」
城戸が尋ねる。
俺は拡大鏡を当てた。
破断面の中央は古く変色している。だが左右には、平行な二本の傷が光っていた。工具で挟み、ねじった痕だ。
床にも、小さな陶製の欠片が落ちている。
本来は規定以上にハンドルを回せば先に折れ、弁本体を守る交換式の安全ピン。それが根元から切られていた。
「自然に壊れたんじゃありません」
俺は採取袋へ欠片を入れた。
「誰かが安全ピンを工具で破壊して、弁を無理に閉じた。その結果、循環が詰まり、圧力が導管へ逃げた。黒い槍が固定していなければ、事故は半年前に起きていた可能性があります」
「シルバー・バードが壊したの?」
夏目の問いに、すぐ答えることはできなかった。
足元には、事故地点で見つけたものと同じ三角模様の足跡がある。
ただし足跡は、第四補助弁の前で二種類に分かれていた。
一つは旧型探索ブーツ。
もう一つは、底が平らで、かかとに小さな四角い溝を持つ靴。
探索者用ではない。俺たち保全作業員が、金属片を踏んでも滑りにくいよう使う安全靴に近かった。
俺は透明な寸法板を重ねた。
靴の長さは二十七センチ。右足だけ、外側の減りが深い。歩幅は狭く、第四補助弁の前では同じ場所を何度も踏み直している。
重い荷物を運んだ跡ではない。固いハンドルへ体重をかけ、足を滑らせないよう踏ん張った跡だ。
一方、旧型探索ブーツの足跡は、その人物へ近づく位置で止まっている。争った形跡はない。向かい合ったのか、作業を見ていたのかまでは分からない。
「シルバー・バードが壊したと決める材料にはなりません」
俺が言うと、倉橋さんがうなずいた。
「むしろ、別の人物が先に作業していた可能性を記録します。推測と証拠を混ぜないでください」
「分かっています」
しかも、その足跡だけが弁から右の暗い通路へ続いている。
『非認証操作の痕跡を確認しました』
ミコトの声が頭へ響く。
「いつですか」
『現在時刻との差分を照合できません。時刻系統が切断されています』
「誰が切った」
『回答に必要な記録も、右区画に隔離されています』
右の通路で、乳白色の灯りが一つずつ点いた。
遠く、何か硬いものを引きずる音がした。
レナが長剣を抜く。
城戸は盾を上げたが、前へは出なかった。
全員が、まず俺を見た。
俺は壁へ手を当て、音の間隔を数えた。
迷宮の故障音ではない。
人か、人に近い重さの何かが、こちらへ歩いてくる音だった。
「停止を宣言します」
真壁が計時を始める。
「九十秒。正体を確かめるまで、誰も右へ踏み込まないでください」




