3話 清掃員は攻略チームに入りません
「この契約書だと、俺が死んだとき、誰も判断責任を負わないことになります」
ブルー・クラウンの会議室で俺がそう言うと、長机の向こうに並んだ五人が一斉に黙った。
天城レナの事務所は、新宿第八ダンジョンから車で十五分ほどの複合ビルに入っていた。壁には討伐証明の額や企業ロゴが並び、窓際には配信で見た青炎の長剣が施錠展示されている。
ただし、俺の前に置かれているのは武器ではない。
〈地下四十一階共同再点検・臨時戦闘補助員契約書〉
三枚目まで読んだところで、俺は赤いペンを置いた。
「死亡補償なら第八条にあるわ」
レナが向かいから言う。
「遺族への補償額が書かれているだけです。俺が誰の指揮下で作業し、誰が中止を決めるのかがありません」
「現場指揮は私。最終判断は探索局よ」
「今、二人いました」
「だから?」
「意見が割れたとき、俺はどちらに従うんですか」
レナの眉間に細い皺が寄った。
会議室にいるのは、車に乗っていたレナと真壁だけではない。
大型盾を壁へ立てかけている城戸蒼真。ブルー・クラウンの副隊長兼盾役で、配信では魔物に吹き飛ばされても立ち上がる男だ。雷撃魔術師の夏目紗季は、紫色の髪留めを指で回しながら俺の赤字を覗き込んでいる。治療術師の雨宮凛は、俺ではなく手首の白い紋章を見ていた。
地下四十一階で顔を合わせてはいるが、まともに自己紹介をしたのは今日が初めてだった。
「久世さん、思ってたより面倒な人だね」
夏目が言った。
「安全書類を面倒だと言う人と、同じ現場には入りたくありません」
「うわ。本当に配信のままだ」
「配信外でも性格は変わりません」
「そこは少しくらい盛ろうよ」
真壁が小声で笑い、レナに睨まれて黙った。
俺は一枚目へ戻り、契約名を赤線で囲んだ。
「それから、臨時戦闘補助員という名称も違います」
「戦わせるつもりはないって、車でも言ったでしょう」
「探索局には保全担当として推薦したわ。ただ、事務担当が既存の契約区分で一番近い様式を使ったの。外部の保全技術員を攻略現場へ入れた前例がないから」
「なら、戦闘員の補助という枠に入れないでください。俺は東央迷宮サービスの作業員として、構造物の点検に行く。皆さんの攻略チームへ移籍もしないし、加入もしません」
城戸が腕を組んだ。
「肩書きだけの話か?」
「事故のあとは、その肩書きが責任の置き場所になります」
たとえば、俺が床の異常を見つけて停止を求める。だが戦闘補助員なら、隊長が進めと言えば従う立場になる。崩落後の報告書には、指揮命令に従ったと書かれるだろう。
逆に、勝手に作業を止めれば命令違反だ。
現場で使える権限がないのに、保全担当という名前だけをつけても意味はない。
「俺が必要なのは、皆さんが戦っている横で工具箱を持つ人間ですか。それとも、危険なときに止まれと言う人間ですか」
返事をしたのは城戸だった。
「後者だな」
「蒼真」
「四十一階でこいつが叫ばなければ、俺たちは床ごと落ちてた。そこは認めるべきだ」
レナは否定しなかった。
長机の中央には、地下四十一階の仮設平面図が広げられている。赤く塗られた崩落危険区域。回収できていない機材。転移門から漏出箇所までの経路。俺が黒い槍を抜いた導管は、事故中心点として黒い円で囲まれていた。
「じゃあ、あなたの条件を聞かせて」
レナが椅子へ座り直す。
俺は持参した作業ノートを開いた。
「一つ。雇用元は東央迷宮サービスのまま。探索局事故調査室に付く外部保全技術員として派遣してください。ブルー・クラウンは護衛担当で、俺の業務上の指揮者にはしない」
「私の指示を聞かないってこと?」
「魔物から逃げろと言われれば聞きます。亀裂を無視して進めと言われたら聞きません」
夏目が吹き出しそうになり、口元を押さえた。
「二つ。構造異常を確認した場合、俺に作業停止を宣言する権限をください。停止中は全員、その場で九十秒待つ。安全な退避に必要な移動は別です」
「なぜ九十秒?」
城戸が尋ねる。
「打音の採取、図面との照合、退路確認に最低限必要な時間です。無期限に止める権限はいりません。そのあとの続行か撤退かは、現場責任者として同行する倉橋調査官が決める。通信も指揮系統も切れた場合は、天城さんが撤退を決めてください」
「戦闘中だった場合は」
「皆さんが九十秒を作ってください。そのための護衛です」
城戸は少し考えてから、うなずいた。
「分かった」
「三つ。再点検中の生配信は禁止。記録映像は閉域回線で探索局と東央迷宮サービスへ同時送信する。事故原因の確定前に切り抜きや予告へ使わないこと」
今度は真壁が背筋を伸ばした。
「異議なし。公開配信用の主回線と予備回線は物理的に外します。事故調査用の閉域回線は二系統残す」
「今回は、本当にお願いします」
「信用が地面の下まで落ちてる」
「四十一階よりは浅いです」
「励まされてる気がしない」
「四つ。俺の工具と防護具は俺が選ぶ。重量制限を理由に、勝手に置いていかないこと。破損、汚染、放棄が必要になった場合の補償は契約へ入れる」
「五つ目は?」
レナが先を促した。
「作業中止の条件を、俺の判断だけにしないことです」
レナの表情がわずかに変わった。
俺は手首の袖を下ろした。白い紋章は見えなくなったが、耳鳴りはまだ細く続いている。
「耳鳴りが強くなる。平衡感覚が落ちる。受け答えがおかしくなる。そのどれかが出たら、治療担当の判断で俺を作業から外せるようにしてください」
「自分から言うんだ」
雨宮が初めて口を開いた。
声は小さいが、視線はまっすぐだった。
「倒れてからでは遅いので」
「今も耳鳴りがある?」
「少し」
雨宮は席を立つと、俺の正面へ指を一本立てた。
「目で追って」
指が左右へ動く。右端から中央へ戻る瞬間だけ、視界の奥がわずかに揺れた。
「右向きから戻るとき、遅れた」
「自覚はあります」
「嘘。今、初めて気づいた顔をした」
反論できなかった。
雨宮は自分の端末へ何かを入力する。
「条件を追加する。入場前、各階到着時、異常検知後に平衡検査。二回続けてずれたら、久世さんの同意がなくても撤退」
「一回では駄目ですか」
「床が傾いている可能性と区別するために二回」
「合理的です」
「治療師へ値切り交渉しないで」
レナの指が、机の下で一度だけ強く握られた。
「本人が平気だと言っても、症状が出たら止める。それも契約に入れるわ」
言い方はきっぱりしていたが、返事までにあった一呼吸だけは、妙に重かった。
レナの肩から、ほんの少し力が抜けた。
条件を並べる俺が、自分だけ安全な場所に立とうとしているように見えたのかもしれない。だが保全は、誰か一人に止める責任を押しつける仕事ではない。
俺が構造を止める。
雨宮が俺を止める。
レナは全員を撤退させる。
それぞれが別の危険を見て、互いの死角を塞ぐ必要がある。
「私からも条件がある」
レナが言った。
「あなたが停止を宣言したら、私たちは従う。その代わり、安全を確保したあとで必ず根拠を説明して。勘だけでは、次に同じ音を聞いた人が判断できない」
「記録できる音なら、打音と位置を残します」
「記録できない場合は?」
「聞こえた特徴を言葉にします。高い、低いだけじゃなく、間隔、方向、何をしたとき変化したかまで」
「それでいい」
レナは契約書を自分の側へ引き寄せ、〈臨時戦闘補助員〉の文字を二本線で消した。
その下へ、迷いなく書く。
〈事故調査室付・外部保全技術員〉
「これなら?」
「東央迷宮サービスと事故調査室の確認が必要です」
「あなた自身は」
「条件が本文へ入れば、参加します」
真壁が小さく拍手した。
「交渉成立?」
「仮合意よ。まだ喜ばないで」
「でも、これで久世さんもブルー・クラウンの――」
「入りません」
「最後まで言わせて」
壁面モニターから着信音が鳴った。
表示された相手は鳴海だった。作業着のまま事務所の机へ座り、受け取った契約書を紙へ印刷している。画面越しでも、赤い修正印が何個も押されているのが見えた。
「久世。勝手に他社の社員になる話はしてないだろうな」
「最初に断りました」
「ならいい。天城さん、こいつの給料を直接払う形にはしないでください。うちが業務を受託して、久世を派遣する。保険も労災も装備管理も、そのほうが切れ目がない」
レナがうなずく。
「危険手当は、そちらの規程で最上位区分を適用します」
「準備と撤収も勤務時間です。現場へ入っている時間だけじゃない。帰還後の除染、工具点検、報告書作成まで含める」
「了解しました」
鳴海は次のページをめくった。
「それから、深夜まで契約を詰めて朝五時集合なんて予定は認めません。次の入場日時が決まったら、勤務間隔を見て調整する。足りないなら日程をずらす」
「主任、四十一階の封鎖解除日はまだ――」
「だから先に書くんだ。予定が決まってから安全条件を足すと、必ず『もう変更できません』って言う奴が出る」
書類嫌いを公言している人とは思えない正論だった。
「久世を貸すんじゃありません。東央迷宮サービスが保全業務を引き受ける。そこを間違えないでください」
鳴海は最後にそう言い、修正箇所を事務担当へ送った。
会社の名前が表へ出るのを嫌がる人もいる。鳴海は逆だった。責任を負うなら、責任を果たすための権限も会社に残す。
俺一人の特殊な力で解決したことにすれば、次の現場で同じ事故を防げない。
◇
契約書の修正を事務担当へ送ったあと、城戸が地下の訓練室を案内すると言い出した。
「俺たちがどう護衛するか、先に見ておいたほうがいい」
地下には、実際のダンジョン通路を再現した全長三十メートルの訓練区画があった。壁材は樹脂製だが、床には新宿第八ダンジョンの浅層と同じ摩擦係数を持つ模擬石材が敷かれている。
城戸が大型盾を構え、レナと真壁が左右へ展開する。夏目は後方で杖を上げ、雨宮は最後尾についた。
俺の立ち位置は中央。工具箱を背負い、両手を空けて移動する。
最初は標的を出さず、隊列移動だけを試した。城戸の合図で五人が一斉に間隔を詰める。俺も続いたが、工具箱の重みで切り返しが半歩遅れ、右側に人一人分の隙間が開いた。
「止める」
レナがすぐに手を上げた。
「久世は私たちと同じ速さでは動けない。城戸は前進幅を半分。真壁は右後方を空けないで」
「俺に合わせると遅くなります」
「護衛対象を置き去りにする速さは、攻略速度とは呼ばないわ」
反論はできなかった。俺は戦えないだけでなく、戦う人間の動きにも慣れていない。その事実を全員が確認してから、配置をやり直した。
「魔物役は自動標的。攻撃魔術は最低出力でいく」
夏目が操作盤を押すと、奥の壁から黒い人型標的が三体飛び出した。
城戸の盾が床を打つ。
どん、と重い音が響いた。
一体目を受け止め、レナが右から切り込む。青い炎は使わず、模擬剣で首の印を正確に叩いた。真壁が二体目の足を払い、夏目の細い電撃が三体目を止める。
十秒もかからない。
「どう?」
レナが振り返る。
「もう一度、城戸さんだけ止まってください」
「俺?」
「盾を床へ固定したまま、動かさないで」
俺はしゃがみ込み、盾の下端へ耳を近づけた。
ダンジョンの痛みの音ではない。もっと単純な、金属が限界へ近づいたときの擦れだった。
き、き、と、城戸が呼吸するたびに鳴る。
「盾の固定爪を最後に交換したのはいつですか」
「三日前だ。四十一階へ入る前」
「新品?」
「予備ラックにあった整備済み品だ」
「荷重を抜いてください」
城戸が盾を寝かせる。俺は工具箱から樹脂製の敷物を出し、その上で固定爪の軸を外した。
見た目には傷一つない。
俺は携帯用の浸透探傷キットを開いた。軸を洗浄剤で脱脂し、赤い浸透液を塗る。数分置いて表面の液だけを拭き取り、白い現像液を薄く吹きつけた。
根元に、髪の毛ほどの赤い線がにじみ出た。
夏目が息をのむ。
「ひび?」
「ただの表面傷ではありません。内部まで達している可能性があります。再研磨で細くなっていた根元に、昨日、裂け目を固定したときの横荷重が重なったんでしょう」
城戸の顔から笑みが消えた。
「次に強く固定したら?」
「爪が折れます。盾は倒れて、後ろにいる人を巻き込む」
雨宮が自分の立ち位置を見た。
盾の真後ろ。折れた場合、最初にぶつかる場所だ。
レナが訓練室の非常停止ボタンを押した。残っていた標的が壁へ戻り、警告灯が消える。
「全装備を再検査する」
「明日の再点検に間に合わないぞ」
城戸が言う。
「間に合わせるために壊れた装備を持っていくの?」
レナの返事は速かった。
四十一階で会ったときと同じ強さだったが、向いている方向が違う。
攻略を進めるためではなく、止めるための即断だった。
俺は固定爪を透明な証拠袋へ入れた。
「同じ整備記録の部品から優先して調べましょう。全部を分解する必要はありません。仕入れ番号、研磨担当、使用階層で絞れます」
「久世さん」
城戸が盾を見下ろしたまま言う。
「助かった」
「まだ助かってません。代替爪を取り付けて、荷重試験が終わるまでが作業です」
「厳しいな」
「保全なので」
二十分後、同じ整備番号の固定爪が三本見つかり、そのうち二本に同じ亀裂が出た。予備部品へ交換し、城戸が通常の一・五倍の荷重を三十秒かける。異音はない。
今度こそ、俺は作業ノートへ完了の印をつけた。
レナは修正された契約書を端末で確認しながら、その様子を見ていた。
「攻略チームへ入らない理由、少し分かった」
「そうですか」
「私たちは敵が出たら前を見る。あなたは、立っている場所と、帰りに使う道を見る」
「両方必要です」
「ええ。だから、別の役割として契約する」
端末の画面に、鳴海の承認印が追加された。続いて倉橋調査官の本承認が表示される。
正式契約の現場呼称は外部保全技術員。構造異常時の九十秒停止権限。映像の同時提出。工具補償。医療担当による強制撤退。
俺が求めた条件が、今度は口約束ではなく文字になっていた。
最後の署名欄へ、俺の名前を入力する。
確定を押した瞬間、右手首の紋章が袖の下で熱を持った。
その直後、全員の端末が同時に震えた。
探索局事故調査室からの緊急通知だった。
〈地下四十一階の限定封鎖を、明朝六時に解除する〉
〈共同再点検班は午前五時、新宿第八ダンジョン管理棟へ集合〉
添付された最新平面図を開く。
会議で見た平面図では一本だった、転移門から事故地点への経路が二本に増えていた。
灰色の細い通路が、正規経路の下を並行している。
建築記録にも探索地図にも存在しない道だ。
その入口には、白い文字で新しい名称が表示されていた。
〈旧式保全通路――認証者:久世直人〉
「俺は、こんな通路を開けてません」
誰も答えなかった。
手首の白い紋章が、返事をするように一度だけ光った。




