2話 切り抜き動画の清掃員
「佐伯さん、代表回線以外は留守電に切り替えろ。久世、お前は裏の隔離庫だ」
翌朝七時十二分。
東央迷宮サービスの資材倉庫へ出勤した俺を待っていたのは、現場主任の鳴海剛志と、鳴りやまない六台の固定電話だった。
一本切れるたび別の一本が鳴る。事務員の佐伯さんは左右の手で二台を受け、口だけで裏口を示した。
「はい、東央迷宮サービスです。久世への取材は……申し訳ありません、個人情報は……ですからモップの銘柄もお答えできません」
壁の時計より、電話の着信ランプのほうが忙しく点滅している。
「何があったんです」
「お前が聞くな」
鳴海は俺を裏口から資材ヤードへ連れ出し、緊急隔離庫に併設された観測ブースへ押し込んだ。
隔離庫は、未鑑定の回収物を探索局へ引き渡すまで保管するための、小型倉庫ほどの箱だ。電線も魔力回路も通していない。昨夜は探索局から「汚染範囲が分かるまで再移送するな」と指示され、黒い槍をここへ収めていた。
強化樹脂の観測窓の向こうで、槍は透明なフッ素樹脂製の内筒に封じられている。内筒の下半分は白い乾燥砂に埋められ、外箱は四本の樹脂製支柱で床から浮かされていた。地面にも金属にも、直接は触れていない。
魔力結界は使わなかった。正体の分からない物に、利用できるエネルギーを近づけないためだ。温度、重量、内圧も、電気を使わない機械式計器で測っている。
宿直担当は十五分ごとに数値と外観を記録し、午前六時からは早番の浜田さんが監視を引き継いでいた。
観測窓越しでも、槍は導管から抜いたときより黒く見えた。表面が光を吸い込み、銀色の鳥の紋章だけが冷たく浮いている。
「まず確認する。体に異常は」
「耳鳴りが少し。手首の紋章は消えてません」
作業着の袖をまくる。白い輪は薄くなったが、皮膚の下で呼吸するように明滅していた。
鳴海は触らず、写真だけを撮った。
「痛むか」
「いいえ」
「声は聞こえるか」
「今は何も」
「なら、そのまま何もするな。医療班が来るまで水以外を口にするな。知らない番号に出るな。知らない契約書に署名するな。あと動画を見るな」
「もう遅いです」
俺は携帯端末を観測卓へ置いた。
画面には、俺がゴム手袋をはめる場面が映っている。見出しは『武器なし清掃員、国内七位を救う』。再生回数は三百六十二万。投稿から九時間で、だ。
別の切り抜きは『三百万のカメラを忘れろと言った男』。こちらは百九十万回。
最も短い十五秒の動画では、ミコトの『おかえりなさい、マスター』だけが繰り返され、その下に勝手な字幕がついていた。
――正体を隠していた伝説の探索者。
――百八十七年前から生きる不老の技師。
――迷宮の恋人。
反応は称賛だけではなかった。
――清掃会社とブルー・クラウンの仕込みだ。
――無許可で迷宮設備へ触れた作業員を英雄扱いするな。
――本当に危険なら、どうして八万人以上へ配信した。
事実、憶測、正論、それに面白がるだけの言葉が、同じ速さで広がっていた。単純な炎上というより、誰も止め方を知らない拡散騒動だった。
「最後のは訴えられませんか」
「誰にだ。迷宮にか」
鳴海は頭を抱えた。
「昨日の配信枠は限定公開だった。だが同時接続八万二千人のうち誰かが録画し、日付が変わる前に拡散した。ブルー・クラウンは公式声明を出して、映像が本物だと認めた」
「認めたんですか」
「合成だと言えば、お前が助けた事実まで消えるからな。天城の判断だそうだ」
強気で、即断型。
だが昨日、導管の前で俺を止めようとした声は、本気で人を案じていた。
「それで会社の電話が」
「テレビ、新聞、配信事務所、工具メーカー、宗教団体。『迷宮の声を聞く有料相談』を始めたいって占い師からも来た」
「断ってください」
「全部断ってる。だが問題はそっちじゃない」
鳴海が隔離記録の紙を指で叩く。
「地下四十一階は探索局が封鎖した。事故調査が終わるまで、うちの入場許可も停止だ。先方は、お前が許可なく未知の構造物へ触れたことを問題にしている」
「触らなければ崩落していました」
「分かってる。俺が許可した作業範囲は機材回収と漏出確認までだ。緊急避難だったと報告書には書いた」
「主任の責任にするつもりですか」
「現場主任ってのは、部下が規則を破ったときに先に怒られるためにいる」
乱暴な言い方だった。
俺は返す言葉を探したが、観測ブースの外扉から三度、硬いノックが響いた。
「探索局です」
入ってきた女性は四十歳前後に見えた。灰色のスーツの襟に、探索局事故調査室の銀章がある。髪を短く切り、紙の資料だけを薄い鞄へ収めていた。
「事故調査官の倉橋真弓です。久世直人さん、鳴海剛志さん。記録のため、会話を録音します」
「弁護士が来るまで待ってもらえるか」
鳴海が言う。
「事情聴取ではなく、証拠品の引き渡しと健康確認です。質問への回答は任意。拒否しても不利益には扱いません」
倉橋は録音端末を観測卓へ置き、俺たちの同意を待った。
動画の再生回数より、その一秒の待ち方のほうが信用できた。
「構いません」
俺が椅子へ座ると、鳴海も渋々うなずいた。
倉橋は昨日の時系列を一つずつ確認した。四十一階へ入った時刻。異音を感じた場所。ブルー・クラウンが戻った時刻。転移門が赤へ変わった時刻。黒い槍を抜いた理由。
俺は分からないことを分からないまま答えた。
「迷宮の痛みが聞こえた、という発言があります」
「音の違いです。空洞や亀裂があると、打音が変わります」
「映像では、工具を入れる前から異物の位置を特定しているように見える」
「完全には特定していません。導管の脈と反響を合わせました」
「管理人格らしき音声は、あなたを保全担当者と呼んだ」
「俺にも意味は分かりません」
「百八十七年ぶり、とも」
「ダンジョンが出現したのは約三十年前です」
「ええ。だから調べます」
倉橋は誘導しなかった。超能力とも詐欺とも決めつけず、答えを記録していく。
「黒い槍を確認します。内筒を遠隔開封しても?」
倉橋が隔離庫の手動操作盤へ手を伸ばした。
「待ってください」
口から先に言葉が出た。
二人が俺を見る。
槍から音がしたわけではない。だが、内筒を囲む白い乾燥砂の左端だけが、薄い灰色へ変わっていた。変色は外箱の左奥へ向かって、ゆっくり広がっている。
「砂を見てください。色が変わっています」
鳴海が観測窓へ顔を寄せた。
「左の支柱も沈んでるな」
床から浮いているはずの外箱が、わずかに傾いていた。左奥の支柱は樹脂製の養生板へ二ミリほど食い込んでいる。透明な外箱の内側では、灰色になった乾燥砂が支柱へ根を伸ばすように、黒い石へ変わり始めていた。
倉橋はすぐ内線で技官を呼んだ。事故調査室の二人が防護服を着て現れ、携帯端末と魔力式の測定器を外へ置く。代わりに持ち込んだのは、手回し式の樹脂クレーンと機械式の計器だけだった。
若い技官が、宿直から続く保管記録と重量計の針を見比べる。
「風袋を引いた正味荷重です。午前零時、六・八キログラム。午前三時、七・一。午前六時、九・四。現在、十二・四。まだ増えています」
「槍そのものが重くなったとは限りません」
俺が言うと、倉橋が振り返った。
「触れずに異常箇所を示せますか」
観測ブースの壁には、隔離庫の床下架台へつながる打音検査棒がある。俺は丸い持ち手を握り、指の関節で二度叩いた。
こん、こん。
槍からは反響がない。代わりに、左奥の支柱から細い震えが返ってきた。
きい、きい。
昨日より小さい。けれど間違えようがない。
「重くなっているのは槍だけじゃない。砂と支柱を取り込んで、周囲を迷宮の床へ変えようとしています」
言い切った瞬間、倉橋の表情が初めて動いた。
「ここは地上です」
「だから失敗している。接続先を探してる音がします」
技官が手回しクレーンを隔離庫の搬入口へ固定した。
「持ち上げて、固まった砂から切り離します」
「金属部品や魔力補助は使わないでください。四方から樹脂板を差し込み、支柱と侵食された養生板を分離します」
「内筒の試料採取は」
「今は開けません。この槍は導管へ刺さっていた。抜いたあとも接続を探してる。開ければ、近くの魔力が高いものへ根を張るかもしれない」
「根拠は」
「ありません。だから安全側へ倒します」
鳴海が鼻を鳴らした。
「保全屋の答えだな」
倉橋は数秒考え、技官へ指示した。
「提案どおり分離。内筒と外箱を非魔力輸送容器へ二重封入し、第二種隔離庫へ移送します。開封試験は遠隔設備で。久世さんの意見を記録へ添付してください」
四枚の樹脂板が支柱の下へ差し込まれ、黒く侵食された養生板との間を断った。外箱は手回しクレーンで持ち上げられ、さらに大きな輸送容器へ静かに降ろされる。
輸送容器が資材ヤードを出るころには、養生板に残った黒い変色も広がりを止めていた。
小さな解決だった。だが、昨日の映像が偶然でも演出でもないことを、その場にいた全員が理解した。
事情聴取は正午前に終わった。
倉橋は俺の作業停止を命じなかった。ただし四十一階への再入場は禁止。黒い槍は正式な証拠品として探索局が預かり、東央迷宮サービスには受領証が発行された。
「消息不明の〈シルバー・バード〉との関係を調べます」
倉橋は鞄を閉じた。
「ご家族への発表より先に、紋章だけで断定しないでください」
「もちろんです」
「もう一つ。配信映像について、あなたから説明する予定は」
「ありません」
「そうですか」
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「説明しない自由もあります。ただ、空白は他人の物語で埋まります」
その言葉の意味を、午後になって知った。
休憩室の長机には、昼の弁当が六つ並んだまま冷えていた。
普段なら現場から戻った作業員が、泥の種類や安い工具の悪口を言いながら平らげる時間だ。今日は誰も箸を取らず、窓の外を気にしている。
「三十六階の定期清掃、先方から延期だってさ」
先輩作業員の浜田浩平が言った。
「記者が転移門までついてくるかもしれないから、だと。うちは動物園じゃないっての」
「すみません」
「なんで久世が謝る。カメラを置いたのはお前じゃないし、床を壊したのもお前じゃない」
それでも、映像の中心にいたのは俺だ。
受付には取材だけでなく、新規の点検依頼が二十七件来ていた。反対に、予定されていた仕事が三件保留になった。依頼主は俺を指名し、現場の仲間は騒ぎに巻き込まれる。
名前が売れるというのは、給料が上がることでも、仕事が楽になることでもないらしい。これまで均等にかかっていた重さが、別の場所へ偏るだけだ。
俺は弁当の蓋を開けず、会社の公式端末を借りた。
「何してる」
鳴海が背後から画面をのぞく。
「空白を埋めます」
会社の公式アカウントに、短い文章を作った。
〈映像に映った作業は、崩落回避のための緊急保全です。久世直人は探索者ではなく、東央迷宮サービスの作業員です。現在、探索局の調査に協力しています。会社周辺およびダンジョン入口での待機は、通常業務と避難経路を妨げるためおやめください〉
「英雄でも伝説でもない、は入れないのか」
「否定しても、その部分だけ切り抜かれます」
「学習が早いな」
鳴海が投稿許可の欄へ主任番号を入力する。
「最後に一行足せ。うちの会社らしいやつを」
考えてから、俺は追記した。
〈安全な場所に立っていただくことも、保全へのご協力です〉
投稿後十分で、会社前にいた数人が移動した。全員ではない。それでも搬入口から、午後班の車を一台出せるようになった。
派手な解決ではない。
けれど現場というものは、大抵そうやって少しずつ正常へ戻す。
それでも会社の前には二十人近い配信者が残っていた。俺が伝説の探索者だと叫ぶ者。迷宮と会話してみせろと迫る者。清掃カートへ触れば加護が得られる、と勝手に拝む者までいる。
裏口から帰ろうとしたところで、黒いワゴン車が路地を塞いだ。
降りてきたのは、天城レナだった。
配信用の装備ではなく、黒い帽子と灰色のパーカー姿。それでも背筋の伸び方だけで彼女だと分かる。
「乗って」
「誘拐ですか」
「救助。表へ出たら、あなたのゴム手袋がどこの製品か実演させられるわよ」
「もう問い合わせが来ました」
「でしょうね」
助手席には真壁がいた。俺を見るなり両手を合わせる。
「本当にすみませんでした。カメラの予備回線、切ったつもりで切れてませんでした」
「三百万の機材だからですか」
「そこ、永遠に使われるやつだ」
車が路地を抜ける。追いかけてきた配信者たちが小さくなった。
「どこへ行くんです」
「ブルー・クラウンの事務所。正式に話がある」
レナは前を向いたまま言う。
「探索局から、封鎖解除後の共同再点検班へ参加要請が来た。事故調査室が指揮する正式な調査よ。ブルー・クラウンの推薦枠に、あなたを保全担当として入れたい」
「封鎖がいつ解除されるかも決まっていません」
「分かってる。勝手に四十一階へ入る話じゃない。再入場が許可されたとき、昨日の異常を見つけた人間が必要だと判断したの」
「お断りします」
即答すると、真壁が振り返った。
「早くない?」
「俺は探索者ではありません。魔力量も基準未満です。昨日は帰れなかったから直しただけです」
「分かってる。戦えとは言わない」
「ダンジョンへ入って、皆さんが戦っている横で点検しろという話なら、同じです」
レナがようやく俺を見る。
「じゃあ、どういう条件なら来る?」
断られるとは考えていた顔だ。しかし、断ったら終わりだとは考えていない。
俺は車窓へ目を移した。
携帯端末が震える。また動画の通知かと思ったが、表示されたのは探索局の証拠品受領システムだった。
黒い槍の仮登録名。その下に、回収物の刻印を自動照合した結果が出ている。
〈シルバー・バード所属装備。登録者――該当なし〉
続いて、見慣れない一行が点滅した。
〈製造記録照合:登録日、ダンジョン出現以前〉
俺は画面を閉じられなかった。
三十年前に現れたはずの迷宮から見つかった槍が、それより前から存在していた。
昨日の少女の声が、頭の奥で蘇る。
――百八十七年ぶりの接続です。
「久世?」
レナに呼ばれ、俺は端末を伏せた。
「条件の話でしたね」
四十一階へ戻りたいわけではない。
ただ、壊れる前の音を聞いてしまった以上、知らないふりもできなかった。
「まず、俺を攻略チームへ入れないことです」
車内に、短い沈黙が落ちた。




