1話 ボス部屋にモップを忘れたのは誰ですか
「動くな! そいつを踏んだら、この階層が落ちる!」
俺が叫ぶと、国内探索者ランキング七位、天城レナの足がぴたりと止まった。
青い炎をまとった長剣を構えたまま、彼女はゆっくり視線を落とす。黒い革のブーツ。その爪先から、わずか三センチ先。石床の継ぎ目に、油のような黒い液体が細い筋を作っていた。
「階層が落ちる?」
「右足を動かさないでください。左へ重心を移すのも駄目です」
「命令しないで」
「では業務上のお願いです。死にたくなければ、そのままで」
背後で誰かが息をのんだ。
国内有数の探索チーム〈ブルー・クラウン〉の五人が、武器を持たない清掃員の指示で固まっている。おそらく世界でここだけの光景だ。
けれど、笑える人間はいなかった。
床の黒い筋が、脈を打つように一度だけ膨らんだからだ。
◇
三十分前まで、俺――久世直人は、地下四十一階へ来る予定などなかった。
新宿第八ダンジョン。地下鉄の旧連絡通路を中心に広がった、国内最大級の迷宮である。
三十年前、世界各地に突然現れたダンジョンは、魔石や未知の金属を産出した。十年前には探索の様子を生中継することが当たり前になり、今では人気探索者のチャンネル登録者数が芸能人を上回る。
華やかな攻略配信が終わったあと、画面に映らない仕事をする人間もいる。
血痕を落とす。破損した誘導灯を交換する。作動済みの罠を停止し、折れた矢や薬莢を回収する。転移門の接続を確かめ、次の探索者が五体満足で帰れる状態へ戻す。
それが、東央迷宮サービスの仕事だ。
俺は正規探索者ではない。二十四歳、契約作業員、手取りは危険手当込みでもランキング探索者の一配信分に届かない。
普通の職場に馴染めない俺にとって、余計な世間話より異音へ耳を澄ませるこの仕事は、唯一まともに続けられた仕事だった。
午前中の作業予定は地下三十八階までだった。
ところが正午過ぎ、無線機から現場主任の鳴海剛志の怒鳴り声が飛んできた。
『久世、四十一階へ上がれ。いや、下がれ。迷宮で上がる下がるは紛らわしいな、くそっ』
「主任、四十一階は昨日まで未踏破です」
『今日、ブルー・クラウンがボスを倒した。転移門も開通したと探索局から連絡が来た。あいつら、撤収時に配信用カメラと機材箱を一つ置き忘れたらしい』
「機材回収は探索者の仕事でしょう」
『先方が追加料金を払う。お前はカメラを拾って、床に飛び散ったボスの血が設備へ入ってないか見るだけだ。危険を感じたら即帰れ。追加料金より命が高い。復唱』
「危険を感じたら即帰還。追加料金より命が高い」
『よし。それとな、何か変な音はするか』
最後の質問だけ、鳴海の声は少し低かった。
彼は俺が異常を音で見つけることを、単なる耳の良さだと思っている。それでいい。説明できないものを説明しようとすると、大抵は仕事が増える。
「三十八階までは正常です」
『なら行ってこい。十分で戻れ』
俺はモップ、吸水布、補修材、携帯工具を清掃カートへ積み、開通したばかりの転移門をくぐった。
地下四十一階の空気は、雨が降る直前の鉄橋に似た匂いがした。
サウナのような蒸し暑さが広間中にこもり、作業着が背中へ貼りつく。
円形の広間。その中央には、首を落とされた六本腕の巨人が横たわっている。壁には戦闘の傷が走り、石床には黒い液体が飛び散っていた。
探索者はそれを、倒した魔物の血と呼ぶ。
清掃員は違う名前で呼ぶ。
――迷宮漏れ。
魔物の血は時間がたてば灰になる。しかし迷宮そのものが傷ついたときに染み出す黒い液体は、いつまでも乾かない。放置すれば罠の誤作動、転移門の停止、ひどい場合は階層崩落を引き起こす。
俺は入口で足を止めた。
こん、こん、こ――ん。
床の奥から、深い音が返ってくる。
父は地下鉄設備の保全技師だった。子どもの頃、点検中の父について行くと、彼は配電盤へ耳を寄せてよく言った。
『機械は黙って壊れない。止まる前には、必ずいつもと違う音を出す。止まってから直すのは修理だ。止まる前に気づくのが保全だぞ、直人』
ダンジョンにも、壊れる前の音があった。
問題は、その音が耳から聞こえているのか、頭の内側から聞こえているのか、俺自身にも分からないことだ。
「十分じゃ終わらないな」
無線機へ手を伸ばした直後、背後の転移門が光った。
戻ってきたのは〈ブルー・クラウン〉の五人だった。
先頭は天城レナ。長い黒髪を高い位置で結び、青い長剣を腰に下げている。その後ろに大型盾を背負った副隊長の城戸蒼真、雷撃魔術師の夏目紗季、斥候の真壁悠斗、治療術師の雨宮凛。
画面越しに何度も見た顔だが、全員、配信で見るより疲れていた。
「回収を任せたはずだけど、まだ終わってないの?」
天城が俺の制服を見て言った。
「転移門が一度、赤く点滅したんです」
雨宮が説明する。
「治療術の感覚だと、この階層全体の魔力が乱れてる。作業員だけでは危険だと思って戻りました」
「助かります。今から全員で帰って、四十一階を閉鎖してください」
俺が言うと、真壁が目を丸くした。
「え、カメラは? 限定仕様で三百万するんだけど」
「床が落ちたら三百万では足りません」
「床が?」
真壁が広間を見回す。その左手に、回収した機材箱があった。だが配信用の球形カメラは見当たらない。
「置いた場所はどこですか」
「ボスの正面。あそこ」
指さした先に、赤いランプが見えた。
問題の黒い筋を挟んだ向こう側だ。
「俺が取ります」
真壁が一歩進んだ。
「待ってください」
俺はモップの柄で床を軽く叩いた。
こん、こん、こ――ん。
三つ目だけ、音が深い。地下鉄のトンネルに空洞が生まれたときと似ている。だが、その奥から錆びた蝶番のような泣き声が混じっていた。
きい、きい。
痛い。
誰かの言葉ではない。それでも意味だけが、頭蓋骨の内側へ流れ込んでくる。
「壁際を、俺が踏んだ場所だけ通ってください」
「ねぇ、清掃員さん」
天城が眉を寄せる。
「さっきから、何が分かっているの」
「毎日、床を見ていますから」
「答えになってない」
「詳しい説明は地上でします。今は――」
そのとき、ボスの死骸の下で石が擦れる音がした。
黒い液体が広がる。
天城は反射的に前へ出た。死骸が動いたと思ったのだろう。彼女の右足が、黒い筋の寸前へ下りる。
「動くな!」
冒頭の光景に戻る。
「そのまま、右足を後ろへ三歩。床から離さず、滑らせてください」
「私に指図を――」
「レナ、従え」
城戸が低く言った。
盾役は、足元の危険を軽視しない。天城は一瞬だけ彼を見て、奥歯を噛んだ。
一歩。二歩。三歩。
彼女が安全域へ入った瞬間、元いた場所が息を吐いた。
ぼこり、と黒い液体が盛り上がる。
石床が縦に裂けた。
裂け目の奥に見えたのは、暗い穴ではない。巨大な赤い肉壁と、その中央で明滅する白い結晶だった。
「生体反応があります」
雨宮が青ざめる。
「この階層、生きてる……?」
「迷宮核の導管です」
教本では図だけ載っている。実物を見た保全作業員は、国内に何人いるだろう。
導管はひどく腫れ、その根元へ黒い液体が溜まっていた。
壁の燭台が一斉に消える。
出口の転移門が青から赤へ変わった。閉鎖状態。真壁が端末を叩くが、接続先が表示されない。
「総員、円陣!」
城戸が盾を構えた。
夏目の指先で雷が弾け、雨宮が防護膜を張る。天城の長剣から青い炎が噴き上がった。
「どこを斬ればいい?」
「斬らないでください。出血が増えます」
「じゃあ、どうするの」
俺は清掃カートを引き寄せた。
替えのモップ。中性洗剤。吸水布。金属ブラシ。補修材。検電器。小型内視鏡。ラチェットハンドル。それから、ホームセンターで一箱千九百八十円のゴム手袋。
探索者用の武器は一本もない。
「詰まりを取って、傷を塞ぎます」
「それで直るの?」
「直すんです。帰れないので」
ゴム手袋を二重にはめ、裂け目の前へ膝をつく。
黒い液体が手袋へ触れた。冷たいはずなのに、指先が焼けるように痛む。
「久世さん、脈拍が上がっています」
雨宮が言う。
「痛みはありますか」
「俺のじゃありません」
口にしてから、しまったと思った。
「誰の痛み?」
返事をせず、携帯工具から小型内視鏡を取り出す。先端を白い結晶の裏側へ差し込むと、端末の画面が激しく乱れた。
映像は使えない。
なら、音で探す。
ラチェットハンドルの細い延長棒を導管へ入れ、数ミリずつ角度を変える。
きい、きい。
違う。
そこじゃない。
言葉ではない拒絶が押し寄せる。耳鳴りが強まり、視界の端が白くなった。
「もうやめなさい」
天城の声が飛んだ。
「顔色が変よ。別の方法を探す」
「探している間に、この階層が落ちます」
「だからって、清掃員一人を犠牲にするわけにはいかない!」
初めて、彼女の声から苛立ちではないものを感じた。
恐怖だ。
国内七位の探索者も、仲間が目の前で傷つくことを恐れる。
「一人でやるとは言ってません」
俺は城戸を見る。
「裂け目が閉じないよう、盾の下端をここへ。押し広げず、今の幅を維持してください」
「了解」
「夏目さん、雷ではなく一番弱い照明魔術を。端末が復帰する程度でいい」
「そんな出力、逆に難しいんだけど……やる」
「雨宮さんは俺ではなく導管の脈を数えてください。真壁さん、転移門が一瞬でも青になったら全員へ知らせる」
「カメラは?」
「忘れてください」
「三百万……」
軽口が戻った。それだけで、全員の呼吸が少し整う。
城戸が裂け目を固定し、夏目の淡い光が内部を照らす。雨宮が脈の間隔を読み上げる。
「三秒、二秒、三秒……次、二秒」
規則が一か所だけ崩れる。
二秒の直前に、工具を右へ回した。
硬い異物へ先端が当たる。
「見つけた」
ラチェットへフックを取り付け、異物の縁へ掛ける。引いても動かない。俺の腕力では足りない。
「天城さん、剣を貸してください」
「斬るなって言ったでしょう」
「斬りません。柄を梃子にします」
一瞬の沈黙。
天城は炎を消し、長剣を差し出した。
国内七位の愛剣へ布を巻き、裂け目の縁を支点にする。城戸が柄の反対側を握った。
「せえの、で引きます。雨宮さん、二秒の脈を」
「三、二、三――次!」
「せえの!」
異物が抜けた。
床へ転がったのは、腕ほどの長さで折れた黒い槍だった。表面に、見覚えのある銀色の鳥が刻まれている。
半年前、この階層へ続く未踏区域で消息を絶った探索チーム〈シルバー・バード〉の紋章だ。
「どうして、これが導管の中に……」
真壁の声が震えた。
答える前に、赤い肉壁の腫れが引き始めた。
黒い液体が透明へ変わる。裂け目の縁から淡い光が伸び、壊れた石床を縫うように塞いでいく。
「転移門、青!」
真壁が叫んだ。
それでも誰も走らなかった。
広間の中央、忘れられた球形カメラがゆっくり向きを変えたからだ。
赤い録画ランプが点いている。
「真壁」
天城の声が低くなる。
「配信、切ったわよね」
「切った。絶対切った。撤収前に終了ボタンを押した」
「ランプ、赤いけど」
「予備回線かも」
「かも?」
真壁が端末を開く。顔から血の気が引いた。
「限定公開のテスト枠が、生きてる」
「視聴者は」
「今、八万二千」
俺は聞かなかったことにしたかった。
だが、どこからともなく響いた少女の声が、それを許さなかった。
『損傷率、許容域まで回復』
全員が凍りつく。
声は壁からも床からも聞こえた。同時に、俺の頭の奥へ直接触れていた。
「誰だ!」
反射的に振り向く。だが、広間にいるのはブルー・クラウンの五人だけだ。
両手で耳を塞ぐ。それでも少女の声は小さくならない。それどころか、頭蓋骨の内側を指でなぞられるような感触が強くなった。
「久世さん、大丈夫ですか?」
雨宮の声が遠い。
『旧式保全権限の照合を開始します』
「やめろ。何を照合するつもりだ」
裂け目から白い光が伸び、俺の右手首へ絡みついた。
「っ、何だこれ!」
腕を引く。光の輪は皮膚へ食い込み、振り払おうとしても指一本分すら動かせない。熱くも冷たくもないのに、知らない文字を体の中へ書き込まれていく感覚がした。
「久世、そこから離れて!」
天城が俺の肩をつかむ。
「無理です。腕が動かない!」
『照合完了。保全担当者を確認しました』
「待ってくれ! 俺はただの清掃員だ。そんな担当になった覚えはない!」
『職種名の更新を受理しました』
「そこだけ受理するな!」
少女の声は、少しだけ楽しそうに聞こえた。
『百八十七年ぶりの接続です。おかえりなさい、マスター』
「誰がマスターだ!」
八万二千人が見守る配信画面の中央で。
俺の右手首に、新しい身分証のような白い紋章が浮かび上がった。




