10話 百八十七年前の作業記録
「この記録を開けば、久世さんのお父様の事故にも触れる可能性があります」
倉橋調査官は、封印された記録箱へ手を置いた。
地下四十一階から白石灯を救出して三時間。場所は探索局の解析室。白石本人の同意と医師の許可を得て、俺たちは記録箱の複製作業を始めようとしていた。
「途中で止めますか」
「いえ。見ます」
声は思ったより普通に出た。
父の事故は十五年前だ。地下鉄設備の点検中に起きた崩落。報告書には、老朽化した共同溝の壁が予測不能に破断した、とだけ書かれていた。
俺は、その説明を確かめたくて現場に残り続けた。
今さら怖がって閉じるには、記録箱は重すぎた。
倉橋さんが立会人を確認する。探索局から倉橋さん。東央迷宮サービスから鳴海主任。ブルー・クラウンからレナと夏目。治療担当として雨宮。御堂アークスからは設備安全課の三枝さんだけが呼ばれた。
箱の所有権は白石にある。原本を動かさず、夏目の記録術で像だけを写す。複製にも通し番号を付け、閲覧した時刻と人間を残す。
「開けます」
倉橋さんが封印を解いた。
蓋の裏には、薄い板が十二枚重なっていた。金属でも紙でもない。乳白色の表面に触れると、細い文字と線が浮かび上がる。
〈第八都市保全記録・引継用〉
最初の板に表示された日付を見て、誰もすぐには話さなかった。
現在の暦へ換算すると、百八十七年前。
ダンジョンが出現したとされる三十年前より、百五十年以上も古い。
「年代測定の結果が出るまでは、表示の日付だけで製造年代を確定しません」
倉橋さんが言った。
「文字が後から書き込まれた可能性もあります」
「それでも、現行の探索者規格じゃない」
三枝さんが板の端を指した。
「固定穴の幅が黒い槍と同じです。うちの会社で使っている魔導端子より細い」
俺は手首の紋章を板へ近づけた。
触れてはいない。
それなのに、十二枚の板が同時に白く光った。
『引継記録を確認しました』
ミコトの声が頭の奥へ響く。
「待って。今、ミコトが反応した」
全員の手を止めてもらう。
「何を確認した?」
『第八都市の停止前記録です。欠損率、六十三パーセント』
「記録に書かれた第八都市は、新宿第八ダンジョンのことか」
『現在の呼称との照合に、管理区画の位置情報を使用します。照合結果、一致します』
夏目の指が記録端末の上で止まった。
「つまり、ここは昔からダンジョンだった?」
「質問を分けて」
俺は言った。
ミコトは嘘をつかない。でも、人間が質問へ混ぜた思い込みまでは直してくれない。
「ミコト。第八都市は、魔物を倒して資源を取るための施設だったか」
『いいえ』
「本来の目的は?」
『地下循環圧の調整、余剰魔力の分解、地上生活区への影響抑制、保全補助者の退避です』
部屋の空気が変わった。
ダンジョンは資源採掘場ではない。
巨大な設備だった。
「魔物は何ですか」
レナが尋ねる。
俺が同じ言葉でミコトへ聞く。
『現行呼称〈魔物〉の六十一パーセントは、循環内の沈殿物を回収する自律保全体です。二十四パーセントは外部侵入生物。十五パーセントは分類不能です』
「全部が設備じゃないのね」
「そうみたいです」
倒せば安全になる個体もいる。放置すれば人を襲う侵入生物もいる。
けれど、俺たちは保全体まで区別せず狩り、魔石を抜いてきたのかもしれない。
鳴海主任が眉間を押さえた。
「現場の全部をひっくり返す話だな」
「まだ仮説です」
倉橋さんは淡々と言った。
「一つの管理人格と、一つの記録箱から得た情報です。公開前に現物と照合します」
正しい。
驚いたときほど、分かった範囲を小さく区切る必要がある。
俺たちは一枚目から順に複製した。
記録には、地下を迷路にする前の図面があった。
中心に太い循環主幹。そこから六本の支管が伸び、地下鉄や共同溝が造られるより深い場所を通っている。現在の地下四十一階は、当時の保全員が弁や濾過槽へ入る作業区画だった。
床から槍が生える罠は、圧力が異常上昇したときに区画を封じる遮断杭。
転移門は、人を遊ばせる仕掛けではなく、崩落区画から保全員を逃がす非常搬送設備。
宝箱と呼ばれている容器には、交換部品や緊急食が入っていた。
「人が攻略用だと思う形へ、あとから変わっている」
三枝さんが図面を二枚重ねた。
古い直線的な通路の上へ、現在の曲がった階層が増築されている。
「誰が変えたんですか」
『記録がありません』
倉橋さんは、古い図面の各設備へ番号を振った。
「記録を信じるためではなく、間違っている場所を見つけるために現物を見ます。確認できる項目を挙げてください」
三枝さんが最初に手を挙げた。
「固定穴の寸法。黒い槍の環を回したとき、どの方向へ力がかかるかも模型で試せます」
夏目は、転移門の外枠に刻まれた文字と記録板の文字を重ねると言った。鳴海主任は旧式通路に残った支柱と交換部品の数。レナは、魔物と遭遇した位置が古い図面の濾過槽と重なるかを確認する。
俺は図面の細い青線を指した。
「第四補助弁の先です。ここに排出先があるなら、前に直した弁を少しだけ動かして流れの向きを測れます。ただし、今日はいじりません。白石さんを救出したばかりで、隔壁の荷重も変わっています」
「確認のために壊したら意味がない、か」
レナが言った。
「はい。順番を決めます」
倉橋さんは、現物確認を三段階に分けた。
人が入らずにできる照合。閉域カメラと既存計器だけを使う確認。最後に、構造担当と医療担当を含めた再入場。
記録板を見つけた勢いで、地下へ駆け戻らないための手順だった。
夏目が複製画像を拡大する。
古い図面には、保全体の印が二十三個ある。現在の討伐記録と位置を重ねると、十五個が魔物の常設出現地点と一致した。
「六割を超えてる」
「一致したから保全体だとは限りません」
倉橋さんが釘を刺す。
「設備の熱や魔力へ、別の生物が寄っている可能性もあります」
「でも、確かめる価値はある」
レナは討伐記録を見つめた。
「次に同じ場所へ入るとき、最初から敵だと決めない。それだけなら今日からできる」
彼女は魔物を倒す側の人間だ。
そのレナが、剣を抜く前に役割を確かめると言った。
記録の意味は、昔を知ることだけじゃない。次の行動を一つ変えることだ。
「百八十七年前、施設はどうなった?」
『広域境界障害を検出。第八都市は管理者命令により休眠しました』
「再起動は?」
『現在暦の三十年前。地上側掘削機が第三支管へ接触。損傷を敵対侵入と判定し、自律防衛と循環を再開しました』
新宿再開発の大規模地下工事。
一般に最初のダンジョン災害と呼ばれている日だ。
突然現れたのではない。
人間が眠っていた設備へ穴を開けた。
そして設備は、侵入者を追い出すために階層を閉じ、保全体を動かした。
「最初の被害報告と一致する」
倉橋さんが公的記録を開いた。
三十年前、工事現場の地下から黒い液体が噴出。作業員七名が行方不明。二日後、現在の第一階層へ通じる入口が形成された。
黒い液体は、俺たちが迷宮漏れと呼ぶものだ。
「敵対判定を解除できますか」
『全区画の安全確認と、管理者六名の承認が必要です』
「管理者はどこにいる」
『応答なし』
簡単な停止命令では終わらない。
俺の認定は保全担当者であって、管理者ではない。
四枚目の記録には、停止直前の作業日誌が残っていた。
〈循環主幹の唸りを確認〉
〈聴覚適合者は単独接続を禁ずる〉
〈長時間接続後、耳鳴り、平衡障害、出血を確認〉
読み進めるほど、俺の症状と重なる。
雨宮が俺を見る。
「今は?」
「軽い耳鳴りだけです」
「軽い、では記録になりません。左右、強さ、いつから」
「右が二、左が一。箱が光った直後から」
雨宮は時刻を書き、十分ごとの平衡検査を決めた。
日誌の最後には、当時の保全員の名が並んでいた。
知らない名前ばかりだ。
一番下の欄だけ、文字が消えている。
手首を近づけると、欠けた表示が一瞬戻った。
〈適合系統、継承待機〉
その下に、現在の文字で別の記録が重なる。
〈接触事故・久世正志〉
息が止まった。
十五年前の日付。
父が死んだ日だ。
「映像を止めて」
レナが言った。
「久世さん、続けるかは今決めなくていい」
以前の俺なら、そのまま読んだと思う。
父のことだから。
自分だけが聞ける音だから。
けれど、白石を助けたときも、俺一人では受渡口を開けられなかった。
「五分だけ休みます」
そう言うと、鳴海主任が無言で紙コップを差し出した。
水を飲んでも、指の震えは止まらない。
五分後、俺は席へ戻った。
机へ戻る前に、雨宮が廊下で俺を止めた。
「平衡検査をします」
壁へ貼った印を目で追い、踵と爪先をそろえて十秒立つ。三秒目で身体が右へ傾いた。
雨宮の手が肘を支える。
「右へ一回。もう一度はしません」
「二回続いたら撤退の条件でしょう」
「地下での条件です。今は記録を読むだけですが、症状は同じです。今日は接続を増やさないでください」
「父の記録だけは」
言ってから、自分が何を頼んでいるのか気づいた。
安全条件を、自分の事情だけ例外にしてほしいと言っている。
雨宮は叱らなかった。
「ミコトへの質問は久世さんしかできません。でも、板の文字は私たちも読めます。最初は倉橋さんが読み、必要な一点だけ久世さんが尋ねる。それなら接続回数を減らせます」
俺は頷いた。
父の記録を自分の目で確かめることと、一人で全部背負うことは違う。
解析室へ戻ると、レナが俺の椅子を記録箱から一メートル離していた。
「近いほど紋章が反応するんでしょう」
「たぶん」
「なら、必要なときだけ近づく」
勝手に決めるなと言いかけたが、正しい。
俺は離れた位置に座り、倉橋さんが読み上げる声を聞いた。
事故記録は短かった。
地下鉄共同溝の点検中、父は壁の向こうから反復する異音を報告した。現場責任者は老朽管の振動と判断し、作業を継続。父は退避前に作業員二名を押し出し、破れた第三支管へ接触した。
〈未登録適合者を検出〉
〈緊急保全権限の付与、失敗〉
〈生命反応、消失〉
父は事故の原因ではなかった。
設備の異常に、先に気づいていた。
止まる前に気づくのが保全だ。
あの言葉は、仕事の教訓だけではなかったのかもしれない。
父にも、痛みの音が聞こえていた。
記録には、父が救助した二人の識別番号も残っていた。
一人は当時二十七歳の電気工。もう一人は十九歳の見習い。二人とも崩落範囲の外へ出た後、地上の救助班へ引き渡されている。
「死亡記録は正志さん一名だけです」
倉橋さんが言った。
嬉しいと思っていいのか分からなかった。
父が二人を助けたことは誇らしい。それでも、父が帰らなかった事実は変わらない。
胸の中へ、温かいものと冷たいものが同時に入ってくる。
右手の親指にある古い傷を、無意識に押さえた。
小学生の頃、父の工具箱を勝手に開けて切った傷だ。父は怒る前に血を止め、工具を悪者にするなと言った。
使う人間が、触れてよい場所と止める時を決めるんだ、と。
黒い槍も、ダンジョンも同じだったのかもしれない。
武器に見えるものが工具で、敵に見えるものが保全体かもしれない。名前を間違えれば、扱い方まで間違える。
「正志さんの報告は会社に残っていない」
鳴海主任が低く言った。
「俺も当時の紙を探した。事故後の清書には、異音の申告が消えてた」
「誰かが消したんですか」
「分からん。混乱で抜けたのか、責任を軽くするためか。決めつけるな」
怒りの向きを先に作らない。
主任の言葉が、今はありがたかった。
倉橋さんは事故記録を別件として保全し、当時の原報告、勤務表、救助された二名の証言を集めると決めた。
父の名が見つかったからといって、今日すぐ真相が全部分かるわけではない。
それでも、十五年間空白だった一行に、父の行動が戻った。
解析を終えようとしたとき、白石の記録箱から十二枚目の板が滑り出した。
表面には、第八都市と地上の施設を結ぶ図がある。
新宿駅の地下通路。
地下鉄の変電設備。
共同溝の送水管。
病院の非常電源線。
俺たちが別々だと思っていた設備が、一本の循環主幹へつながっていた。
その中央で、赤い表示が明滅している。
〈循環心臓部・停止猶予、七十二時間〉
「ミコト。これが止まったら、ダンジョンだけが止まるのか」
返事まで、二秒かかった。
『いいえ』
少女の声から、いつもの平らさが消えていた。
『接続された地上設備も、順次停止します』
迷宮を閉じれば町が助かる。
そんな単純な話では、もうなかった。




