11話 都市の下で眠る心臓
「病院の非常電源まで止まるなら、これはダンジョン事故じゃない」
倉橋さんが十二枚目の記録板を机へ固定した。
「都市災害です」
室内の空気が変わった。
さっきまで俺たちは、百八十七年前の設備と父の事故記録を調べていた。過去の話だった。
今は違う。
〈循環心臓部・停止猶予、七十二時間〉
赤い文字は、一秒ごとに残り時間を減らしている。
七十一時間、五十二分。
「ミコト。停止する設備を、順番に言ってくれ」
俺が尋ねると、少女の声はすぐに答えなかった。
『質問の範囲が広すぎます』
「分ける。最初に止まる場所は」
『第八都市循環心臓部です』
「その次は」
『第三支管に接続された圧力調整設備です』
地図の中央から、一本の赤い線が伸びた。
第三支管。
三十年前、地上側の掘削機が傷つけた場所だ。
現在の地図を重ねると、新宿駅の地下通路と共同溝の間を通っている。
「圧力調整設備が止まると、何が起きる」
『余剰魔力と地下水圧を逃がせません。現在の接続状態では、共同溝送水管の逆止弁へ規定値の一・八倍の圧力がかかります』
「水が止まるんじゃなく、先に管が壊れる可能性があるのか」
『はい』
倉橋さんが質問と回答を時刻付きで記録する。
三枝さんは現行の共同溝図面を開き、第三支管と重なる場所へ透明な紙を置いた。
「この逆止弁です。病院の受水槽へ送る本管の手前にある」
「交換できますか」
レナが聞く。
「地上規格の弁だけなら六時間。ただし、その下から来ている圧力が何か分からないまま外せば、作業員が吹き飛ばされる」
俺の耳には、壁の奥から低い音が聞こえていた。
ゴウ、ゴウ、ゴウ。
一定に聞こえる。
その中に、三回に一度だけ短い引っかかりがある。
父の記録にあった反復する異音と同じだと決めそうになり、止めた。
似ているだけだ。
今の音を、今の設備で確かめる。
「第三支管の圧力表示はどこにある」
『地下四十一階、旧式保全通路の第四補助弁。地上側では共同溝第八計測室です』
「両方を同時に見ます」
俺は鳴海主任を見る。
「地下は俺たち。地上は設備局。時刻を合わせて、音が引っかかった瞬間の数値を比べたい」
「お前は行かん」
主任が即答した。
「耳鳴りが出た直後だ」
「でも、音の時刻を取れるのは俺です」
「だから一人で抱えるな。お前はここで音を聞く。地下四十一階の表示はカメラで送らせる」
レナも頷いた。
「私が四十一階へ行く。夏目が数値を読み、城戸が映像を固定する。異常が出たら九十秒ではなく即時撤退」
「配信は」
「しない。閉域記録だけ」
判断が早かった。
以前なら、視聴者へ説明してから決めようとしたかもしれない。今のレナは、先に安全を決めた。
倉橋さんが地上側の連絡を取り、共同溝第八計測室には設備局員二名が入ることになった。
全員の時計を秒まで合わせる。
俺は壁に触れず、椅子へ座った。
右耳に二回。
左耳に一回。
記録箱へ接続した後から続く耳鳴りは、まだ消えていない。
雨宮さんが俺の前へ指を立てた。
「目だけで追って」
左右へ動く指を見る。右へ向くとき、一度だけ視線が遅れた。
「悪化はしてない。でも戻ってもいない。十分ごとに止めます」
「七十二時間しかありません」
「十分休まなかったせいで七十時間を寝て過ごしたら、もっと困るでしょう」
反論できなかった。
ミコトが四十一階の映像を壁へ出した。
レナたちは炎も攻撃魔法も使わず、旧式通路を進んでいる。白石灯の救出で立てた仮支柱はそのまま。黒い保全工具が刺さっていた導管には、探索局の封印板が付いている。
『四十一階、第四補助弁へ到達』
夏目の声が入る。
丸い圧力計は、緑と黄の境を揺れていた。
地上の第八計測室からも映像が届く。
新しい液晶表示は〇・九八。
「計測開始」
倉橋さんが言った。
俺は目を閉じた。
ゴウ。
ゴウ。
短い引っかかり。
「今」
夏目が読み上げる。
「地下、一・一二から一・三一」
地上の設備局員が続く。
「地上、〇・九八から一・〇七。八秒遅れ」
二回目。
地下が上がり、八秒後に地上も上がる。
三回目も同じだった。
偶然ではない。
地下の圧力が、地上の管へ届いている。
「ダンジョンと共同溝は接続してる」
倉橋さんが記録へ線を引いた。
「ただし、どちらが相手を支えているかはまだ分かりません」
ミコトへ聞く。
「心臓部は、地上設備へ電気を送っているのか」
『いいえ』
「水を送っている?」
『いいえ』
「なら、何をしてる」
『地上設備が安全に働ける範囲へ、地下の変動を抑えています』
心臓部が発電所なのではない。
地上の設備が動けるよう、下から押してくるものを受け止めている。
「防波堤みたいなものか」
城戸が映像の向こうで言った。
「波を止めてるんじゃなく、町へ来る前に弱くしてる」
『近似表現として受理します』
心臓部を止めれば、電気や水がその瞬間に消えるわけではない。
受け止めるものがなくなり、先に弱い設備から壊れる。
病院の非常電源線は、第三支管の上を通る。変電設備の冷却管が圧力変動で止まれば、非常電源への切り替えも長く保てない。
「最悪の順番だけでなく、守る順番を作りましょう」
レナが言った。
「病院、送水、変電、駅。必要な代替設備と、切り替えにかかる時間を出す」
倉橋さんが都市災害対策室へ連絡する。
だが、返ってきた答えは簡単ではなかった。
病院の自家発電燃料は連続三十六時間。
給水車は同時に八台まで。
地下鉄を全面停止して地上へ乗客を出すには、最低四時間。
共同溝の対象区画を断水すれば、約四万二千人に影響する。
七十二時間は長く見えた。
一つずつ動かせば、短い。
「心臓部を直す方は、何が要る」
鳴海主任が尋ねた。
ミコトが別の図を出す。
心臓部は、地下四十一階よりさらに下にあった。
太い循環主幹が六方向から集まり、中央の円筒へ入っている。円筒の周りには十二個の弁。うち三つが赤く、四つが黄色く表示されていた。
『第一、第三、第四支管からの流入が許容値を超過。心臓部の濾過容量は残り三・二パーセントです』
「何を濾過してる」
『循環媒体の破片、外部混入物、自律保全体が回収した沈殿物です』
魔物の六十一パーセント。
俺たちが倒して魔石を持ち出してきた、自律保全体。
迷宮が循環を保つために集めたものを、人間は資源として採掘していた。
「採掘を止めれば、容量は戻るのか」
『新規流出を抑制できます。ただし、既流出分は戻りません』
「今の採掘許容量は」
『照合します』
壁へ、探索局の許可量と実際の搬出量が並んだ。
地下二十階より浅い区画。許可内。
二十一階から三十八階。複数区画で超過。
三十九階から四十一階。探索局の正規許可はない。
それなのに搬出記録がある。
御堂アークスの管理番号だった。
三枝さんの顔が固くなる。
「うちの社内試験採掘番号です。正式許可前の機材確認にしか使えない」
「現物は二百八十七パーセント積まれていた」
俺は言った。
「機材確認だけじゃない」
三枝さんは否定しなかった。
搬出記録を一件ずつ開く。
申請者、御堂アークス開発部。
承認状態、社内暫定。
探索局許可番号、空欄。
それでも搬出ゲートは開いていた。
「ミコト。心臓部を守るため、今から安全に採れる量は」
『現在の濾過容量と流入量で計算します』
赤い数字が消え、新しい表示へ変わった。
〈全区画・採掘許容量、ゼロ〉
「全面停止だ」
俺が言うと、三枝さんがすぐに頷いた。
「設備安全課から緊急停止を上げます」
倉橋さんも探索局の停止命令書を開いた。
だが、命令書は一枚では済まなかった。
迷宮への入場を止める命令。
中にいる探索者を戻す命令。
搬出ゲートで魔石を止める命令。
すでに採掘した魔石を、どの区画へ戻せば安全か確かめる命令。
ただ入口を閉めればいいわけではない。
地下二十階には六組、二十一階から三十八階には十一組の探索者がいる。採掘を急に止めると知らずに奥へ進んでいる者もいた。
「一斉に帰還を命じれば、階段と昇降機へ人が集まります」
夏目が地下から言った。
「負傷者や荷車が詰まれば、別の事故が起きる」
倉橋さんは地図を四つの区域へ分けた。
「深い場所から順に戻します。三十九階以下は現在の調査班だけ。三十一階から三十八階を第一帰還群、二十一階から三十階を第二帰還群。二十階より浅い班は、最寄りの待避所で十五分待機」
「理由も伝えてください」
レナが言う。
「理由なしに止めたら、近道を使う人が出ます」
倉橋さんは命令文へ一行を足した。
〈地下循環設備の保全容量低下。採掘継続により地上設備へ危険が及ぶ可能性あり〉
まだ分からないことまで断定せず、止まる理由は隠さない。
地上へ出た班は人数、負傷、採掘物の量を申告する。魔石は持ち帰らず、搬出ゲート内側の隔離棚へ置く。どこから採ったか分からない物は混ぜない。
「戻せる魔石と、戻せない魔石の違いは」
三枝さんがミコトへ尋ねた。
返事はなかった。
ミコトは、俺以外の声にまだ直接は応じない。
俺が同じ質問を繰り返す。
『採取区画、採取時刻、保管状態を照合できるものに限り、循環媒体として再登録できます』
「記録のない石を適当に穴へ戻すのは」
『異物混入として処理されます。行わないでください』
資源を返せば元に戻る、という簡単な話でもなかった。
どこから取り、いつ運び、何と混ぜたか。その記録がなければ、迷宮にとっては自分の一部だった石さえ異物になる。
三枝さんは唇を噛んだ。
「社内試験採掘の台帳なら、開発部の保管庫にあります。正規記録ではありませんが、採取区画と機材番号は残っているはずです」
「今すぐ複製を確保してください」
倉橋さんが言う。
「書き換えを疑っているのではありません。戻せる物を一つでも増やすためです。原本の保管者、複製した時刻、持ち出した人を記録します」
三枝さんは頷き、設備安全課の部下へ連絡した。
俺は赤くなった三本の支管を見た。
「ミコト。採掘を止めたら、どれくらい時間を稼げる」
『現時点の情報では確定できません』
「最も短い予測と、最も長い予測は」
『新規流出が即時停止した場合、停止猶予は六時間から十九時間延長される可能性があります。ただし第三支管の損傷が拡大した場合、延長は失われます』
六時間。
それだけあれば、病院へ燃料を一便多く運べる。
十九時間あれば、地下鉄の乗客を混乱させず地上へ出せるかもしれない。
けれど、予測を信じて修理を遅らせれば、損傷一つで全部消える。
「全面停止は修理の代わりじゃない」
俺は言った。
「作業を始めるための時間を買うだけです」
鳴海主任が俺の肩を軽く叩いた。
「なら、買える時間は全部買う。心臓部へ入る手順は、その間に作るぞ」
倉橋さんが停止命令へ署名した。
探索局の緊急権限だけで、民間企業の社内命令まで書き換えることはできない。だが迷宮の入場許可と搬出ゲートは止められる。御堂アークスが採掘継続を命じても、人と魔石を出入りさせなければ現場は動かない。
「命令を三系統へ同時送信。入場管理、昇降機管制、搬出検査。受領時刻を返させてください」
倉橋さんの声で、職員たちが動いた。
一つ目の受領確認。
二つ目。
昇降機管制からは、地下三十四階の荷車が扉を塞いでいると返った。レナたちが四十一階から上がり、その班の退避を手伝う。
最後に、搬出検査から受領済みの印がついた。
これで命令は紙の上だけではなくなった。
その瞬間、室内の電話が鳴った。
御堂アークス本社からだった。
三枝さんが受話器を取り、相手の言葉を聞く。
「開発部長判断で、地下三十八階までの採掘は継続。深層だけを停止する、と」
「許容量は全区画ゼロです」
俺が言う。
三枝さんが同じ言葉を電話へ伝えた。
返答を聞き、ゆっくり受話器を置く。
「御堂開発部長が、現場説明を求めています。全面停止は受け入れないそうです」
三枝さんの端末には、採掘班からの問い合わせも続けて届いた。
今日の歩合はどうなる。運び終えた荷まで置いていくのか。明日の仕事はあるのか。
どれも生活に関わる問いだった。
だからといって、危険を伏せて働かせていい理由にはならない。
「停止中の賃金と契約補償は御堂アークスへ回答を求めます」
倉橋さんは停止命令とは別に、照会書を作り始めた。
「安全の話と補償の話を、どちらか一方にしないでください」
現場を止めるなら、止められた人の暮らしまで見なければならない。
それでも、命と引き換えに今日の歩合を選ばせることだけはできなかった。
残り時間は、七十時間を切った。
都市の下で心臓が止まりかけている間も、地上ではまだ魔石を運び出そうとしていた。




