12話 採掘許容量ゼロ
「荷車を置いていけと言うなら、今日の歩合は誰が払うんですか」
地下三十四階の採掘班長が、閉域回線の向こうで言った。
昇降機の扉には、魔石を積んだ荷車の右端が挟まっている。映像で見えるのは車輪と、荷を押さえる革帯だけだ。班員六人は扉の手前まで戻っているが、荷車を残すかどうかで動けなくなっていた。
「人だけ先に乗ってください」
俺は管理棟の作戦室から答えた。
「魔石は区画ごとに隔離して、記録と照合してから戻します。今は運び出せません」
「置いて帰ったら、搬出量はゼロだ。危険手当どころか基本給まで減らされる」
男の後ろで、若い作業員が俯いた。腰の袋に、家族の写真らしい小さな札が下がっている。
採掘を止めれば安全になる。
それだけなら簡単だった。
止められた人の家賃や食事まで、停止命令が払ってくれるわけではない。
「基本給を減らしてよいとは、誰も決めていません」
倉橋さんが別の回線へ向かって言った。
「御堂アークスには、停止中の賃金と契約補償を回答するよう照会しています。現時点で減額へ同意しないでください。班長、六人全員の氏名を読み上げてください」
班長が一人ずつ名前を呼ぶ。
六人。
返事も六つ。
レナたちは三十四階の昇降機前にいる。城戸が荷車へ近づかない位置で盾を構え、真壁が床へ二本の退避線を張っていた。
「荷車は俺が引きます」
班長が言った。
「扉から外せば、昇降機は動くんでしょう」
俺は映像を止めてもらった。
荷車の左車輪は床の案内溝に乗っている。右車輪は扉の敷居を越え、半分だけ昇降機内へ入っていた。後ろから押せば右へ傾く。手前へ引けば、積み上げた魔石が班員側へ崩れる。
「革帯は何本ですか」
「二本」
「積載札では三本です」
班長が荷を見上げた。
「一本は途中で切れた。結び直す時間がなくて、そのまま来た」
「なら動かせません」
「でも――」
「荷車より先に、六人を出します」
言い切った直後、右耳の奥で細い音が鳴った。
金属を爪で引っかくような音。
映像の中で、昇降機の表示灯が一度だけ暗くなる。
「停止確認!」
レナが叫んだ。
三十四階の全員が動きを止める。
俺は椅子の背へ手をついた。地下四十一階へ下りていないのに、手首の白い紋章が冷たい。心臓部の図面を開いているせいか、遠い階層の痛みまで細い線を伝ってくる。
雨宮さんが俺の目の前で指を動かした。
「追って」
右。左。中央。
少し遅れた。
「一回」
雨宮さんは回数を記録した。
「久世さんは現場へ行かない。閉域回線で質問を一つずつ」
「分かりました」
俺だけが聞けば早いと思うほど、父さんの事故に近づく。
「ミコト。三十四階の昇降機前で、今変わった数値は」
『第三支管圧、基準値の百二十七パーセント。昇降機案内溝の右側固定具に、〇・八ミリの移動を確認しました』
「原因は」
『確定できません。荷車の偏荷重、支管圧の振動、固定具の摩耗が候補です』
一つに決めない。
映像を拡大すると、敷居の右端に黒い粉が落ちていた。
レナが手を伸ばしかけ、止める。
「触らない。久世さん、見える?」
「見えます。固定具が削れています。荷車を動かしたら案内溝ごとずれるかもしれない」
昇降機の扉を閉めるために荷車を引けば、床の金具が外れる。
金具が外れれば、荷車だけでなく人の足元まで傾く。
「別の帰還路は」
倉橋さんが尋ねた。
ミコトが三十四階の平面図を表示する。
『西側保守階段は三十三階まで通行可能です。ただし認証扉が閉鎖されています』
「私の探索局権限で開けられる?」
『現行認証を受理しました。開放に四十秒必要です』
班長が荷車を見た。
「魔石は」
「残します」
レナが答えた。
「六人を階段へ送る。私たちが最後尾につく」
「盗まれたら、俺たちの責任になる」
「残置位置、荷の本数、革帯の状態を二系統で撮ります。あなた一人の責任にはしない」
レナは班員へカメラを向けた。真壁も別の角度から撮影する。城戸が荷車へ近づかず、床の目印から距離を読み上げた。
右壁から一・二メートル。
昇降機扉から車軸まで〇・六メートル。
革帯二本。一本欠損。
荷の外側に採取区画札、三十四―西―七。
「記録した。行こう」
六人はまだ迷っていた。
そのとき、若い作業員が腰の札を握った。
「班長。帰りましょう」
小さな声だった。
「俺、今日の分が減るのは困ります。でも、ここで脚を挟まれたら、明日の分も働けません」
班長は唇を噛み、荷車から手を離した。
六人が西の通路へ移る。
レナが先頭、真壁と雨宮さんが中央、城戸が最後尾。荷車のそばには誰も残らない。
四十秒後、認証扉が開いた。
最後の一人が階段へ入った直後、昇降機前で鈍い音がした。
固定具が外れ、案内溝が指一本分だけ浮いた。
荷車は倒れなかった。
だが、あの場で引いていたら、人の足が下にあった。
班長は振り返らず階段を下りた。
全員が三十三階へ着き、別の昇降機へ乗った時刻を記録する。六人の返事をもう一度確認してから、倉橋さんが通信を切った。
十分後、六人は管理棟の退避確認所へ戻った。
班長は防護帽を脱ぐより先に、残置記録の写しを求めた。受付職員が端末画面だけを見せようとすると、首を横に振る。
「明日、表示が変わっていたら困る。俺たちが荷を捨てたことにされたら、反論できない」
「紙でも渡してください」
俺も頼んだ。
三十四階で読み上げた六人の氏名、荷車の位置、採取区画札、切れた革帯。二つのカメラの記録番号も一枚へ並べる。班長とレナと受付職員が同じ内容へ署名し、原本を探索局、写しを班長と御堂アークス設備安全課が一部ずつ持った。
若い作業員は写しを受け取っても、まだ帰ろうとしなかった。
「仮払いって、本当に出るんですか」
倉橋さんは、出るとは答えなかった。
「まだ回答はありません。だから、問い合わせた時刻と、回答期限をここへ書きます」
照会時刻、午前十一時四十二分。
回答期限、本日午後一時。
期限を過ぎた場合は探索局が再照会し、停止対象者全員へ未回答であることを通知する。
約束できない金を、安心させるためだけに約束しない。その代わり、誰がいつ答えるのかを空欄にしない。
「何も決まっていないよりはいいです」
作業員はそう言って、ようやく椅子へ腰を下ろした。雨宮さんが六人の手足のしびれと呼吸を確認し、水を渡す。
班長は紙を二つ折りにし、胸ポケットへ入れた。
「荷車より、人を先に出したことも書いてありますね」
「書いてあります」
「なら、次も戻れと言えます」
今日の搬出量はゼロでも、帰還人数は六だった。
その数字を実績として残さなければ、次の現場では誰かが荷車を選ぶ。
鳴海主任は、その写しを停止確認票の見本として全班へ配るよう職員へ頼んだ。
「これが、あなた方の言う全面停止の根拠ですか」
作戦室の入口から声がした。
御堂蓮司が立っていた。
紺色のスーツに乱れはない。後ろには法務担当と、設備安全課の三枝さんがいる。三枝さんは先ほどまで別室にいたが、今は厚い記録束を抱えていた。
「一件の固定具破損は、全区画の採掘停止を正当化しません」
蓮司は言った。
「三十九階以深の社内試験については確認します。しかし正規許可のある三十八階まで止めれば、二千人以上の作業と契約が動かなくなる」
「許可があることと、今安全に掘れることは別です」
俺は答えた。
「心臓部の濾過容量は残り三・二パーセント。第一、第三、第四支管が許容値を超えています」
「その数字は管理人格の推定でしょう」
「地上と地下の圧力差は三回測りました。八秒遅れで同じ変動が出ています」
「接続している証拠にはなる。採掘が原因だという証拠にはならない」
間違ってはいない。
第三支管は三十年前の工事で傷ついている。十五年前には父さんの事故も起きた。採掘だけを止めれば、すべて直るわけではない。
「採掘だけが原因とは言っていません」
俺は画面へ、三本の赤い支管を出した。
「でも、今この設備へ入ってくる量を増やしているのは採掘です。壊れた排水口へ水を流しながら、穴の原因を調べることはできません」
「例えではなく数値を」
蓮司が言う。
ミコトが表を開いた。
『現在の濾過可能量、毎時二・四単位。自然流入量、毎時二・九単位。採掘に伴う追加流入量、毎時一・一から一・八単位。安全余剰、毎時マイナス〇・五単位以下』
自然に入る分だけで、もう処理量を超えている。
「だから採掘許容量はゼロです」
「採掘を止めても、マイナスは残る」
「はい。止めるだけでは直りません」
蓮司の目がわずかに細くなった。
「それでも止めろと?」
「増やすのをやめなければ、修理へ入る前に時間がなくなります」
三枝さんが抱えていた記録束を机へ置いた。
御堂アークスの社内保管庫から複製した、試験採掘記録だった。
採取区画。機材番号。重量。搬出時刻。
必要な項目は残っている。
ただし、一番右の欄だけは、どの紙にも同じ言葉が印刷されていた。
〈月間目標への達成率〉
支管圧も、周辺振動も、回収機の故障も書く欄がない。
「三枝さんが改ざん防止の複製を確保しました」
倉橋さんが言う。
「この記録なら、区画別に戻せる魔石を選べます。同時に、許可外の三十九階以深から搬出した量も確定できます」
蓮司は一枚目から順に見た。
地下四十一階。推奨量の二百八十七パーセント。
地下四十階。二百四十一パーセント。
地下三十九階。二百十九パーセント。
どの行にも、承認欄には開発部の番号がある。
「これは私の部署の試験番号です」
蓮司は否定しなかった。
「ただし、迷宮が地上設備と接続している情報は受けていない」
「記録する欄がなかったからです」
三枝さんが言った。
「設備安全課は振動値の追加を三度申請しました。いずれも、採掘量の評価に不要として戻されています」
「誰の判断だ」
「開発部長決裁です」
室内が静かになった。
蓮司自身の役職だった。
彼は三枝さんを怒鳴らなかった。記録束の申請番号を端末で照合し、三件とも自分の電子印があることを確かめた。
「私は、この心臓部の存在を知らなかった」
「知らなかったことは記録します」
俺は言った。
「安全課が知らせようとしたことも、数字に入れなかったことも、両方です」
蓮司は俺を見た。
「あなたは、私に責任を認めさせるために止めたいのですか」
「違います」
「では何のために」
「中にいる人を全員帰して、壊れている場所を直すためです」
責任の話は必要だ。
けれど、今ここで勝ち負けを決めても、心臓部は直らない。
「停止中の給料を払わなければ、次の作業で誰も停止申告をしなくなります」
俺は三十四階の班長たちの氏名を画面へ出した。
「だから補償も必要です。でも、働かせながら安全を調べる案には戻せません」
蓮司は六人の名前を読んだ。
画面の隅で、循環心臓部の残り時間が減る。
六十八時間十四分。
彼はすぐには全面停止へ同意しなかった。
代わりに、法務担当へ二つ命じた。
「停止を理由とする基本給の減額を禁止。歩合分は直近三か月平均で仮払いする。対象人数と一日の上限を十五分で出せ」
法務担当が目を見開く。
「採掘再開については」
「まだ承認しない。だが、停止命令にも同意したわけではない」
蓮司は記録束を持ち上げた。
「私は現場を確認する。あなたの言うゼロが、本当に一つも掘れないという意味なのか、自分で見る」
「見るなら、保全班の手順に従ってください」
「契約もしていない相手の指示を受けろと?」
「地下では役職より退避路が先です」
レナから帰還完了の連絡が入った。
三十四階の六人を含め、深層班四十八人。全員地上へ向かっている。
取り残された人はいない。
だが、魔石を載せた荷車は各階に残っている。
戻せる荷と、戻せない荷。
止めた採掘と、止めても続く自然流入。
俺は区画別記録へ最初の印をつけた。
「採掘許容量ゼロ」は、何もしなくてよいという意味ではない。
ここから、掘り出したものを正しい場所へ戻す作業が始まる。
そのとき、ミコトの声が室内へ響いた。
『第三支管の損傷幅が、〇・四ミリ拡大しました』
止めても、壊れたものは待ってくれなかった。




