[記憶屋書店]〜記憶の価値〜[一話]
忘れたい記憶。
大切にしたい記憶。
思い出すたびに胸が痛む記憶。
それらすべてが、一冊の本になる書店があります。
その書店は夜にしか開かず、強い想いを抱えた人だけが辿り着けます。
売られた記憶は、二度と思い出すことはできません。
それでも、人はその店の扉を開きます。
これは、記憶を売る不思議な書店と、そこを訪れる人々の物語です。
どうか最後まで、お付き合いください。
※挿絵のみaiにて画像生成しています
『桜の咲いた後の街』
この世にあるものには、それぞれ価値がある。
物だけじゃない。
感情にも、思い出にも、記憶にも。
他人から見た私の宝物の価値は、きっと自分が思っているより、ずっと小さい。
私は何か価値のあるものを持っているのだろうか。
私自身に、価値はあるのだろうか。
五月の夜。
桜の季節が終わり、人通りもまばらになった商店街を、私は雨に打たれながら歩いていた。
十九歳の女が、傘も差さず夜道を歩くなんて危ない。
自分でも「何をやっているんだろう」と思う。
散歩のつもりだった。
……いや、自暴自棄になっていただけかもしれない。
ただ、自分には何もないような気がして。
無力感だけを連れて歩いていた。
雨が頬を伝う。
心地いい。
涙なのか雨なのか、もう自分でも分からなかった。
そんな時だった。
商店街の奥に、ぽつんと一軒だけ灯りのついた店が見えた。
『貴方の大切な記憶、買い取ります。辛い記憶も引き取ります。』
実家から二十分ほどの場所。
昔から何度も通っている商店街なのに、その看板を見たのは初めてだった。
「記憶を売る……?」
そんなこと、本当にできるのだろうか。
「いっそのこと、全部売り払ってしまおうかな。」
半ば冗談のように呟きながら、私は二階へ続く階段を上がった。
一階は古びた小物屋らしい。
二階の扉には、古い真鍮の鈴が付いていた。
扉を開けると、
ちゃりん、ちゃりん。
乾いた音が静かに店内へ響く。
「すみませーん。」
暗い。
それが店へ入って最初に抱いた印象だった。
古い紙の匂い。
芳香剤などは使っていないのだろう。
それなのに、不思議と落ち着く空気だった。
積み上げられた大量の本。
その奥に、一人の男性が立っていた。
五十代くらいだろうか。
整った顔立ち。和服姿。
仏頂面。
いわゆる”イケオジ”って、こういう人のことを言うのかな。
……馬鹿みたいな感想だ。
自分では大人びているつもりなのに、感性だけはまだ子どものままだ。
「珍しいね。こんな場所に若い女性が来るなんて。」
思っていたよりも温かい声だった。
「私の記憶を査定してほしくて。」
男性は少しだけ困ったような顔をした。
「……構わない。」
彼は淡々と、この店の決まりを説明した。
1.引き取られた記憶は思い出すことはできない
2.記憶は本となりこの書店に並ぶ
3.今まで記憶があり生きてきたことでの微かな違和感は一生拭えない
4.本人の記憶の本を読んだとしても思い出すことはできない
5.値段は感情の大きさによって決まる、売る前に値段を話す事はできない
説明を終えると、店主は店の隅に置かれた古い壺を指差した。
「その砂に手を入れて。」
壺の中には、海辺の砂のようなさらさらとした砂が入っていた。
「手を入れて、本にしたい記憶を思い浮かべるんだ。意識していない記憶も、その砂が本へ変えてくれる。」
本当は、捨てたい記憶なんて特にない。
ただ。
十九年間、何となく生きてきた。
自分を消したいと思うことはあっても、死にたいとは思わない。
この十九年間がある限り、これから先も変われる気がしない。
だけど。だけれど。
もし記憶だけでも真っさらになれば。
もう一度頑張れるような気がした。
その想いは、一冊の小さな本となって砂の中から姿を現した。
小さかった。
あまりにも、小さかった。
「……ダメだ。」
それが最初の感想だった。
こんなの、売れるわけがない。
見窄らしく、小さな本。
周囲には立派な本ばかり並んでいるのに。
私の本は、これだけ。
私の価値は、この程度なんだ。
ページを開く。
そこには、真っ白な紙しかなかった。
小さいだけじゃない。
中身まで空っぽだった。
絶望で動けなくなった私に、男性は静かに問い掛ける。
「……その本は売るかい?」
私は小さく首を横へ振った。
売ってしまっても構わない。
何も入っていない本なのだから。
それでも。私にしかない記憶。
価値なんてないはずなのに。
誰にも必要とされないはずなのに。
手放したくなかった。
嗚呼、悔しいな。
こんなにも価値がないと思っているのに、手放せない自分がいる。
私は、どんな本になれば満足できたのだろう。
「その本を砂へ戻しなさい。」
「そうすれば、本は消え、記憶も元に戻る。」
私は壺の中へ、そっと本を戻した。
きっと半泣きだった。
立ち上がることもできない。
そんな私に、男性は穏やかな声で言った。
「私はこの書店の店長。緑野綴という。」
「この店は、記憶を売ろうとする強い想いを持つ者にしか見えない。」
「そして君は売らなかった」
「……君は珍しいね」
私は思わず目を丸くした。
「え……?」
「記憶、取られてませんよね?」
店長は小さく笑った。
「安心しなさい。」
「君の記憶は、そのままだ。」
「君、名前は?」
「辻桜です。」
「いい名前だ。」
店長は少しだけ笑う。
「私の名前は、書くのが面倒で困るけどね。」
そして少し間を置いて言った。
「ここで働いてみないか。」
「この店には私しかいない。仏頂面のおじさんだけでは、お客様も緊張してしまう。」
「もちろん、他に仕事があるなら無理には勧めない。」
「……無職です。」
思わず俯きながら答える。
「それなら問題ないね。」
私は、小さく頷いた。
「この書店は毎晩、二十二時から三時まで開いている。」
「来たい時に来ればいい。」
『桜の咲いた後の街』 終
[記憶屋書店]第一話を読んでいただき、ありがとうございます。
この作品のメインとなるのは、これから訪れるお客様の話になります。
是非第二話も読んでいただけるとありがたいです。
この不思議な、書店で会えることを楽しみにしています。




