9話(綺月視点)
最初は、ただ面白い人だと思った。
それだけだった。
本当に、それだけ。
高校二年の春。クラス替え初日の教室は、まだ誰も自分の席に馴染んでいなくて、空気だけがそわそわしていた。新しい担任、新しいクラスメイト、新しい教科書。そういう日は、だいたいみんな少しだけ無理をする。明るい子はいつもより明るくするし、おとなしい子はいつもより気配を消す。
綺月 燦那は、そのどっちも得意だった。
必要なら場の中心に立てるし、必要なら「なんとなくそこにいた可愛い子」にもなれる。そういう空気の読み方は、昔から自然にできた。
だから、新しい教室へ入った時も、燦那はわりと早く「使える子」と「面倒な子」を見分けていた。
先生に気に入られそうな子。
笑わせると場が回りそうな子。
変にプライドが高くて扱いづらそうな子。
そして、関わっても得も損もしない、普通の子たち。
天縫 景瑠を最初に見た時、燦那は彼を「得も損もしない普通寄りの子」に入れた。
黒髪で、静かで、騒がしくない。
顔立ちは悪くないけれど、目立つほどではない。
誰かに話しかけられれば普通に返すが、自分から輪の中心に入る感じでもない。
そういう男子はクラスにひとりかふたりいる。印象が薄いわけじゃないけれど、わざわざ意識するほどでもない。
だから、その日のうちに印象が変わったのは、少し予想外だった。
昼休み前だった。
まだクラス全体がぎこちない時期で、何人かが教室の前で席替えの話をしていた。そこで、一人の女子がうっかり教科書の山を落とした。かなり派手に。
近くにいた男子たちは一瞬だけ見たけれど、気まずそうに笑って、そのまま避けた。関わるほどでもない、という顔だった。
その時、景瑠だけが何も考えていないみたいに動いた。
しゃがんで、散らばったノートを拾う。
ページが折れたのを見つけて軽く伸ばす。
「これ、自分の?」と確認する。
しかも、やってることがいちいち自然だった。
優しい男子はいる。
でも、大体の子は優しくする時に少し格好をつける。
声が少し柔らかくなったり、周りへ分かるように動いたりする。
景瑠にはそれがなかった。
見ていた燦那は、そこで初めて少し気になった。
変な人。
善人、ではなく、まずそう思った。
だって、損得がない。
助けたところで何かが返ってくるわけでもないのに、まるで自分の仕事みたいに手が動いている。その無自覚さが、むしろ少し不気味だった。
でも、その不気味さは嫌じゃなかった。
燦那は、普通じゃないものが割と好きだったからだ。
だからその日の帰り際、燦那はわざと景瑠へ話しかけた。
「ねえ、天縫くんだっけ」
景瑠は帰り支度の手を止めて顔を上げた。
目が合った瞬間、燦那は少しだけ意外に思う。思っていたより、目が静かだった。ぼんやりしているわけではない。よく見ているのに、前へ出てこない目。
「うん」
「さっきさ、ああいうの普通に助けるんだね」
「普通じゃない?」
「普通は一回様子見ると思うけど」
そう言うと、景瑠は少しだけ困ったように笑った。
「困ってたし」
たったそれだけだった。
困ってたし。
その四文字に、変な引っかかりがあった。
軽い。あまりにも軽い。
でも、軽いからこそ本音に聞こえた。
燦那はその時、なんとなく思った。
この人、変に優しい。
そして、その優しさを自分で武器だと思ってない。
それから少しずつ、燦那は景瑠を気にするようになった。
最初は、本当に軽い興味だった。
話しかけたらどんな返しをするんだろう。
どこまで距離を詰めたら困るんだろう。
からかうとどんな顔をするんだろう。
そういう、ちょっとした遊びみたいなものだった。
燦那は人との距離を詰めるのが得意だった。
笑って近づき、名前を呼び、相手の警戒が解ける位置まで一気に入る。大体の男子は、それで少し浮かれるか、少し挙動不審になるか、そのどちらかだ。だから読みやすい。
でも景瑠は、そこでも変だった。
燦那が「景瑠って呼んでいい?」と聞けば、「いいけど」と普通に頷く。
昼休みに「購買行こ」と袖を引けば、「いいよ」と立ち上がる。
ノートを見せてと言えば貸してくれるし、猫の写真を送ればちゃんと返事も来る。
そのくせ、ひとつも勘違いしない。
普通、ここまでやれば少しくらい「自分に気があるのかな」と思う。
あるいは期待する。
でも景瑠は、驚くほど何も変わらない。
話しかければ普通に返して、近づけば普通に受け入れて、でも、それ以上には一歩も踏み込んでこない。
燦那はだんだん面白くなってきた。
何この人。
全然引っかからないんだけど。
悔しい、というより、気になる。
どうしたら崩れるのか知りたくなる。
それで少しずつ、燦那は景瑠へ向ける時間を増やしていった。
朝、教室に入ったら先に声をかける。
休み時間に移動教室へ一緒に行く。
購買で見つけた新作をわざわざ見せる。
放課後、帰り道が少しだけ重なるように調整する。
燦那にとっては、まだ遊びの延長だった。
でもその遊びは、少しずつ本気の形を持ち始めていた。
決定的だったのは、六月に入る少し前だった。
その日は、燦那が珍しく本気で気分を落としていた。
理由は大したことではない。家のことだった。父親と母親の言い合いが朝からうるさくて、出てくる時に妙な空気を吸ってしまっただけ。
でも、そういう小さなことで燦那はたまにひどく疲れる。
明るい顔を作るのが上手い分、一度しんどくなると、逆にどうしていいか分からなくなるのだ。
昼休みの終わり、教室の後ろで窓の外を見ながら、燦那は少しだけ息を吐いていた。
ぼんやりしていたから、景瑠が後ろに来るまで気づかなかった。
「綺月」
燦那は振り向いた。
「どうしたの?」
「それ、こっちの台詞」
景瑠は眉を寄せていた。
あまり見ない顔だった。困っているというより、何かを見逃せない時の顔。
「何が?」
「今日、静かすぎる」
燦那はそこで、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
そんなことで気づく?
誰だって、いつも同じ調子じゃない。
一日くらい元気がなくても、よほど親しくなければ分からない。
しかも燦那は、そういうのを隠すのが得意なほうだ。明るい声くらいなら、作れる。
それなのに景瑠は、あっさり見抜いた。
「別に、普通だけど」
「嘘」
即答だった。
「綺月、元気ない時だけ声が少し低い」
その瞬間、燦那の心臓は変な音を立てた。
見てる。
この人、ちゃんと見てる。
誰にでも優しいだけじゃなくて、ちゃんと見て、違いまで覚えている。
しかも、それを本人に教える時に照れも遠慮もない。
「……なにそれ」
「何って」
「人のこと見すぎじゃない?」
燦那がそう言うと、景瑠は少しだけ目を丸くした。
「いつも騒がしいやつが静かなら分かるだろ」
「騒がしいって言った」
「明るい、に訂正する」
「遅いんだけど」
燦那は笑った。
笑った瞬間、自分の中の何かが、完全に戻れないところまで傾いたのが分かった。
この人の前で笑うの、楽だ。
作った笑いじゃなくても、変じゃない。
変に励まされるより、こうやって普通の調子で見つけてもらうほうが、ずっと嬉しい。
そのあと景瑠は、何も深掘りしなかった。
「無理なら午後の体育サボれば」とか「先生に言っとくか」とか、そういうことも言わなかった。ただ「しんどいなら水飲んどけ」とだけ言って、自分の席へ戻った。
それが、たまらなく効いた。
気づかれた。
でも、踏み込みすぎない。
見てくれた。
でも、恩着せがましくしない。
燦那はその日、はっきり好きになった。
認めた瞬間、世界の見え方が少し変わった。
景瑠がいるだけで教室の空気が違う。
笑っていれば嬉しい。
他の女子と話していると、少し面白くない。
自分に返ってきた何気ない一言を、夜になってから何度も思い返す。
そして、好きになってしまったあとで分かった。
この人、危ない。
景瑠は、優しすぎる。
でもそれは、よくある「女の子に優しい男の子」とは違う。
もっと質が悪い。
彼は、相手が欲しい言葉を狙って言うわけじゃない。
むしろ不器用なくらいだ。
でも、その不器用さのまま、一番痛いところへ届くことがある。
しかも本人に自覚がない。
それがいちばんまずい。
燦那は、だんだん怖くなってきた。
自分みたいに、少し話しかけて、ちょっと距離を詰めて、それで落ちる子が他にもいるんじゃないか。
景瑠はきっと、そういうのを止めない。
止めるつもりすらない。
だって本人は、何もしていないつもりだから。
その予感は、すぐに当たった。
まず、皇 冱玻。
最初から感じは悪かった。
綺麗で、静かで、いかにも賢そうで、しかも景瑠の近くにいる理由が全部まとも。
学級委員。提出物。連絡。係の確認。
燦那みたいに、わざと肩が触れる距離まで行くことはしない。
名前を甘く呼ぶこともない。
でも、その代わりに、景瑠の生活の流れの中へ自然に自分を組み込んでいる。
最初に本気で「邪魔」と思ったのは、ある朝だった。
燦那が教室へ入ると、景瑠が席で何かのプリントを見ていて、その横に冱玻が立っていた。
二人とも声は小さい。
でも景瑠は、冱玻に話しかけられると少し真面目な顔になる。冱玻も、景瑠に向ける時だけ、ほんの少しだけ声が柔らかい。
それを見た瞬間、燦那は分かった。
あ、この子、もう景瑠の近くに住んでる。
物理的にではない。
でも、毎朝そこにいても不自然じゃない位置を取っている。
景瑠が何か確認したい時、自然に目を向ける相手になっている。
腹が立った。
すごく、静かに、底のほうから。
冱玻は正しい顔をして近づく。
それが燦那には許せなかった。
だって、自分がどれだけ欲しがっているか、絶対に分かっているはずなのに、全部「必要なこと」の顔で包んでいるからだ。
燦那はその時、冱玻を排除対象として見た。
はっきりと。
この子は早めに崩さないとまずい。
じゃないと、景瑠の隣がこの子のものとして固まってしまう。
次に、夜嶺 玻宮。
最初は、少し厄介な先輩くらいに思っていた。
大人っぽくて、余裕があって、景瑠に話しかける口実も多い。
でも、同時に年上の余裕みたいなものがあって、真正面から奪いにくるタイプには見えなかった。
その認識が変わったのは、図書室の前だった。
景瑠が玻宮先輩と立ち話をしていた。
廊下の光が少し斜めに差していて、玻宮の長い髪がやわらかく揺れていたのを覚えている。
景瑠は、冱玻と話している時とは違う顔をしていた。
もっと自然で、少しだけ警戒が薄い。
玻宮のほうはいつも通り穏やかな笑顔なのに、その目だけが妙に静かで、深かった。
その場面を見た時、燦那はぞくっとした。
この先輩、まずい。
冱玻は日常を取る。
燦那は空気を取る。
でも玻宮は、もっと別のところを取る。
景瑠の心の中に、「この人は分かってくれるかもしれない」って思わせる場所を作る。
そういうの、一番嫌いだった。
だって、一度そこへ入られたら、笑ってるだけじゃ勝てない。
明るさも、近さも、全部届かなくなる。
その日の帰り道、燦那は本気で思った。
あの先輩、どっか別のクラスだけ見ててくれないかな。
いっそ生徒会忙しすぎて、景瑠のとこまで来れなくなればいいのに。
その「いなくなればいいのに」は、もうかなり危うい感情だった。
最後に、雪祇 透禍。
燦那は、最初この後輩を少し甘く見ていた。
静かで、綺麗で、無口。
そういう子は目立つけど、空気を動かすのは苦手だ。
景瑠のそばへ来ても、どうせ後輩の枠から出られないだろう、と思っていた。
でも違った。
透禍は前に出ない。
その代わり、気づいた時にはもう景瑠の生活の細いところへ入り込んでいる。
探していた本を見つける。
欲しそうだった物を覚えている。
疲れていそうなら飲み物を置く。
しかも、それを大げさにしない。
ある日、昼休みに景瑠の机の上へ置かれた小さな栞を見た時、燦那は背筋が冷えた。
夜空の柄。
景瑠が前に「こういうの好きかも」と言ったのを、たぶん透禍は覚えていた。
燦那はその時、ようやく悟った。
この子、一番怖いかも。
冱玻は見える。
玻宮もまだ見える。
でも透禍は、見えないまま入る。
誰にも気づかれず、景瑠の中で「そこにいて当然」に変わる。
しかも本人は、たぶんそれを狙っている。
その日から、透禍も完全に排除対象になった。
燦那の中では、もう三人とも同じだった。
冱玻。玻宮。透禍。
みんな、景瑠のそばにいる。
みんな、景瑠を欲しがっている。
そして、きっと自分のことも邪魔だと思っている。
その認識は、燦那を少しずつ変えていった。
前は景瑠と話せるだけで楽しかった。
近くで笑えれば、それで十分な日もあった。
でも、好きが深くなるほど、それでは足りなくなる。
景瑠が誰かと話していると、何を言われたのか気になる。
冱玻に呼ばれれば面白くない。
玻宮と目が合っているだけで嫌だ。
透禍が静かに何か差し出すのを見ると、指先ごと折ってしまいたくなる。
そこまで考えてしまう自分に、最初は少しだけ引いた。
でも、すぐに慣れた。
慣れてしまったことのほうが、たぶんずっと怖い。
燦那はもともと、好きなものは欲しいと思う性格だった。
可愛い服も、いい匂いの香水も、自分だけが知っている店も、ほしいと思えば手を伸ばいてきた。
景瑠だけが例外になるはずがなかった。
むしろ、景瑠は最悪だった。
手に入りそうで、全然入らない。
近づけば逃げないくせに、自分からは来ない。
優しくするくせに、特別扱いはしない。
希望を持たせるだけ持たせておいて、本人は何も分かっていない。
そんなの、好きになった側からしたらほとんど災害だった。
だから燦那は決めた。
待つのはやめよう、と。
景瑠が自分で選ぶのを待っていたら、たぶん一生終わらない。
なら、周りを削るしかない。
景瑠の視界に入る女を減らす。
景瑠の時間を奪う理由を減らす。
景瑠の近くにいることが「自然」なのは自分だと、空気ごと信じ込ませる。
その発想に至った時、燦那はもう普通の恋をしていなかった。
でも、後悔はなかった。
だって、景瑠が悪い。
あんなふうに優しいのが悪い。
あんなふうに何も知らない顔で、人の心の奥まで入ってくるのが悪い。
そのくせ、少し疲れた時の顔とか、困った時の笑い方とか、たまに真面目な声で名前を呼ぶところとか、いちいち胸に刺さるのが悪い。
燦那は何度も思った。
景瑠の周り、自分以外いなければいいのに。
教室の席も、放課後の廊下も、図書室も、文化祭の準備も、全部、自分と景瑠だけならいいのに。
冱玻は消えて。
玻宮先輩は来なくなって。
透禍は一年の教室から出てこなくなって。
そうなれば、景瑠はもっと自然に自分のほうを見るのに。
それはもう、かなりはっきりした殺意に近かった。
もちろん本当に血を流したいわけじゃない。
でも、恋敵としての居場所を奪うことに、一切ためらいがなくなっていく。
評判でも、役割でも、空気でもいい。
壊せるものから壊したい。
そう思うたび、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
たぶん、狂っていたのだと思う。
でも燦那は、自分だけが狂っているとは思わなかった。
冱玻も、玻宮も、透禍も、絶対に同じ目をしていた。
好きすぎて、もう引き返せない目。
ほかの女が笑っているだけで、胸の奥に黒いものが溜まっていく目。
景瑠だけが知らない。
自分がどれだけのものを引きずり出してしまったのか、何も知らない。
そのことが、腹立たしくて、愛しくて、どうしようもなかった。
燦那は今でも、最初に景瑠へ話しかけた日のことを覚えている。
「さっきさ、ああいうの普通に助けるんだね」と言った時、景瑠は少し困ったように笑って、「困ってたし」と答えた。
その四文字が、全部の始まりだった。
たぶん景瑠にとっては、本当に何でもなかった。
でも燦那にとっては、その軽さが致命傷だった。
困ってたし。
だから助けた。
だから気づいた。
だから声をかけた。
だから名前を呼んだ。
だから笑った。
そんなふうに生きている人が、自分の人生へ入ってきたら、好きにならないほうが無理だった。
そして好きになった以上、もう譲れなかった。
冱玻にも。
玻宮にも。
透禍にも。
誰にも渡したくない。
誰にも近づいてほしくない。
できるなら、全員きれいに消して、自分だけが景瑠の隣にいたい。
それが綺月燦那の恋だった。
明るくて、可愛くて、笑っていて、でも中身は誰よりもどろどろしている。
甘えているようで、爪を隠している。
欲しいものには笑って近づいて、邪魔なものには笑って毒を流す。
そしてその全部の中心に、天縫景瑠がいる。
本人だけが、何も知らない顔で。




