10話
文化祭初日の朝、二年A組はまだ開場前だというのに、すでに人の熱で少し浮いていた。
机の配置は昨夜のうちに終わっている。飾りつけも、案内表示も、接客の立ち位置も、必要なものは一応そろっていた。
あとは当日の流れに乗せるだけ。
そう思っている人間が大半だった。
だからこそ、綻びは目立つ。
紙コップの予備箱が、本来の位置にない。
釣り銭用の小銭ケースが、控え棚ではなく裏机の引き出しへ移されている。
接客用の布巾の数が、一枚だけ足りない。
列整理用の札も、一本だけ違う束に混じっていた。
小さい。
どれも本当に小さい。
誰か一人が慌てるほどでもない。
けれど朝の立ち上がりでそういう小さなズレが重なると、現場はじわじわ鈍る。
「おかしいな、昨日ここに置いたよね」
「先に誰か動かした?」
「いや、知らないけど……」
そんな声が準備の裏で交わされる。
誰も深刻には受け取らない。
受け取らないまま、少しずつ「今日はなんだか噛み合わない」という空気だけが溜まっていく。
綺月 燦那は、その空気の中心にはいなかった。
彼女の担当は外の列整理と案内補助。
教室の顔から外され、景瑠と同じ空間にいられる時間も以前より少ない。
それが二人目の脱落者としての今の立場だった。
けれど、だからこそ、燦那はよく見えた。
教室の外から見れば、中で誰が何に困っているかが分かる。
人の出入りの流れも分かる。
誰が景瑠に声をかけ、誰が景瑠のそばへ寄り、誰が「当然のようにその位置にいるか」も、全部見える。
そして燦那は、もう一つ分かっていた。
一度落ちた人間は、表で取り返そうとすると負ける。
焦って前へ出れば、「やっぱり綺月さんって自分のペースで回そうとする」と見られる。
笑顔で頑張れば頑張るほど、「無理してる」と受け取る人もいる。
だから、取り返すなら裏からだ。
自分は何もしない。
ただ、他の三人の「うまく回っている感じ」を少しずつ崩す。
一人ずつではなく、三人全員を同時に削る。
そうすれば最後に残るのは、「外にいても明るく回していた綺月燦那」の評価になる。
それが、燦那の考えたやり方だった。
最初に崩したのは、皇 冱玻の領分だった。
冱玻は、表の接客には立たない。
その代わり、備品、確認、連絡、補充の流れをほとんど握っている。
正しさと整理で教室を支配するタイプ。
なら、その「整理されている感覚」を崩せばいい。
燦那は前夜の最終準備で、自分の担当範囲だった外札の束を運ぶついでに、教室裏の物品棚を一度だけ見ていた。
冱玻がどこへ何を置くか、だいたい覚えている。
しかも彼女は几帳面だから、一度決めた位置を急には変えない。
だから、動かすのはほんの少しでいい。
全部を隠す必要はない。
「自分が見落としたのかもしれない」と冱玻が一瞬でも思う程度に、ズラすだけでいい。
それで朝、実際に冱玻は二度、三度と足を止めた。
探す時間は短い。
でも、冱玻にとって「探す」という行為自体がすでに不自然だ。
彼女は管理している側の人間で、探し回る側ではない。
その違和感は、周囲にも静かに伝わる。
「皇さん、どこ置いたっけ?」
「……ここにあったはずなのだけれど」
「今日はちょっとバタついてるね」
たったそれだけ。
でも、正確で頼れるはずの皇冱玻に、「今日は少し噛み合っていない」が乗る。
一度乗った印象は、小さくても消えにくい。
次に削ったのは、雪祇 透禍だった。
透禍は物の流れを読む。
必要なタイミングで、必要なものを差し出す。
その静かな有能さが彼女の武器だ。
なら、彼女だけが知っているはずの情報に「ズレ」が出れば、信頼は傷つく。
一年の手伝い組は、基本的に透禍の指示へ従うことが多い。
だから燦那は、彼女の言葉そのものではなく、「その言葉を聞いた側の記憶」へ触れた。
開場前、列整理の一環として一年生の女子二人と少し話す機会があった。
燦那はいつもの明るい調子で、軽く笑いながら聞く。
「今日って、教室内の補充、どっち回りだっけ? 右からだっけ、左からだっけ?」
一年生は少し迷ったあと、「たしか左からだったような」と曖昧に答える。
燦那はそこで「あれ、そっか、ごめんごめん」と笑って終わらせる。
本当は知っている。
透禍は右回りで統一している。
でも、一度「左かも」と思わせた記憶は、忙しい場面で充分に効く。
実際、開場後しばらくして、一年の補助が二度ほど交差した。
補充の動線がわずかに乱れ、必要なものが数分遅れた。
大事故ではない。
でも、その遅れを見た二年の女子が「雪祇ちゃんの指示じゃなかったっけ?」と首をかしげる。
透禍はすぐ修正した。
声も荒げない。
顔色も変えない。
けれど、その無表情の下で、確実に異変を察知していた。
誰かが触っている。
しかも、物理的な証拠が残らない程度に。
その考えが最初に浮かんだ時点で、透禍は三人の顔を思い浮かべる。
冱玻。玻宮。燦那。
冱玻はこういう雑な揺らし方を嫌う。
玻宮はもっと遅効性のやり方を好む。
なら、残るのは――
透禍はそこで思考を止めた。
今は証明できない。
証明できないものを口にすれば、自分のほうが不利になる。
その判断の速さが、彼女の怖さだった。
そして最後に、燦那は夜嶺 玻宮へ手を入れた。
玻宮はすでに一人目の脱落者だった。
巡回担当から外れ、二年A組へ自然に来る理由を削られている。
だが、それでもまだ彼女には「上から見ている余裕」がある。
三年生や先生からの信頼。
物腰の柔らかさ。
それに、景瑠の中に残った「気にかけるべき先輩」という印象。
そこを壊すには、玻宮本人ではなく、彼女の“残っている品格”へ傷をつける必要がある。
昼前、混雑が一段落した頃、玻宮は別フロアから巡回連絡を持って二年棟の廊下へ来ていた。
本来なら二年A組へ深く関わる立場ではない。
だから教室の前まで来ても、少し離れた位置から声をかけるだけだ。
その、少し離れた位置へ、燦那は偶然のように出た。
「あ、夜嶺先輩」
明るく笑う。
誰が見ても自然な挨拶。
玻宮もまた、柔らかく微笑んだ。
「綺月さん。外はどう?」
「いまは落ち着いてます」
そこまでは普通の会話。
けれど、次の一手が燦那だった。
「あ、そうだ、さっき三年の先輩が探してましたよ。資料の件で、夜嶺先輩がまだ確認してないのあるって」
聲は明るく、親切そのもの。
しかも言い方がうまい。
責めるのではなく、「探してましたよ」と伝えるだけ。
玻宮は一瞬だけ目を細めた。
本当に? と聞き返したいところだが、ここで疑えば「伝言を伝えた後輩へ神経質な反応をした先輩」に見える。
しかも周囲には何人か生徒がいる。
「そう、ありがとう」
「いえいえ」
燦那は笑う。
玻宮はそのまま三年棟へ戻る。
もちろんそこに“探していた先輩”はいない。
結果、玻宮は数分を空費し、そのあいだに二年A組前へ戻った時には「夜嶺先輩って今日はなんでこんなに二年棟うろうろしてるんだろ」という視線だけが少し増えていた。
ほんの小さなこと。
ほんの少しの違和感。
けれど玻宮の強みは、無駄のない立ち回りと余裕だ。
その余裕が「今日は少し空回りしている先輩」に見えた時点で、静かな傷になる。
燦那は表では何一つ乱していない。
列整理も案内も、むしろいつも以上に明るくこなしている。
困っている来客にはすぐ声をかけ、慌てている一年生には冗談を混ぜて落ち着かせる。
だから評価は落ちない。
むしろ、「外担当なのにすごく感じいい」「綺月さん、ああいう場所向いてるね」と言われ始める。
それが燦那の狙いだった。
中の三人を、見えないところで少しずつ噛み合わせなくする。
そのうえで自分だけは、表の好印象を積み直す。
誰も彼女を疑わない。
だって彼女は今、教室の中核から外されている“被害者側”だからだ。
そして昼過ぎ、燦那はもう一歩だけ踏み込む。
直接的な暴力ではない。
でも、それに近い「ひやりとする出来事」は、十分に人を揺らす。
二年A組の裏口近くには、搬入用の細い通路がある。
文化祭中は段ボールや補充箱が一時的に置かれやすく、人の出入りも多い。
燦那は、その通路脇へ積まれていた折りたたみ式の看板脚の位置を、ほんの数センチだけずらした。
倒れるほどではない。
でも、急いで通れば足を引っかける位置。
その数分後、そこを通ったのは冱玻だった。
ガシャン、という乾いた音。
冱玻は倒れはしなかった。
ただ、バランスを崩して壁へ肩を強く打ちつけた。
手に持っていたファイルが床へ散る。
「皇さん!?」
近くにいた一年生が駆け寄る。
冱玻はすぐに立ち上がり、「大丈夫」と言った。
声は落ち着いている。
でも顔色が少し白い。
肩。
たぶん打った。
大きな怪我ではない。
けれど、午後の動きを鈍らせるには十分だ。
その場に燦那はいない。
外で列整理をしている。
しかも、少し前にわざと別の先生へ元気よく挨拶している。
時間的にも、位置的にも、彼女が裏口で何かしたと結びつく要素はない。
冱玻は散らばったファイルを拾いながら、通路脇の看板脚を見る。
位置が妙だ。
でも、証明はできない。
誰かが慌てて置き直しただけかもしれない。
自分の注意不足かもしれない。
そう思わせる程度のズレ。
その曖昧さが、いちばん質が悪い。
肩を押さえた冱玻の脳裏に、また三人の顔が浮かぶ。
燦那。透禍。玻宮。
けれど、このやり方は――
「皇先輩」
透禍がすぐに現れた。
彼女は冱玻の顔色と、散ったファイルと、通路の状態を一瞬で見た。
「打ちましたか」
「少しだけ」
「保健室へ行ってください」
冱玻は首を振ろうとしたが、肩に走った痛みにわずかに息を詰める。
透禍はその反応を見逃さない。
「行ってください。ここはわたしが引きます」
その言い方は静かだが、ほとんど命令に近い。
冱玻は数秒だけ迷い、結局立ち上がった。
合理的な判断として、いま反対する理由がない。
その一連の流れを、少し離れた位置から玻宮が見ていた。
誰かが、少し押した。
物理的には小さい。
でも意図ははっきりしている。
事故に見える程度に、相手の動きを鈍らせる。
怖い。
けれど、同時に理解もする。
愛に狂うというのは、たぶんこういうことだ。
相手の肌を裂くのではなく、日常の地面を少しだけ斜めにする。
そして転ばせる。
しかも、転んだ相手に「あなたの不注意では?」と世界が囁くくらい、絶妙に。
玻宮の口元に、思わず薄い笑みが浮かんだ。
最低だ、と自分でも思う。
でも、そういう地獄を見ていると、少しだけ安心するのだ。
自分だけがこんなふうに壊れているわけではない、と知れるから。
午後、冱玻は肩に湿布を貼って戻ってきた。
大事にはならなかった。
でも動きは確実に鈍い。
書類を持ち替える時、ほんの少しだけ顔が強張る。
その変化を、景瑠は見逃さなかった。
「皇さん、肩どうした」
声が飛ぶ。
冱玻は一瞬だけ止まり、それから静かに答える。
「少しぶつけただけよ」
「少しって顔じゃないだろ」
「大丈夫」
景瑠は眉を寄せたまま数歩近づく。
その顔を見た瞬間、燦那の胸の奥で、どろりとしたものが嬉しそうに笑った。
ほら。
そうやってあなたは気づく。
そうやって誰かの傷を放っておけない。
だから、少しだけ傷があれば十分なのだ。
同時に、その感情の黒さに自分で少し酔いそうになる。
最低。
でも好き。
景瑠が誰かを気にするたび、その「誰か」に自分で理由を作りたくなるほど、好き。
冱玻は景瑠の問いへ短く答え、作業へ戻ろうとした。
その時、景瑠がはっきり言う。
「無理なら言って。代わる」
その一言に、冱玻の呼吸が少しだけ乱れる。
彼はそういう男だ。
打算なく、自分の仕事ごと持っていく。
優しさが普通の域を越えている。
だからいっそ、鈍感なだけの男より始末が悪い。
「大丈夫よ」
冱玻はそう返したが、心の奥では別のことを考えていた。
誰がやった。
誰が、こんな形で押した。
透禍は裏で補充を続けながら、冱玻の肩と景瑠の視線を見ている。
玻宮は少し離れた廊下で、静かな笑みを消していた。
そして燦那は、外の列を整えながら、無邪気な声で来客を案内している。
誰にも分からない。
文化祭初日は、表向き、大きな事故なく終わった。
二年A組の出し物は好評。
列整理も概ね順調。
接客も案内も、大きなクレームはない。
その日の終礼で、担任は笑って言った。
「今日は綺月がかなり助かったな。外の流れ、すごく良かった」
燦那は明るく笑った。
「ありがとうございます」
教室の何人かも頷く。
「たしかに綺月さんいなかったら外やばかったかも」
「なんか今日、裏より外のほうが安定してたよね」
その一言一言が、燦那の評価を少しずつ持ち上げる。
一方で、冱玻は肩を痛め、透禍は補充動線の乱れを一度出し、玻宮は無駄な行き来が目立った。
どれも決定打ではない。
けれど「今日は少し噛み合っていなかった」の側へ寄るには充分だ。
燦那は教室の片づけをしながら、ふと窓に映った自分の顔を見る。
笑っている。
疲れているようにも見える。
でも、その内側では、とても綺麗とは言えないものが静かに脈を打っていた。
もっと。
もう少し。
あと少しだけ削れば、戻れる。
景瑠の近くに立つ理由を、もう一度作れる。
そのためなら、通路に置くものの位置くらい、いくらでも変えられる。
誰にも見られず、誰にも疑われず、ほんの少しだけ運の悪い事故に見せるくらい、たぶん何度でもできる。
そこまで考えて、燦那は小さく息を吐いた。
本当に、嫌になる。
好きになっただけなのに。
ただ、名前を呼ばれたいだけだったのに。
今はもう、ほかの女の身体が無事かどうかすら、自分の感情ひとつで価値が変わる。
狂ってる。
でも、やめられない。
教室の隅では、景瑠が冱玻へ「まだ痛いなら荷物持つ」と言っていた。
その声が聞こえるたび、燦那の胸の奥の黒いものが、満足そうに揺れた。
文化祭はまだ終わっていない。
一日目が終わっただけだ。
そして誰もまだ、綺月燦那が裏で何をしているのか、少しも気づいていない。
それが何より、気持ちよかった。




