7話(夜嶺視点)
最初に見た時、ただのやさしい後輩だと思った。
春の雨が上がったばかりの夕方だった。校舎の窓はまだ白く曇っていて、廊下には濡れた土の匂いが薄く残っていた。わたしは生徒会の書類を抱えて階段を下りていた。急いでいたわけではないけれど、会議が長引いて、少しだけ疲れていたのを覚えている。
下の踊り場で、一年の女子が泣きそうな顔で立ち尽くしていた。胸の前でぐしゃぐしゃになった紙を握りしめて、どうしたらいいのか分からない、という顔をしていた。
その子の前に、二年生の男子が一人いた。
後ろ姿しか見えなかったけれど、姿勢が妙にまっすぐで、声が落ち着いていた。
「落ち着いて。提出先、職員室じゃなくて準備室だろ」
「で、でも、締切、もう」
「まだ五分ある。走れば間に合う」
言いながら、その子の手の中で湿ってしまった紙を自分のファイルに挟み直していた。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ当たり前みたいに状況を整理していく。泣きそうだった一年生は、その声に引っ張られるように呼吸を整えた。
「階段、走ると危ないから、下まで一緒に行く」
「せ、先輩、でも」
「先輩じゃない。二年」
そう言って、その男子は困ったように少しだけ笑った。
そこで初めて、彼が少し横を向いた。
柔らかな黒髪と、派手ではないけれど目を引く横顔。鋭いわけではないのに、視線だけが妙に静かだった。
後から知ったその名を、天縫 景瑠という。
その時は、名前までは知らなかった。
ただ、珍しいと思っただけだ。
やさしい人はたくさんいる。
困っている子へ声をかける人だって珍しくない。
でも彼は、やさしさを見せるために動いていなかった。助けたあとに何かを期待している顔でもなかった。まるで、目の前に困っているものがあったから、手を伸ばしただけ、という自然さだった。
わたしは階段の途中で少し立ち止まり、その背中を見送った。
その時はまだ、本当にそれだけだった。
二度目は、一週間もしないうちだった。
今度は、わたしのほうが助けられた。
昼休み前、廊下の窓を開けた誰かのせいで、抱えていたプリントが一斉に飛んだ。生徒会用の確認書類と各クラスへの配布物が混ざって、廊下へ散らばる。最悪だった。しゃがんで拾おうとした瞬間、向こう側から来た数人が避けきれずに踏みそうになって、わたしは思わず「ごめんなさい」と声を上げた。
その時、すっと紙の流れが止まった。
誰かが廊下の中央へ出て、足で風除けを作るみたいに立っていた。
「先輩、こっち押さえて」
見上げると、この前の二年生だった。
彼――景瑠は、散った紙を順番に拾いながら、内容ごとにきちんと分けていた。クラス別、生徒会控え、先生提出用。ほとんど一目で判断しているみたいに手が早かった。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ」
「この前も、階段で一年の子を助けていたでしょう」
わたしが何気なく言うと、景瑠は少しだけ目を丸くした。
「見てたんですか」
「ええ。印象に残ったから」
「そうですか」
それだけ。
照れもしないし、得意げにもならない。
まるで、褒められたこと自体が少し遠いみたいな顔だった。
「あなた、名前は?」
「天縫です。二年です」
「知ってるわ。見れば二年だもの」
「……ですよね」
そこで初めて、少し困ったように笑った。
その顔を見て、わたしはほんの少し楽しくなった。ああ、この子は、こういう時に取り繕えないのだ、と分かったからだ。
「わたしは夜嶺」
「はい」
「そこで“知ってます”って言わないの、正直ね」
「知ってるふりするほうが変かなって」
「そう」
変な子。
そう思ったのに、嫌ではなかった。
それからわたしは、少しだけ彼を目で追うようになった。
追うと言っても、大げさなものではない。
廊下ですれ違えば、少し気にする。図書室で見かけたら、何を借りているのだろうと思う。教室前で誰かに話しかけられていれば、なんとなく視線が向く。その程度の、ささやかな興味だった。
けれど、見れば見るほど分からなくなる。
彼は本当に、誰にでも同じように手を差し伸べる。
忘れ物をして青ざめている男子には、自分のノートを貸した。
体育のあと具合が悪そうな女子には、保健室へ行くよう声をかけた。
先生に頼まれれば重い教材を運び、遅くまで残っている後輩がいればさりげなく戸締まりの確認をした。
しかも、そのどれにも見返りを求める匂いがない。
わたしは最初、それを「いい子」だと思っていた。
でも、だんだん違和感が出てきた。
いい子、なんて可愛い言葉では足りない。
彼のやさしさはもっと尖っていて、時々ぞっとするほど無防備だった。
普通の人は、少しは選ぶ。
この人は甘えそう、この人は断っても平気、この場面では自分が出る必要はない。そういう線引きを、誰でも無意識にしている。
景瑠は、それが妙に薄い。
もちろん、誰にでも全部を差し出しているわけではない。
けれど彼は、「助ける理由」を探さない。目の前に困っているものがあれば、ほとんど反射みたいに手を出してしまう。しかも、その自分をたいしたことだと思っていない。
一度、図書室の隅で見たことがある。
文化祭準備にはまだ早い時期だった。放課後、机に突っ伏して泣いている一年の男子がいて、景瑠がその隣に座っていた。
慰めているふうではなかった。
ただ、その子が言葉を探し終えるまで、黙って待っていた。
やがて一年生が「自分が悪いんで」と絞り出すと、景瑠は静かな声で言った。
「悪いかどうかは、あとで考えればいいだろ。今しんどいなら、先にそっち片づけろ」
その一言が、どうしてだか妙に残った。
正しさより先に、痛みのほうを見る。
人を甘やかしているようでいて、見ている場所はずっと冷静だ。
優しいのに、優しさに酔っていない。
それが少し、怖かった。
たぶん、その頃にはもう、かなり惹かれていたのだと思う。
決定的だったのは、六月の初めだった。
生徒会の予算確認で遅くなった日、わたしは保健室の前の廊下で一度立ち止まった。大したことではない。ただ、昼から何も食べていなくて、少し立ちくらみがしただけ。
壁に手をついて、三秒くらい目を閉じた。
その程度で、誰かに気づかれるとは思っていなかった。
「先輩」
声がした。
目を開けると、景瑠が目の前にいた。
いつの間にそこにいたのか分からなかった。廊下の端に自販機の紙コップを持ったまま立っていて、いつものように困った顔をしている。
「顔、白いです」
「そうかしら」
「そうです」
言い切られて、少しだけ笑ってしまった。
「平気よ。ちょっと立ちくらみしただけ」
「先輩が平気って言う時、半分くらい平気じゃないでしょう」
あまりにも自然に言われて、言葉を失った。
誰もそんなふうに言わない。
三年の夜嶺玻宮は、穏やかで、余裕があって、少し年上らしい先輩でいるのが当たり前だ。周りはその仮面ごと扱うし、わたしもそうされることに慣れていた。
なのに彼は、そこを一枚剥がしてくる。
失礼でもなく、同情でもなく、ただ見えたことをそのまま言う。
それができるのは、相手へ深入りする覚悟がある人だけだ。
「座れそうですか」と聞かれて、わたしは素直に頷いた。
保健室前の長椅子へ座ると、景瑠は紙コップを差し出した。
「甘いの、苦手じゃないなら」
「買ってきてくれたの?」
「もともと自分のです」
「まあ」
「でも先輩のほうが必要そうだったから」
それを聞いた瞬間、胸のどこかがひどく静かになった。
この子は、わたしに優しいのではない。
たまたま今、わたしが助けるべき相手に見えただけだ。
それなのに、どうしようもなく嬉しかった。
そこに、特別ではないことが分かっているのに、特別にされたみたいな錯覚が生まれた。
その錯覚は甘くて、危険で、底がなかった。
「天縫くん」
「はい」
「あなたって、ひどい子ね」
「え」
本気で分からない顔をする。
わたしは少し笑って、紙コップを両手で包んだ。
「なんでもないわ」
その時、わたしは恋に落ちていた。
認めるのに時間はかからなかった。
だって、そのあとから世界が明らかに変わったからだ。
彼を見つけるのが早くなる。
声が聞こえると意識が向く。
誰かと話しているだけで、どんな顔をしているのか知りたくなる。
そして、自分が彼にとって特別ではないことが、ひどく苦しい。
ここから先は、あまり綺麗な話ではない。
わたしはもともと、恋に夢を見ない性質だった。
誰かを好きになれば、その人に好かれたいと思う。
好かれたいと思えば、他の誰かに邪魔されたくない。
それは普通の感情だと思っていた。
けれど、景瑠を好きになって分かった。
あの子のそばには、人が寄ってくる。
しかも本人がそれを弾かない。
悪気なく受け止めて、悪気なく手を差し伸べて、悪気なく相手の中に居場所を作ってしまう。
あれは凶器だ。
やさしさというには、あまりにも鋭い。
人を救うふりをして、平気で人生に入り込んでくる。
そして本人は、その罪深さを知らない。
だから最初に、皇 冱玻を見た時も、すぐに分かった。
この子は危ない、と。
冱玻は同じ二年の学級委員で、最初から景瑠のすぐ近くにいた。
黒髪、白い肌、静かな声。整いすぎた顔立ちと、少し冷たいくらいの落ち着き。先生に話しかける時と、景瑠に話しかける時で声の温度がほんの少しだけ違う。気づかない人は多いだろうけれど、わたしはすぐ分かった。
この子は、景瑠のそばにいる理由を作るのが上手い。
提出物、委員会、連絡、確認。
全部、正しい。全部、必要。
だから誰も文句を言えない。
しかも冱玻自身が賢い。自分が彼の近くへいることを「当然の配置」に変えてしまう。
最初にそのことをはっきり理解したのは、ある昼休みだった。
景瑠が自分の席でプリントを見ているところへ、冱玻が行く。
立ち止まり、自然に話しかける。
景瑠が困った顔で何か答える。
冱玻は少しだけ笑って、紙を差し出す。
その間に流れる空気は静かで、誰にも邪魔されない。
見ていて、ぞっとした。
ああ、この子は派手に欲しがらない。
欲しいものを、正しい手順で自分のものにしていく。
ゆっくり、確実に。
わたしはその時、初めてはっきり思った。
邪魔だ、と。
まだ「殺したい」なんて言葉は浮かばなかった。
でも、いなければいいのに、とは思った。
少なくとも景瑠の視界からは、消えてほしい。
それは十分に、危険な始まりだった。
綺月 燦那は、冱玻とは別の意味で不快だった。
彼女は明るい。よく笑う。可愛い。人懐っこい。
そういう子はたいてい、自分が武器を持っていることを知っている。
燦那も例外ではなかった。
景瑠に話しかける時だけ、半歩近い。
名前を呼ぶ時だけ、声が少し甘い。
腕に触れるか触れないかの距離を、ためらいなく越える。
しかもその全部を、「あたし、こういう性格だから」で通せる顔をしている。
あれは厄介だった。
冱玻のように正しさで囲うのではなく、燦那は空気を取る。
周りを巻き込み、笑わせ、場の中心に立ち、その流れの中へ景瑠を当然のように組み込む。
一度、購買前でその光景を見た。
景瑠がパンを持って立っていて、燦那が何か言って笑わせている。近くにはクラスの女子が数人いて、みんな「この二人って仲いいよね」という顔をしていた。
その瞬間、胸の奥で何かがぐしゃりと潰れた。
冱玻のやり方はまだ冷静に読める。
でも燦那は、周囲の認識ごと奪う。
景瑠の隣にいることを「自然」に見せてしまう。
あの時、わたしはかなりはっきり思った。
この子、消えてくれないかしら。
もちろん本気でナイフを握るわけではない。
そんな単純な話じゃない。
けれど、評判でも、立場でも、空気でも、何でもいいから削りたいと思った。
景瑠のそばに立つ意味を、ひとつずつ壊してやりたいと。
そして最後に現れたのが、雪祇 透禍だった。
あの後輩を初めて見た時、わたしは一瞬だけ息を止めた。
静かすぎたからだ。
綺麗な顔をしている。白い肌、青みがかった黒髪、感情を伏せた目。
けれど本当に怖いのは、外見じゃない。
彼女は、景瑠を見ている時だけ、呼吸の仕方が変わる。
少しだけ目が深くなる。
少しだけ周囲への関心が薄くなる。
世界の輪郭が、彼だけに合うように絞られていく。
それを見て、わたしは直感した。
ああ、この子はまずい。
透禍は冱玻みたいに手順を整えるタイプでも、燦那みたいに場を掴むタイプでもない。
もっと静かに、もっと深く、必要な存在になろうとする。
しかも、そのために何を削ればいいかを、感情抜きで選べる目をしていた。
図書室の前で、景瑠が透禍から本を受け取っていた時のことを覚えている。
透禍はただ「先輩が探していたので」と言っただけだった。
声も小さく、表情も薄い。
なのに景瑠は、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
その一瞬で、分かった。
この後輩は、景瑠の生活の隙間へ入る。
目立たず、無理なく、逃げ道を残さない形で。
そして一度そこへ根を張れば、引き剥がすのは難しい。
ぞっとした。
同時に、妙に納得もした。
わたしが抱いている感情と、たぶん最も近いのはこの子だ、と。
あの子もきっと、心の底では思っている。
ほかの女なんていなければいいのに、と。
邪魔なものは、静かに消えてくれればいいのに、と。
その認識に至った瞬間、胸の奥で何かがひどく冷えた。
そしてその冷たさの中に、初めてはっきり言葉が浮かんだ。
殺したい、と思った。
もちろん、現実に血を流す話ではない。
けれど、感情としてはそれと変わらないほど純粋だった。
冱玻も、燦那も、透禍も。
景瑠の隣に立とうとするなら、まとめて消えてほしい。
景瑠の視界から、景瑠の生活から、景瑠の記憶から。
きれいさっぱり、跡形もなく。
そんなことを考えながら、それでもわたしは笑っていた。
先輩らしく、やわらかく、余裕のある顔をしていた。
だからきっと、わたしも相当たちが悪い。
景瑠は、そんなわたしたちの本性を、最初は何も知らなかった。
彼の中では、冱玻は頼れる学級委員で、燦那は明るいクラスメイトで、透禍は気の利く後輩で、わたしは少し年上の穏やかな先輩だったのだろう。
その認識が、どれほど無邪気で、どれほど残酷か。
彼はまだ知らない。
でも、知らないままだからこそ、わたしたちはここまで壊れた。
誰にでもやさしい。
誰の傷にも手を伸ばす。
そのくせ、自分が何をしているのか分かっていない。
時々、思う。
景瑠は、やさしい男の子なんかじゃない。
もっと質の悪い何かだ。
やさしさが尖りすぎて、周囲の人間を勝手に救って、勝手に狂わせる、どうしようもない化け物だ。
もちろん、そんなことを本人に言うつもりはない。
言ったところで、きっと困ったように笑うだけだろう。
「そんな大したもんじゃないですよ」とか、本気で言ってしまうのだ。
そういうところまで含めて、たまらなく腹が立つし、たまらなく好きだった。
だからわたしは、引かなかった。
冱玻が正しさで囲うなら、わたしは余裕でほどく。
燦那が空気を取るなら、わたしは印象で残る。
透禍が生活へ入り込むなら、わたしは心の静かな場所を取る。
そう決めた時には、もう普通の恋ではなくなっていた。
誰かに勝ちたいのではない。
誰かを負かしたいのでもない。
ただ、景瑠の隣に、自分以外がいることに耐えられなかった。
それだけだった。
たったそれだけのことで、人は驚くほど簡単に醜くなれる。
わたしはたぶん、最初から知っていたのだと思う。
この恋は甘く終わらない。
やさしい後輩へ抱く、可愛らしい片想いでは済まない。
だって、彼の周りには、同じ目をした女が三人もいたのだから。
そして、その誰もが笑っていた。
笑って、やさしい顔をして、上品に言葉を選びながら、心の底では同じことを願っていた。
――ほかの女なんて、いなくなればいいのに。
わたしも、その一人だった。




