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激重ヒロインと気づかない男  作者: 緋紅茜


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5/10

5話

文化祭まで二週間を切った頃、二年A組の放課後は、目に見える忙しさより、目に見えない思惑のほうが濃くなっていた。


装飾係、買い出し係、接客係、連絡補助。

表向きの役割はいくつもある。

けれど本当に重要なのは、誰が何をするかではない。


誰が誰の言葉を信じるか。

誰が誰の頼みなら動くか。

誰が誰のことを「自然にその位置にいる人」だと認識するか。


その空気を取った者が、景瑠の近くへ残れる。


天縫あまぬい 景瑠けいるは、その変化に薄く気づき始めていた。

ただ、全体像まではまだ見えていない。


たとえば最近、二年A組の女子たちは、何か細かい確認があるとまずすめらぎ 冱玻こはくへ声をかけるようになっていた。冱玻は学級委員という肩書きだけでなく、連絡と資料を誰より正確に握っている。質問への返答も早く、感情的にならない。だから「皇さんに聞けば間違いない」という小さな信頼が、クラスの中に積み上がっていた。


一方で、作業中の場の空気を動かしているのは綺月きづき 燦那さんなだった。

誰かが疲れていれば笑わせ、話し合いが止まれば雑談でつなぎ、空気が重くなれば軽い冗談で流す。結果として「綺月さんがいると場が回る」という認識ができる。人は、楽な空気を作る人の周りに集まる。


雪祇ゆきぎ 透禍とうかは、別の種類の味方を作っていた。

一年の手伝い組の中で、必要な作業、無駄のない手順、備品の置き場所を細かく共有し、「雪祇ちゃんに聞けば早い」という小さな信頼を確立していた。派手な人気はない。けれど、実務の場では一番頼られる。


そして夜嶺やみね 玻宮はぐうは、上級生や生徒会側に静かに根を張っていた。

穏やかで、柔らかく、全体を見ている人。三年生たちの間では、玻宮はそう認識されている。意見をぶつけるより、一度受け止めてから言い換える。だから上層の場では強い。


四人は、それぞれ別の場所で「小さな味方」を作っていた。

そしてそれを、互いに削るために使い始めていた。


きっかけになったのは、当日の動線確認会議だった。


文化祭当日、各クラスの備品補充や緊急連絡をどう回すか、二年と一年の補助、それに生徒会側の巡回担当を交えて確認する必要がある。

場所は視聴覚室。集まるのは、各クラスの委員、手伝い代表、そして数名の上級生。


景瑠も連絡補助として呼ばれていた。


会議の始まる少し前、景瑠が視聴覚室へ入ると、すでに冱玻が前方の席で資料を並べていた。

黒髪を耳にかける仕草まできれいで、白い指先が紙を揃えるだけで妙に絵になる。


「天縫くん、こっち」


冱玻は自分の隣の席を軽く示した。

その声は静かだが、周囲から見ても自然に「その席は天縫景瑠のもの」と見える程度には迷いがない。


景瑠が席へ向かおうとすると、後ろから燦那の明るい声が飛ぶ。


「景瑠、そっち資料見づらくない? こっちのほうがスクリーン近いよ」


振り返ると、燦那が中央寄りの席でひらひら手を振っている。

周囲に二年A組の女子が数人いて、彼女たちはすでに燦那の近くにまとまっていた。


景瑠が一瞬だけ足を止める。


その迷いを見た冱玻が、すっと口を開いた。


「前方のほうが、連絡事項を書き込みやすいわ。天縫くんは補助でしょ」


正論だった。

だが燦那も負けない。


「でも見えにくいと意味なくない? 景瑠、遠いと疲れると目細めるし」


それもまた、よく見ているから言えることだった。


景瑠は数秒迷い、結局、真ん中より少し前の空いた席に座った。

どちらにも寄りきらない位置。

本人としては無難な選択のつもりだったが、それ自体がもう答えを避けている。


「そこでいいの?」


冱玻が小さく言う。


「うん。どっちも見えるし」


「……そう」


冱玻はそれ以上何も言わなかった。

燦那はにこりと笑ったが、その目は景瑠の逃げ方を覚えていた。


会議が始まると、最初は普通に進んだ。

巡回ルート、備品補充の窓口、緊急時の責任者。

けれど議題が「各学年補助の固定先」へ移ったあたりで、空気が変わる。


一年の補助役をどこへ配置するか、三年生の巡回担当はどのクラスに長く入るか。

それはつまり、誰がどの教室へ、どれだけ自然に出入りできるかの話だった。


「一年補助は、基本的に特定クラスへ固定しないほうがいいと思います」


最初に言ったのは、透禍だった。

視聴覚室の後方、他の一年生の隣に座りながら、淡々と手を挙げる。


「作業の偏りが出るので。必要なところに回せるよう、共通補助扱いにしたほうが効率的です」


その提案自体はもっともだった。

一年生たちも数人が頷く。


けれどその瞬間、玻宮の視線がわずかに透禍へ向く。

これは単なる効率論ではない。

透禍は、自分が景瑠の近くへ固定される道を先に切り捨てることで、逆に「特定の先輩にだけ寄っている」という印象を防いでいる。

そのうえで、誰か別の人間を縛る準備をしている。


案の定、透禍は続けた。


「それと、三年生の巡回も、特定クラスに偏らないほうがいいです」


視聴覚室の空気が、ほんの少しだけ止まる。


三年生のひとりが聞き返す。


「偏るって?」


透禍は一拍置いてから答えた。


「一部のクラスに、巡回以上の頻度で上級生が出入りしていると、他のクラスが頼みにくくなります。見られ方としても、公平ではありません」


その言葉は誰も名指ししていない。

だが、この場にいる人間で意味を理解できない者はいなかった。


夜嶺玻宮は、このところ二年A組へよく出入りしている。

生徒会の確認、巡回の共有、資料配布。どれも理由はある。

だが回数だけ見れば、確かに多い。


「雪祇さん」


玻宮は穏やかに笑って言った。


「それは私のことかしら」


透禍はまっすぐ玻宮を見る。


「該当するなら、そうです」


室内の空気が細くきしんだ。

景瑠は思わず顔を上げる。


燦那が、面白がるのを押し隠した声で言う。


「たしかに、言われてみれば夜嶺先輩って二年A組来ること多いかも」


「あら」


玻宮は笑ったままだ。

だがその笑みの薄い膜の下で、感情が静かに動く。


冱玻はそこで口を開かなかった。

あえて沈黙した。

透禍が投げた石は、玻宮にとって確かに痛い。

ここで庇えば、自分まで同じ側に見える。

黙っていれば、玻宮の「自然な出入り」は一度疑われる。


景瑠だけが、状況の悪さに気づいて口を開く。


「夜嶺先輩は、別に……」


そこまで言いかけた時、冱玻が静かに制した。


「天縫くん」


その声は柔らかい。

柔らかいが、「今は出ないで」という明確な意志がある。


景瑠は言葉を飲み込んだ。

自分が口を挟めば、余計に玻宮が「天縫景瑠に肩入れされる先輩」に見えてしまうかもしれない。

そこまでは分かる。

分かるから、かえって苦しい。


会議の場では、誰かを直接責める言葉は好まれない。

だから透禍は、制度の話をしている顔を崩さない。


「個人的な事情ではなく、あくまで当日の公平性の問題です」


「あくまで運営上の話、ということね」


玻宮がそう返すと、透禍は頷いた。


「はい」


その「はい」がきれいすぎて、余計に冷たい。

後輩が先輩を名指しせず、しかし確実に不利へ追い込む。

透禍はそのやり方を、初めから知っていたみたいに迷いがない。


ここで、燦那がさらに一押しした。


「公平さって大事だよね。誰か一人のクラスに三年の窓口が寄りすぎると、ほかのクラスは相談しにくいし」


明るい声だ。

支持にも、正義にも聞こえる。

けれど実際は、透禍の投げた論点に乗って玻宮の立場を削っている。


さらに、二年A組の女子のひとりが言った。


「たしかに、二年A組ってもう人足りてる感じだし。夜嶺先輩は別のクラス回ったほうが助かるかも」


それは燦那寄りの空気の中で生まれた、小さな味方の声だった。

たった一言でも、場が傾くには十分だ。


そこでようやく、冱玻が口を開く。


「……運営上の公平性という意味では、一理あるわ」


玻宮の視線が、初めて冱玻へ向いた。

庇わない。

利用する。

その判断があまりに鮮やかで、玻宮は一瞬だけ心の奥で笑った。

やはりこの子は冷たい。


冱玻は淡々と続ける。


「夜嶺先輩が悪いという話ではなく、見え方の問題ね。巡回担当は、なるべく広く回ったほうが誤解を避けられると思う」


綺麗な言い換えだった。

直接の糾弾ではない。

けれど結論は変わらない。


玻宮を二年A組から引き離す。

少なくとも、以前ほど自由には出入りできない立場に置く。


それが、この場でほぼ決まった。


視聴覚室の隅で、景瑠はじわりと嫌なものが腹に沈むのを感じていた。

今、行われているのは運営の話だ。

けれど、運営だけではない。

誰もが正しいことしか言っていないようで、正しさの形に整えた刃を、ちゃんと誰かへ向けている。


玻宮は数秒黙ったあと、やわらかく微笑んだ。


「分かったわ。そう見えるのなら、私が下がりましょう」


声は穏やかで、表情も崩れない。

それが逆に、景瑠の胸を刺した。


「夜嶺先輩」


思わず呼ぶと、玻宮は景瑠のほうだけ見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「大丈夫。会議を止めるほどのことじゃないもの」


その言い方は大人だった。

だから余計に、一人だけ引き受けている感じがしてしまう。


会議が終わったあと、視聴覚室を出た景瑠は、廊下の先で玻宮に追いついた。


「先輩、さっきの……」


「何かしら」


玻宮は立ち止まり、振り返る。

夕方の廊下は少し赤い。長い髪がその光を含んで、彼女の表情を読みづらくしている。


景瑠は数秒迷ってから言った。


「先輩が悪いみたいになったの、変でした」


玻宮は少しだけ驚いたように目を瞬き、それから笑う。


「変、ね。そう思うの?」


「だって、先輩は仕事で来てたことも多かったし。全部が全部、そういう意味で見られるのは違うだろ」


景瑠にしては珍しく、はっきりした口調だった。

玻宮はその変化を静かに受け止める。


「天縫くん」


「はい」


「そういうふうに、誰か一人のために真っ直ぐ言えるの、危ないわよ」


景瑠は眉を寄せた。


「危ないって」


「あなた、自分で思っているより、人のために怒れるでしょう」


景瑠は答えに詰まった。

たしかに、普段はあまり強く出ない。

けれど、一度「おかしい」と思った時は、妙に引けなくなることがある。

自分でも、その理由はうまく説明できない。


玻宮は彼の沈黙を見て、少しだけ笑った。


「……ありがとう。でも、今はそれを表に出さないで。あなたが言うと、余計に話がややこしくなるもの」


それは本音だった。

景瑠の言葉は、変に真っ直ぐで、時々周囲の計算を壊しかねない。

優しさというより、それを通り越した別の何かみたいに見えることがある。

玻宮はそれを知っているから、今は抑えた。


その頃、階段の踊り場では冱玻と透禍が短く言葉を交わしていた。


「ずいぶん綺麗に刺したわね」


冱玻が言う。

透禍は手すりの向こうの校庭を見たまま答える。


「必要でした」


「夜嶺先輩を外したかったの?」


「ええ」


透禍の返事には一切のためらいがない。


「上の立場を使って、先輩に自然に近づけるのは厄介です。理由が正しければ、周囲も止めません」


冱玻はその横顔を見て、少しだけ感心した。

静かな子ほど、決めた時の刃が深い。


「でも、あまり露骨だと自分に返るわよ」


「分かっています」


透禍は短く言った。


「だから、先輩個人を否定したのではなく、運営の形を変えただけです」


冱玻は小さく息をついた。

まったくその通りだ。

しかも、そのやり方は自分に近い。

認めたくはないが。


別の場所では、燦那が二年A組の女子二人と帰り支度をしながら、明るい声で話していた。


「でもさ、今日のってちょっと意外だったよね」


「なにが?」と女子が聞く。


「雪祇ちゃん。普段静かなのに、ああいう時は結構言うんだなって」


燦那は笑って言う。


「まあ、正しいこと言ってる風に見えると強いよね」


女子たちは曖昧に笑った。

その言い方の中には、透禍の発言を「冷たい」「計算高い」と感じさせる薄い膜がある。

燦那はその程度でいいと分かっていた。

露骨に悪く言えば反発される。

でも「ちょっと怖いよね」くらいの印象なら、自然に広がる。


そして実際、その夜のうちに二年A組の何人かは思い返していた。

雪祇透禍は静かで綺麗だけれど、思ったより強い。

怖いくらいまっすぐに、人を不利へ持っていける。

そんな印象が、じわじわと染みる。


四人は全員、互いを削っていた。

だが、今回一番大きく立場を落としたのは玻宮だった。


翌日から、三年の巡回担当表が見直され、玻宮は二年A組担当から外れた。

理由は「巡回の偏りを避けるため」。

誰も文句は言えない。

正しい調整だからだ。


その結果、玻宮は以前のように景瑠へ自然に話しかける機会を失った。

文化祭関連で会えるとしても、廊下ですれ違う程度。

資料を渡す役目も別の三年生へ分散された。


見た目には小さな変更だ。

けれどこの状況での「少し遠くなる」は、致命的に近い。


昼休み、景瑠は廊下の向こうに玻宮を見つけた。

前なら向こうから軽く手を振ってきたはずだ。

けれど今日は、玻宮は別の三年女子と話しながら、そのまま通り過ぎていく。


目が合ったのは一瞬だった。

その一瞬に、玻宮は笑った。

何でもないみたいに。

だからこそ景瑠は、胸の奥が妙に重くなった。


「天縫くん」


後ろから冱玻に呼ばれる。


「次の連絡、確認して」


「……ああ、うん」


景瑠は返事をしたが、視線はまだ廊下の先を追っていた。


冱玻はそれに気づいていた。

気づいた上で、何も言わない。

今、玻宮を気にかける景瑠の心は、自分にとっても決して好ましいものではない。

けれど、ここで露骨に遮れば逆効果になる。

だからただ、目の前の資料を差し出す。


燦那はそれを横目で見て、内心で少しだけ笑う。

透禍は無言で景瑠のペンを机へ置く。

四人とも、別々の場所から景瑠の意識の流れを見ている。


その放課後、景瑠は珍しく自分から言った。


「皇さん、雪祇さん、綺月さん」


三人が同時に顔を上げる。


「夜嶺先輩の担当、ほんとにあれでよかったのか」


教室が一瞬だけ静まった。


最初に答えたのは冱玻だった。


「運営上は妥当よ」


「運営上は、だろ」


景瑠の返しは思ったより鋭かった。

冱玻はわずかに目を細める。


燦那が笑って空気を崩そうとする。


「景瑠、先輩のこと気にしてる?」


「気にするよ。だって、悪いことしたわけじゃないのに、急に引かされるみたいなの変だろ」


その一言に、三人とも少しだけ言葉を失った。


景瑠は、いつも受け身だ。

誰かの感情に鈍く、自分から踏み込むことも少ない。

けれど一度「理不尽だ」と感じると、妙にまっすぐになる。

それは優しさというより、もっと尖った性質に近い。

冱玻はそれを見て、ああ、と思った。

この人は、本当に放っておくと、誰にでも手を差し出してしまう。

しかも、止められるまで。


透禍が静かに言う。


「先輩は、運営上の立場が強すぎました」


景瑠が振り向く。


「だから下げていいってことにはならないだろ」


「……」


透禍はほんのわずかに黙る。

正論を制度へ置き換えるのは得意だ。

でも、こうしてまっすぐ返されると、自分のやったことの形がはっきり見えてしまう。


燦那が口を挟む。


「景瑠、怒ってる?」


「怒ってるっていうか……納得してない」


「へえ」


燦那は目を細めた。

そして少しだけ、本気で思った。

やっぱりこの男は危ない。

普段は鈍いくせに、妙なところだけ、ためらいなく人のために立つ。


冱玻がゆっくり言う。


「天縫くん。あなたの言いたいことは分かるわ。でも、あの場で夜嶺先輩を庇えば、かえって状況が悪くなっていた可能性もある」


景瑠は黙る。

それも分かる。

だから余計に苦しい。


「……分かってる」


そう言ったあとで、景瑠は小さく息を吐いた。


「分かってるけど、気分悪い」


その一言で、教室の空気が少し変わった。

誰もが景瑠を「流される側」だと思っていた。

けれど今、彼は確かに自分の不快を言葉にした。

それは小さいが、無視できない変化だった。


三人はそれぞれ違う感情を抱く。


冱玻は、景瑠のその真っ直ぐさを、少し眩しく感じながらも厄介だと思う。

燦那は、そこまで夜嶺玻宮を気にかける景瑠が面白くない。

透禍は、自分が一歩押し込みすぎたかもしれないと、初めてほんの少しだけ考える。


けれど、もう遅い。


玻宮はすでに不利な立場へ追いやられた。

それは一度の会議で生まれたように見えて、実際には四人がそれぞれ作った小さな味方と、積み上げた空気の結果だった。


冱玻は正しさを集めた。

燦那は同調を集めた。

透禍は効率を集めた。

玻宮は上の信頼を集めた。

そして今回は、透禍が投げた「公平性」の刃に、冱玻と燦那がそれぞれ少しずつ重さを足したことで、玻宮だけが切り離された。


恋ではない。

もう、ただの恋ではない。


誰が景瑠の隣に立つかを決めるために、

誰が景瑠の近くへいても不自然ではないかを周囲へ信じ込ませる。

それは評判であり、役割であり、立場であり、空気の奪い合いだった。


窓の外では、夕方の色がゆっくり校舎を染めていた。

文化祭まで、あと十一日。

そしてこの見えない政治の中で、初めて一人、明確に不利な位置へ落ちた者がいる。


夜嶺玻宮。

それでも彼女は、まだ笑っていた。

笑っているからこそ、三人の誰も安心できなかった。

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