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激重ヒロインと気づかない男  作者: 緋紅茜


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2/10

2話

翌週の月曜日、二年A組の朝はいつもより少しだけ落ち着かなかった。


六月に入れば、校内は文化祭の準備で騒がしくなる。各クラスで出し物を決め、委員を選び、放課後の居残りが増える。まだ詳細は決まっていないはずなのに、教室のあちこちではもう、誰と同じ班になりたいだの、どの企画なら楽そうだの、そんな話が飛び交っていた。


天縫あまぬい 景瑠けいるは、窓際の席でプリントをめくりながら、そのにぎわいを半分くらいしか聞いていなかった。文化祭そのものは嫌いではない。ただ、準備期間になると人手が足りない場面が増えて、誰かに頼まれる回数も増える。たぶん今年もそうなるのだろう、とぼんやり考えていた。


「天縫くん」


静かな声がして顔を上げると、すめらぎ 冱玻こはくが立っていた。いつも通り、艶のある黒髪は乱れなく整い、朝の光を受けた白い横顔は凛としている。教室が落ち着かないほど、彼女の静けさはよく目立つ。


「文化祭の実行補助、今年もクラス委員が数人選ぶことになるそうよ」


冱玻はそう言って、景瑠の机に一枚の連絡用紙を置いた。


「へえ。もうそんな時期か」


「ええ。だから先に伝えておこうと思って。天縫くん、きっと頼られるでしょう?」


「俺が?」


「自覚がないところも含めて、そういうところよ」


冱玻はわずかに微笑む。柔らかい表情のはずなのに、その目は景瑠の返事を逃さず見ていた。


「もし委員の仕事が増えるなら、あまり無理はしないで。引き受けすぎる癖があるもの」


景瑠は少し驚いてから、苦笑した。


「そんなに分かりやすいかな」


「かなり」


冱玻は即答した。

その短い返事だけで、景瑠の胸の中に小さな温かさが生まれる。自分のことをよく見てくれているのだ、と彼は素直に思った。


それだけで十分だったはずなのに。


「景瑠ー、おはよ」


背後から机に体重を預けるようにして、綺月きづき 燦那さんなが割り込んできた。蜂蜜色の髪が軽く揺れ、彼女の明るい声だけで教室の空気が一気に華やぐ。


「何してるの?」


「文化祭の話。委員の補助があるらしい」


「ふうん」


燦那は冱玻と景瑠を交互に見て、それから笑った。


「じゃあ景瑠、今年も絶対いろいろ押しつけられるじゃん。だめだよ、優しい顔してるとすぐ使われるんだから」


「使われるってほどじゃ」


「使われるの」


燦那は言い切ったあと、景瑠の肩に軽く指先を触れた。親しげで、自然で、けれど近すぎる距離だった。


「だから、あたしがちゃんと見ててあげる」


冱玻がすっと目を細める。


「綺月さんが?」


「うん。景瑠、断るの苦手そうだし」


「それなら私も同意見ね。だからこそ、無責任に甘やかすのではなく、調整が必要だと思うけれど」


「甘やかしてないよ。大事にしてるだけ」


燦那は笑顔のまま答えた。

冱玻もまた微笑んでいる。

その二人の間に立たされている景瑠だけが、なぜ空気が少し冷えたのか分かっていなかった。


一時間目の休み時間、二年生の教室の前にひときわ静かな影が差した。


一年の雪祇ゆきぎ 透禍とうかだった。長い青みがかった黒髪を胸の前に流し、白い指で文庫本を抱えている。その佇まいだけで、近くの女子たちが小声になる。


「天縫先輩」


景瑠が廊下に出ると、透禍はいつも通り感情を抑えた声で言った。


「先日、先輩が探していた本です。図書室で見つけたので、借りておきました」


差し出されたのは、景瑠が数日前に「気になるけど貸出中だった」と何気なく言った小説だった。


「え、覚えてたのか」


「はい」


透禍はただそれだけを答える。

けれど、その一言のなかには「先輩のことは覚えているに決まっている」という当然さがあった。


景瑠が本を受け取ろうとすると、透禍は少しだけ視線を上げた。


「文化祭の準備、忙しくなりますか」


「たぶん。まだ分からないけど」


「無理はしないでください。先輩は、頼まれると断れないので」


その言い方が、さっき冱玻に言われたこととほとんど同じで、景瑠は少し笑った。


「みんな同じこと言うな」


「みんな、ではありません」


透禍は静かに否定した。


「わたしは、先輩が疲れているのを見るのが嫌なだけです」


その言葉に、景瑠は一瞬だけ返答を失った。

真正面から向けられる、曖昧さの少ない気遣い。

だが彼は結局、それを後輩の素直な好意として受け取る。


「ありがとう。助かるよ」


透禍の瞳がほんのわずかに和らいだ。

それを教室の扉の隙間から見ていた燦那は、にこやかな顔のまま胸の内で舌打ちする。

冱玻はノートを閉じながら、あの後輩は本当に遠慮がない、と思った。

どちらも表情には出さない。


昼休みになると、景瑠の机の上には奇妙なくらい物が集まった。燦那が買ってきたパン、冱玻が持ってきた温かい紅茶、透禍が朝のうちに渡した本に挟まっていた栞。しかもその栞は、景瑠が好きだと言っていた夜空の柄だった。


「天縫くん、紅茶は冷める前に」


冱玻が言う。


「景瑠、そのパン新作で美味しいから先に食べて」


燦那が重ねる。


「先輩、本は読み終わったら返してください」


透禍が静かに続ける。


三方向から言葉をかけられて、景瑠は本気で困っていた。


「順番にいくから、ちょっと待って」


「あはは、景瑠、手が足りてないじゃん」


燦那は楽しそうに笑う。

その明るさに紛れて、彼女の目は冱玻のカップと透禍の栞を一瞬で確認していた。紅茶を用意してくるなんて、冱玻らしい。栞にまで好きな柄を反映させるなんて、透禍も案外ぬけぬけしている。どちらも気に入らない。


冱玻もまた、燦那が景瑠のパンの包みを勝手に開けてやっているのを横目で見ていた。距離が近い。自然すぎる。あれを許している景瑠も景瑠だ、と胸の奥が冷える。


透禍は何も言わない。ただ、景瑠の机の脇に立つ二人を見ながら考える。

邪魔だ。

その感情は澄んでいて、驚くほど濁りがない。

先輩の視界から、少しずつ遠ざけていければいいのに、と本気で思う。


その日の放課後、担任が文化祭の大まかな説明を始めた。


クラスごとの出し物は来週決めるが、それとは別に、希望者の中から数名、校内企画の補助に回る可能性があるという。準備の連絡係や買い出し、掲示物作成など、細かい仕事が増えるらしい。


「希望者が少なければ、こちらからお願いすることもある」と担任が言った瞬間、教室のあちこちで小さな悲鳴が上がった。


景瑠は内心で、たぶん自分も何かしら頼まれるのだろう、と思った。

そして、どうせなら早いうちに引き受けたほうが迷惑がかからないか、とまで考えた。


その考えを、冱玻は見抜いていた。


「天縫くん」


ホームルーム後、冱玻は景瑠の席に来ると、声を落として言った。


「今、引き受けようとしたでしょう」


「してない……とは言い切れないけど」


「だと思った」


冱玻はため息まじりに微笑む。


「頼まれたら断れないのは知っているけれど、最初から自分を差し出す必要はないわ」


「でも、人が足りなかったら困るだろ」


「だから調整するの。あなた一人が抱えるのではなくて」


その言い方は、まるで景瑠の負担まで自分の管轄だと言うみたいだった。

景瑠は少しだけくすぐったくなって、「分かった」と素直に頷く。


その様子を、少し離れた場所から燦那が見ていた。

冱玻はいつもそうだ。正論で、自然に、景瑠の決定権に寄り添うふりをして自分の立ち位置を作る。

上手い。だから腹が立つ。


「景瑠、帰りちょっと寄り道しない?」


燦那はすぐに割って入った。鞄を持ちながら、明るい声で景瑠の前に立つ。


「駅前の雑貨屋、文化祭で使えそうな飾り置いてるんだって。下見だけでもしよ」


「もう見に行くのか」


「早いほうがいいじゃん」


「それなら私も同行するわ」


冱玻が即座に言った。


「クラスで共有できる情報になるもの」


「……皇さん、反応早いな」


景瑠が苦笑した、その時だった。


教室の後ろの扉から、やわらかな声がした。


「まあ、楽しそう」


三年の夜嶺やみね 玻宮はぐうが、廊下からこちらを覗いていた。長い髪を肩に流し、穏やかな笑みを浮かべているだけなのに、教室の空気が少しだけ変わる。


「夜嶺先輩」


景瑠が名を呼ぶと、玻宮はゆっくり近づいてきた。


「生徒会で文化祭の資料を配っているの。もし興味があるなら、天縫くんにも見せようと思って」


そう言って差し出されたファイルには、去年の配置図や準備の流れがまとめられていた。たしかに役立ちそうだ。


「ありがとうございます。助かります」


「ううん。天縫くん、きっとまた誰かに頼られるでしょう?」


玻宮はくすりと笑った。


「だから、先に少しだけ助けておきたかったの」


景瑠は本当にありがたいと思った。

四方から手を差し伸べられて、彼はただ「親切な人が多い」としか感じていない。


結果として、その日の下見は「みんなで行く」という最悪に近い形で決着した。


駅前の雑貨屋は思ったより狭く、通路も細かった。だから並んで歩けば肩が触れるし、立ち止まれば距離が詰まる。四人にとって、これほど気を使う空間もない。


「この星のガーランド、可愛くない?」


燦那が棚からひとつ取り上げ、景瑠のほうへ振り向く。


「天井に吊ったら映えそう」


「たしかに、教室なら目立つかも」


景瑠が答えると、冱玻がその横から別の商品を取った。


「派手すぎると統一感がなくなるわ。こちらのほうが上品で、長く使えると思うけれど」


「長く使える前提なんだ」


燦那が笑う。


「だって、せっかくなら写真映えしたほうがよくない?」


「文化祭は写真のためにやるものではないでしょう」


「でも景瑠が可愛いって言ったほうが勝ちな感じしない?」


「何の勝負かしら」


冱玻は穏やかに返す。

景瑠は二人の会話を聞きながら、また仲がいいのか悪いのか分からなくなっていた。


少し離れた棚では、透禍が黙って材料の値札を見ていた。

その横に玻宮が立つ。


「雪祇さん、そういう細かい確認、得意そうね」


「必要なので見ています」


「ええ、分かるわ。天縫くん、案外そういうところ無頓着だものね」


透禍は玻宮を見た。

この先輩は穏やかに見えて、時々こうして自然な顔で「自分は彼を理解している」と滲ませる。厄介だ、と透禍は思う。


「先輩のことをよく見ているんですね」


「あなたもでしょう?」


玻宮は笑った。

そこに悪意は見えない。見えないからこそ、余計に読みづらい。


店を出る頃には、景瑠の手にはなぜか小さな紙袋が三つ増えていた。燦那が「景瑠ならこれ似合うと思って」と選んだマスキングテープ、冱玻が「資料整理に使えるから」と渡したクリアファイル、透禍がレジ横で無言のうちに会計を済ませていた栞。それぞれ用途は違うのに、どれも景瑠の手元に残るよう計算されている。


「こんなにもらっていいのか」


景瑠が言うと、燦那が笑う。


「いいの。使ってくれたら嬉しいし」


冱玻も静かに続ける。


「不要なら、返してもらっても構わないけれど」


返すという選択肢を提示しながら、返されたくないと分かる言い方だった。


透禍は短く言う。


「先輩が持っていてください」


その時、駅前の横断歩道の向こうから、二年B組の女子生徒が景瑠に手を振った。


「天縫くん、文化祭のことでちょっと相談いい?」


明るい声だった。たぶんクラス横断の係で、景瑠の名前を聞いていたのだろう。


景瑠が足を止めるより先に、四人の空気が変わった。


燦那の笑顔が少しだけ強くなる。

冱玻の目元が静かに冷える。

透禍の視線が細くなる。

玻宮だけが、やわらかく微笑んだまま一歩だけ景瑠に近づいた。


「ごめんなさい」


先に声を出したのは玻宮だった。


「天縫くん、今ちょうどこちらの確認中なの。急ぎでなければ、また明日でもいいかしら?」


年上らしい柔らかな言い回しに、相手の女子は一瞬たじろぐ。


そこへ冱玻が自然に重ねる。


「内容によっては私も共有しておきたいわ。明日の朝、私が聞いて天縫くんに伝える形でも大丈夫?」


燦那も明るく笑った。


「今日はもう結構歩いたしね。景瑠、そろそろ休ませないと」


最後に透禍が静かに付け足す。


「先輩は疲れています」


四人の連携はあまりにも滑らかだった。

相談を持ちかけた女子は「そ、そっか」と曖昧に笑い、結局そのまま引き下がった。


景瑠はただ、「みんな、すごく手際がいいな」と思っていた。

自分が守られたのか、囲い込まれたのか、その違いすら分かっていない。


別れ際、駅の改札前で燦那が景瑠の袖を引いた。


「ねえ景瑠。文化祭の準備、本当に無理しないでね」


いつもより少しだけ真面目な声だった。


冱玻も言う。


「何か引き受ける前に、一度考えて。必要なら相談して」


透禍は短く、けれどはっきりと告げる。


「先輩の時間は、もっと大事にしていいです」


玻宮は最後に微笑む。


「天縫くんは、自分が思うよりずっと簡単に連れていかれるから。気をつけて」


景瑠は四人を見回し、少し困ったように笑った。


「そんなに危なっかしいかな、俺」


「かなり」


四人の声が、ほとんど同時に重なった。


その夜、景瑠は自室の机に紙袋を並べ、今日のことを思い返していた。

冱玻は相変わらず頼もしくて、燦那は明るくて、透禍は気が利いて、玻宮は大人っぽい。

文化祭の準備はたぶん大変になる。けれど、こんなふうに気にかけてくれる人がいるなら何とかなるかもしれない。

彼は本気でそう思っていた。


一方で、同じ夜。


冱玻は机に向かいながら考える。

文化祭は好機だ。放課後の時間を、もっと自然に景瑠の隣へ固定できる。燦那のような分かりやすい近づき方ではなく、必要な存在として。


燦那はベッドの上でスマホを握りしめる。

今日の四人一緒の時間は、正直気に入らない。景瑠の横に立つなら一人でいい。できればあたし以外、みんな遠回りしてくれればいいのに、と笑顔のまま思う。


透禍は借りた本の返却予定日を確認しながら考える。

文化祭で忙しくなるなら、その前に先輩の生活へもっと入り込まなければならない。必要とされる場所を増やせば、離れにくくなる。


玻宮は窓の外を見て微笑む。

下級生たちは可愛いくらい必死だ。けれど、焦る人ほど足元をすくわれる。天縫くんの深いところに残るのは、もっと静かな印象かもしれない。


やがて学校全体が文化祭へ向かって忙しさを増していく。

放課後は長くなり、会話は増え、誰と誰が一緒にいるかが、今まで以上に意味を持ち始める。

景瑠はまだ知らない。

その時間のひとつひとつが、四人にとってはただの準備ではなく、自分の場所を奪い合うための戦場になっていくことを。


静かな火花は、少しずつ大きくなっていた。

そしてその中心で、天縫景瑠だけが、まだ穏やかな春の続きを信じている。

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