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第23話 海風と薬草の部屋



ミラの薬草房へ通い始めてから、私の一日は少しだけ複雑になった。朝はマレクの《シーグリット号》に乗って近海へ出る日もあれば、漁が休みの日や天候が荒れそうな日は《ヴァーン薬草房》で棚の整理や薬草の乾燥具合の確認を手伝い、夜になると《錨の歌亭》のカウンターの端でルーに温かい豆の煮込みを出してもらいながら、その日覚えた薬草名、調合手順、患者の訴え、船員たちの傷の経過、そして自分の中に浮かんだ仮説を、滲みやすい粗末な紙へ一つずつ書き留めていく。収入は相変わらず細い。漁船の補助で得る銅リーナ、薬草房の手伝い代としてミラが気まぐれに渡してくれる数枚の硬貨、たまに港の常連から「これで茶でも飲みな」と押しつけられる小銭、それらを合わせても、余裕のある暮らしとはほど遠く、少し良い食事を取ればすぐに消えるし、寝床を確保しようとすれば一晩で財布が軽くなる。それでも、以前のように明日の食べ物すら見えず、石畳の冷たさを背中で受けながら眠っていた頃と比べれば、私の生活は確実に形を持ち始めていた。


薬草房での仕事は、想像以上に地味で、そして想像以上に面白かった。ミラは私に、最初から難しい調合を任せたりはしなかった。彼女がやらせるのは、乾燥棚の湿度を確認すること、葉と茎を分けること、虫食いのあるものを取り除くこと、薬壺の外側についた粉を拭き取ること、すり鉢を使ったあとに細かい繊維が残らないよう洗うこと、煮出した薬草を布で濾すときに力を入れすぎて薬液を濁らせないこと、瓶の栓を閉める前に内側の水滴を完全に拭き取ること、そういう、いかにも下働きらしい作業ばかりだった。けれどミラはそうした作業の一つ一つに意味があることを、口の悪さを隠しもしない調子で何度も教えた。


「乾燥が甘い葉は腐る。腐った葉を薬に混ぜると腹を壊す。腹を壊した患者が弱っていれば、そのまま死ぬこともある。つまり、棚を拭く手抜きは人殺しに繋がる。分かったかい、医者見習い」


「……はい、分かりました」


「分かったなら、棚の奥まで拭きな。見えるところだけ綺麗にする奴は、病の見えるところだけ治した気になって中を腐らせるからね」


その言い方は厳しかったけれど、妙に納得できた。日本の病院でも、手洗い、消毒、器具の管理、薬品の保管、カルテの記載、そういう地味で当たり前の積み重ねが医療を支えていた。医学生だった頃、私はそれらを分かっているつもりだったけれど、本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。目の前の患者に格好よく診断を下すことばかり想像して、薬瓶の湿気や布の清潔さや水の管理が命を左右する現実を、どこか遠くに置いていた気がする。


ミラは魔法薬の作り方についても、少しずつ教えてくれた。魔法薬といっても、瓶の中で光っている液体を飲めば何でも治る、という都合の良いものではない。多くの魔法薬は、薬草が持つ薬力に、霧苔や魔導鉱粉のような触媒を加え、火加減、月齢、採取地の魔素濃度、患者の体質を考慮して作るもので、効き目は強い分だけ扱いも難しかった。例えば、港で冬に売れる《温血液》は体を温めるけれど、発熱している人に飲ませれば余計に熱を上げる。軽い咳に使う《サルヴィア露草茶》は喉を潤すが、肺の奥で濁った痰が絡むような咳には効きが弱く、呼吸が苦しそうな患者に「咳止めだから」と飲ませて放置すれば、悪化を見逃す危険がある。傷薬として有名な《銀糸蔓の軟膏》は腐敗を遅らせる力を持つが、汚れた傷へそのまま塗れば、表面だけ綺麗になったように見えて中で膿が溜まることもある。


「薬は、患者の体に命令する道具じゃない。体の流れへ手を添える道具だよ。流れを見ずに強い薬を入れれば、川に石を投げ込むようなもんさ」


ミラはそう言いながら、石のすり鉢の中で赤熱根を細かく砕き、ほんの少量を蜂蜜酒へ落とした。赤い粉が液体の中でゆっくりほどけると、瓶の底から淡い熱気のようなものが立ち上がり、私は思わず身を乗り出した。


「今、少し光りましたよね」


「赤熱根に残っていた魔素が酒精と反応したんだ。光るから効く、とは限らない。光らなくても効く薬はあるし、派手に光るだけの偽物もある。市場の露店で青白く光る万能薬を売っていたら、だいたい半分は詐欺だと思いな」


「半分なんですか」


「残り半分は、詐欺より悪い。効くけど危ない薬だよ」


私はすぐにノートへ書き込んだ。光る=効能の証明ではない。魔素反応と薬効は別。見た目に惑わされない。書きながら、自分の治癒魔法についても考えずにはいられなかった。私の手から溢れる光も、傍から見れば奇跡のように見えるのだろう。路地裏の男が回復したとき、周囲の人々は聖女だ、奇跡だと騒いだ。けれど、光ったから完全に治ったわけではない。少年の黒死の病には効かなかった。つまり、私の魔法の光も現象としては強烈だけれど、治療効果の説明そのものではない。何に効いて、何に効かず、どれくらいの負荷があり、どんな条件で再現するのかを知らなければ、私はただ光るだけの危うい存在になってしまう。


そのことをミラに相談すると、彼女は手を止め、私の手のひらをじっと見た。


「治癒魔法が使えるなら、術式か祈祷文か、師匠筋があるのが普通だ。あんたは?」


「……分かりません。最初に使ったときは、助けたいと思って手をかざしたら光りました。言葉は、たぶん勢いで言っただけです」


「勢いで治癒魔法を出す子を、普通とは言わないね」


「自覚はあります」


ミラは私の手首に指を当て、脈を見るような仕草をした。魔法的な感知なのか、普通に脈を見ているのか分からなかったけれど、彼女の指先は意外なほど温かかった。


「魔力の流れはあるみたいだね。むしろ強い方だ。けれど、整えられていない。泉から水が噴き出しているのに、水路が掘られていない感じだね。うまく使えば大きな力になるだろうし、間違えれば、自分も相手も壊すかもね」


「怖い言い方ですね」


「怖いものを怖く言って何が悪い。魔法は便利な道具じゃない。体内の水、熱、血、魔素、気力、そういうものをまとめて動かす力だ。薬が川に手を添えるものなら、治癒魔法は川筋を一時的に変える力に近い。崩れた堤防を一気に直すことはできるが、上流から毒が流れ続けているなら、また濁る」


その例えを聞いた瞬間、私は黒死の病の少年をまた思い出した。私は堤防だけを直そうとしていたのかもしれない。体の状態を一瞬戻しても、上流、つまり病の原因や穢れが流れ続けている限り、症状は戻る。そう考えると、あの時に何が起きたのか、少しだけ形が見えた気がした。治癒魔法は万能の消去ではない。体の損傷や乱れを修復する力であり、原因が残る病、特に魔素や穢れのような外部要因が関わる病には、根本的な対処が必要になる。


「ミラさん、魔法薬で“原因”を取り除くことはできますか」


「原因が何か分かればね。毒なら解毒薬。虫なら虫下し。腐った傷なら洗浄と膿出し。魔素の乱れなら整流薬。穢れなら浄化薬。黒死の病みたいに、原因が一つなのか複数なのか分からないものは、どこから手をつけるかで派閥が割れる」


「派閥……」


「神官は祈りで穢れを祓うと言う。治癒師は体を支える。薬草師は熱、咳、下痢、衰弱をそれぞれ抑える。魔導学者は魔素感染を遮断しろと言う。貴族は隔離しろと言う。商人は噂を消せと言う。患者は助けてくれと言う」


その最後の一言で、私はペンを握る手を止めた。患者は助けてくれと言う。制度や派閥や理論がどうであれ、病に苦しむ人の願いはそこにある。私はそれを忘れたくなかった。


そんなふうに薬草と魔法について考える日々の中で、私の生活上の問題が一つ、思わぬ形で表面化した。きっかけは、ルーに寝場所のことを聞かれた夜だった。その日、私は薬草房で棚の整理をしたあと、《錨の歌亭》へ戻り、店の隅でサルヴィア露草茶の煮出し加減を試していた。ミラから渡された葉を少量、水に入れて弱火で温め、香りが立ったところで火から下ろす。煮すぎると苦い。薄すぎると草湯。私は真剣に湯気を嗅ぎ、色を見て、ノートへ「淡い黄緑、香りは青い、苦味弱い、喉に少し膜を作る感じ」と書いていた。


ルーはその様子をしばらく見ていたけれど、ふと何気ない調子で言った。


「そういえば、あんた最近、夜はどこで寝てるんだい」


私は茶を吹きそうになった。


「えっと……その……日によります」


「日による?」


金色の目が細くなる。猫族らしい柔らかさの中に、逃げ道を塞ぐ鋭さが混じっていた。


「天気がいい日は、港の近くの、風が当たりにくい建物の裏とか……雨の日は、できるだけ屋根のあるところを探して……」


言い終わる前に、ルーの尻尾がぴんと立った。


「なんでそんなところで寝てんだい」


声は大きくなかった。店内にはまだ客がいたからだろう。けれど、その低さが逆に怖かった。


「え、いや、宿代が毎日は厳しくて、でも港の仕事も薬草房もまだ安定しているわけじゃないですし、危なそうな場所は避けていますし、完全な野ざらしではないので……」


「そういう問題じゃないよ」


ルーは皿を拭いていた布をカウンターへ置き、私の前に立った。表情は優しいのに、目だけが真剣だった。


「女の子が、身寄りもなく、港の建物裏で寝る。これがどれだけ危ないことか、分かってるつもりで分かってないね」


「……分かってはいます」


「分かってないから続けてるんだよ」


その一言に、私は何も言い返せなくなった。自分でも危ないことは分かっていた。野宿は最終手段で、女性一人でやるべきではない。体を冷やす、病気になる、襲われる、盗まれる、最悪の事態はいくらでも想像できる。けれどお金がない、身分がない、宿に泊まる余裕がないという現実の前で、私は「仕方ない」と自分に言い聞かせていた。仕方ないという言葉は、時々とても危険だ。リスクを見ないふりをするために、いくらでも便利に使えてしまうから。


ルーはしばらく私を見つめたあと、深く息を吐いた。


「二階の奥に、小さな部屋がある。昔、住み込みの子が使ってた部屋だよ。今は物置にしてるけど、片付ければ寝られる」


「え?」


「しばらく使いな」


「でも、そんな、家賃……」


「払えるようになってから考えればいい。今は店の手伝いを少ししてくれれば十分さ。閉店後の皿洗い、朝の床掃き、薬草茶を失敗しない程度に淹れる練習。あんたの勉強にもなるだろう」


「でも、迷惑じゃ」


「迷惑かどうかは、貸す側の私が決めることだよ」


ルーの声は静かだった。私はその言葉で、胸の奥が一気に詰まった。ありがたさと申し訳なさと、安心してしまいそうになる自分への戸惑いが混ざり、うまく言葉が出なかった。


「……ありがとうございます」


やっとそれだけ言うと、ルーはふっと表情を緩めた。


「最初からそう言えばいいんだよ。あんたは頑張ってる。けど、頑張ってる子ほど、助けを借りるのが下手だね」


その夜、私はルーに案内されて《錨の歌亭》の二階へ上がった。階段は少しきしみ、廊下は狭く、奥の部屋の扉はしばらく開けていなかったらしく、取っ手に薄く埃が積もっていた。中へ入ると、部屋は本当に小さかった。窓は一つだけ。ベッドというより細い寝台が壁際にあり、古い毛布、空の木箱、使われなくなった椅子、割れたランタン、干し網が丸められて置かれている。けれど屋根があり、扉が閉まり、窓に布を掛ければ外から見えず、床は石ではなく木で、何より鍵があった。


私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


「狭いだろう」


ルーが言った。


「いえ……すごく、広いです」


実際の広さではなく、安心できる空間として広すぎるほどだった。私は寝台にそっと手を置いた。少し硬い。毛布は古い。部屋には埃と木と潮の匂いがする。けれど、ここで眠れる。誰かに蹴られる心配をせず、雨音に怯えず、夜風で体を冷やさず、ノートを広げたまま眠り落ちても盗まれる可能性が低い場所。そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。


「泣くんじゃないよ。掃除が先だ」


「……泣いてません」


「声が泣いてる」


ルーはそう言って笑い、箒と布を渡してくれた。私は夜遅くまで部屋を掃除した。木箱を端へ寄せ、埃を払い、窓を拭き、毛布を振り、使えそうな棚を一つだけ残し、ノートとインク壺とミラからもらった薬草包みをその上に置いた。部屋らしくなった、というにはまだ粗末だったけれど、私にとっては十分すぎた。


それからの日常は、さらに少しだけ整った。朝は二階の小部屋で目を覚まし、窓を開けると海の匂いが入ってくる。港へ行く日は急いで身支度をして潮待ち広場へ向かい、マレクの船で魚を仕分け、船員の手当てをし、帰港後に報酬を受け取る。薬草房へ行く日はミラの棚を拭き、薬草の名前を覚え、魔法薬の基礎を学び、帰りに市場で値段を観察する。夜は《錨の歌亭》で皿洗いを手伝い、ルーが淹れたお茶と自分の淹れたお茶の味を比べ、ノートへ書く。眠る前に小部屋へ戻り、銅リーナを数え、収支を記録し、翌日の予定を書く。


収入はまだ細い。生活はまだ不安定。けれど、私はもう石畳の上で丸まって眠るだけの異邦人ではなかった。海のそばに朝の行き先があり、夜に戻る部屋があり、教えてくれる人がいて、記録するためのノートがある。少しずつ、ほんの少しずつ、知識が積もっていく。サルヴィア露草の煮出し時間。赤熱根の過量症状。銀糸蔓の値段。魔法薬と治癒魔法の違い。港で働く人たちの手荒れ。船員の腰痛。黒死の病の噂。ロストンの制度。人の善意の受け取り方。


ある夜、窓の外に灯台イルミナスの白銀の光が見えた。遠くで船の鐘が鳴り、海風が窓布を揺らし、下の酒場からルーの笑い声がかすかに上がってくる。私は小さな机代わりの木箱にノートを広げ、今日の最後の行にこう書いた。


「生活が少し安定すると、学ぶ余裕が生まれる。医療は知識だけではなく、寝る場所、食べるもの、支えてくれる人によって成り立つ」


書き終えて、私はペンを置いた。自分がいつか誰かを本当に救えるのかは、まだ分からない。黒死の病を治せる日が来るのかも分からない。けれど、少なくとも今の私は、昨日より一つ薬草を覚え、一つ魔法について考え、一つ安全な眠りを得た。


それは小さな進歩だった。あまりにも小さく、世界を変えるには足りない進歩だった。それでも、命を救う道はきっと、こういう小さな積み重ねの先にしかないのだと思う。私は毛布にくるまり、潮の匂いに包まれながら、久しぶりに心から安心して目を閉じた。


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