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第22話 街角の薬草師


挿絵(By みてみん)




《錨の歌亭》の裏口から外へ出たとき、ロストンの朝はまだ完全には目覚めきっていなかった。港の方角からは、いつものように縄を引く掛け声や木箱を積み下ろす音が低く響いていたけれど、商業地区へ続く通りにはまだ露店の布屋根も開ききっておらず、石畳には夜の湿気が薄く残り、青い屋根の家々の窓辺には朝食の煙が白く立ちのぼっている。私は胸の前で粗末なノートを抱え直し、服の内側にしまった銅リーナの残りを一度だけ指先で確かめてから、ルーに教えられた道順を頭の中で繰り返した。港から北へ三本目の坂道を上がり、魚市場の臭いが薄れて香草と染料の匂いが強くなったところで右へ曲がり、古い井戸のある小広場を抜け、看板に緑色の蛇とすり鉢が描かれた店を探す。そこが、ルーの知り合いの薬草師の仕事場だという。マレクに「本格的に医療に従事してはどうだ」と言われた翌朝から、私はずっと落ち着かなかった。船に乗って魚を仕分け、船員たちの傷を洗い、ノートに記録をつける生活は確かに私を支えてくれていたけれど、黒死の病を前にして何もできなかった事実は、毎晩眠る前に胸の奥で静かに疼き続けていたし、この世界の薬草も魔法薬も治療院も知らないまま医者になりたいなどと言うのは、あまりにも危ういことだと分かっていた。だから今日は、漁が休みになったことを幸いに、私はルーの紹介状代わりの小さな木札を握りしめ、初めて「この世界の医療」を学ぶために港から一歩奥へ入ることにしたのだった。


ロストンの街は、港から離れるほど匂いが変わる。魚と潮と油に満ちた港湾地区を抜けると、商業地区の通りには焼きパンの香り、羊毛の埃っぽい匂い、染物屋から漂う酸っぱい液体の匂い、鍛冶場の煤と熱、香辛料を扱う店から漏れる甘く刺激的な香りが順番に混ざり合い、歩くたびに街が別の顔を見せた。ルーが教えてくれた坂道を上がると、建物の造りも少しずつ変わり、港近くの実用一点張りの倉庫や酒場に比べて、こちらは二階建ての工房や小さな商店が多く、窓辺には乾かした草束や色のついた瓶が吊るされ、店先には手書きの値札や注意書きが並んでいる。道端で座り込んでいた老婆が咳をする音に、私は反射的にそちらを見た。咳は乾いていて長引いているようだったけれど、本人は慣れているのか胸を押さえながらも布袋から小さな実を取り出して口に含み、そのままゆっくり立ち上がった。今の私には、声をかけるべきかどうか判断できない。そういう迷いを抱えたまま、私はさらに奥へ進んだ。


古い井戸のある小広場に出ると、目当ての看板はすぐに見つかった。軒先から下がる緑色の木札には、蛇がすり鉢の周囲をぐるりと巻く意匠が彫られ、その下に《ヴァーン薬草房》と書かれている。店構えは想像より小さく、正面には幅の狭い扉と、色ガラスの入った窓が一つだけあり、窓の内側には乾燥させた葉、根、実、花が小瓶や布袋に入れられて整然と並べられていた。扉を開ける前から、鼻の奥をくすぐる匂いが濃い。乾いた草、土、樹皮、酢、蜂蜜、煙、薬酒、少しだけ獣脂のような重い匂い。病院の消毒液とはまったく違うのに、そこには確かに「治すための場所」の気配があった。私は深く息を吸い、扉を軽く叩いてから中へ入った。


店内に足を踏み入れた瞬間、外の朝の音が一枚の厚い布に包まれたように遠のいた。壁一面に棚があり、棚には大小さまざまな瓶と木箱が並び、それぞれに細い文字で名前と採取地、乾燥日らしき記録が書かれている。天井からは薬草の束が逆さに吊られ、乾いた葉が風もないのにかすかに揺れていて、奥の作業台には石製のすり鉢、金属製の小鍋、蒸留器らしき曲がった管を持つ器具、布で濾すための枠、細かい秤、砂時計、さらに小さな魔導灯が置かれていた。いかにもファンタジーの薬屋、という言葉だけでは足りない。ここは商品を並べるだけの店ではなく、薬を作り、測り、煮て、乾かし、記録する仕事場だった。


「扉を閉めな。朝の湿気が入ると、霧苔が寝ぼける」


低く少し掠れた声が、棚の奥から聞こえた。私は慌てて扉を閉め、声の方へ向き直る。作業台の向こうに立っていたのは、背の低い女性だった。年齢はすぐには分からない。灰色がかった栗色の髪を無造作に一つへまとめ、丸眼鏡の奥の目は琥珀色で鋭く、鼻筋には細かいそばかすが散り、袖を肘までまくった腕には薬草の汁や鉱物粉の色が染みついている。耳の形は人間より少し尖っているけれどエルフほど長くはなく、肩幅はしっかりしていて、背丈のわりに手は厚く力強い。彼女は作業台の上で何かの根を刻みながら、私を頭から足先まで一目で測るように見た。


「あんたがルーの言ってた子かい。港の医者見習い」


「医者見習い……と言えるほどではないです。ナナといいます。ルーさんから、こちらで薬草やこの世界の医療について教えていただけるかもしれないと聞いて来ました」


私は木札を差し出した。彼女は刃物を置き、手を布で拭いてから木札を受け取り、そこに刻まれた錨の印を確認すると、鼻で小さく笑った。


「ルーが人を寄越す時は、たいてい面倒か、見込みがあるか、その両方だ。私はミラ・ヴァーン。薬草師で、調合師で、帝国薬学機構にとっては少しばかり目障りな商売人だよ」


「帝国薬学機構……ですか?」


聞き慣れない単語に、私は思わず聞き返していた。帝国、という響きだけでもこの世界の身分制度や権力の匂いがして少し身構えてしまうのに、そこへ薬学機構という現代的にも聞こえる言葉が繋がると、ただの中世風ファンタジーだと思っていた世界の輪郭がまた一段複雑になる。ミラ・ヴァーンは刻んでいた根を小皿に移し、刃物の背でとんとんと作業台を叩いて屑を落とすと、壁際の棚から茶色い瓶を一つ取り出しながら、少し面倒そうに肩をすくめた。


「ラント帝国が薬草、魔法薬、毒物、治療用鉱物なんかをまとめて管理するために作った組織さ。表向きは偽薬を減らして民を守るため、実態は高い薬を貴族と軍へ優先的に流し、薬草師や調合師から手数料を取るための仕組みでもある。薬を扱う仕事には、理想と善意だけじゃなくて、税と許可と利権がついて回るんだよ」


「……どこの世界でも、医療には制度が絡むんですね」


「どこの世界でも、ねぇ」


ミラの琥珀色の目が、丸眼鏡の奥で少しだけ細くなった。私は自分の言葉が少し不用意だったことに気づき、慌てて視線をノートへ落とした。日本でも医療は保険制度、資格、病院経営、薬価、行政指導、倫理審査、ありとあらゆる制度の中で動いていたし、医学部にいた頃はそれを当たり前の背景として学んでいた。命を救う行為はきれいごとだけでは成り立たない。お金、制度、物資、人員、教育、権力、それらが整って初めて誰かの治療が可能になる。ロストンへ来てから何度も思い知らされたその現実を、私は改めてノートの端に「医療=知識+技術+制度+物流」と書き込んだ。


ミラはその手元をちらりと見て、ふん、と鼻を鳴らした。


「記録を取る癖があるのは悪くない。薬草師ってのは、草を摘んで鍋で煮るだけの仕事だと思われがちだけど、実際にはいつ、どこで、どの天候で、どの部分を採り、どう乾かし、どの基剤に溶かし、誰にどれだけ飲ませたかを覚えていないと人を助けるどころか逆に危ない目に遭わせてしまうこともある。昨日効いた薬が今日も同じように効くとは限らないし、春の新芽と秋の根では力が違うし、魔素を吸いすぎた葉は効き目が強い分だけ毒にもなる」


「薬草にも、成分量の揺れがある……」


「成分量という言い方は面白いね。うちでは“薬力”とか“含有魔素”と言う。あんた、ルーが言っていた通り、妙な言葉を使う子だ」


ミラは皮肉っぽく言いながらも、追及はしなかった。たぶんルーから、私が少し変わった事情を抱えていることくらいは聞かされているのだろう。彼女は作業台の片側を手で払って空け、「立ったままだと落ち着かない。そこに座りな」と木の丸椅子を顎で示した。私は礼を言って腰を下ろし、ノートを膝ではなく作業台の端へ置く。インク壺を出そうとしたところで、ミラが「こぼしたら霧苔が台無しになるから、この砂皿の中でやりな」と陶器の皿を差し出してくれた。その動作はぶっきらぼうなのに、危険物の近くで初心者が失敗しないよう先に環境を整える、まさに現場の人間の配慮だった。


「まず、あんたが知りたいのは何だい。薬草の名前を百個並べてもいいし、魔法薬の歴史を語ってもいいし、帝国薬学機構の悪口なら三日は続けられる」


「最初に知りたいのは、この世界で“薬”がどういうものとして扱われているかです。治癒魔法と薬草と魔法薬の違い、誰が使えて、誰が買えて、どこまで効くのか……そこが分からないと、自分の知っている医学と繋げられない気がするので」


言いながら、私はあの少年に魔法を使ったときのことを思い出していた。咳が止まり、顔色が戻ったあのとき、自分が何か特別な力を得たのだと舞い上がりかけた。症状は一瞬薄くはなったけれど、すぐに戻ってしまった。治癒魔法は万能に見えて、じつはそうではない。その事実を前に、私は医学生だった頃と同じ無力感を味わったんだ。


ミラは私の顔をしばらく見つめたあと、棚から三つのものを取り出した。一つ目は乾燥した銀緑色の葉を詰めた瓶、二つ目は薄青い苔が入った湿った小箱、三つ目は赤褐色の透明な液体が入った細長い瓶だった。彼女はそれらを作業台へ並べ、指先で順に示す。


「まず、ただの薬草。これは《サルヴィア露草》の葉を乾かしたもの。熱を下げ、喉を潤し、軽い咳を抑える。魔素は少ないから、効き目は穏やかで、量を間違えにくい。次に、魔素を含んだ触媒素材。これは《エリオスの霧苔》。湿った森の北斜面や魔力泉の近くで育つ苔で、薬効そのものより、他の薬草の力を引き出すために使う。最後に、調合済みの魔法薬。これは《温血液》と呼ばれるもので、冷えと疲労を一時的に和らげる。港の連中が冬場によく買う」


「温血液……名前が強いですね」


「名前で売れることもあるからね。実際には、発熱性の根、少量の蜂蜜酒、辛味草、魔素を整える霧苔を弱火で合わせたものだよ。飲むと体が温まるし、疲れた気分も少し楽になる。飲みすぎれば動悸がして眠れなくなるし、心臓の弱い老人には向かない」


私は急いでノートに書きつけた。サルヴィア露草、解熱、鎮咳、咽頭保護。エリオスの霧苔、触媒、魔素増幅または薬効抽出補助。温血液、発熱性、疲労感軽減、過量で動悸、不眠、心疾患に注意。書きながら、私は現代医学の概念で置き換えようとする自分の癖に気づいた。解熱といっても、どの機序で熱が下がるのかは分からない。鎮咳といっても中枢性なのか末梢性なのか、気道分泌が変わるのか、単に喉を潤して刺激を減らすのか不明だ。魔素触媒に至っては、比較できる現代の概念がない。けれど、不明なら不明と書けばいい。分からないものを分かったふりで埋めるのが、一番危ないから。


「薬草は、症状を抑えるものが多いんですか?」


「症状を抑えるもの、体を支えるもの、毒を吐かせるもの、眠らせるもの、血を止めるもの、膿を出すもの、魔力の流れを整えるもの。いろいろある。あんたの言う症状って言葉は便利だね。こっちでは熱、咳、痛み、腫れ、悪寒、呪毒、魔素酔い、気枯れなんかを分けて考える」


「気枯れ?」


「魔法の使いすぎ、魔素の乱れた土地での長期滞在、あるいは大きな怪我のあとに起こる消耗だよ。顔色が灰色になり、体が冷え、眠っても回復しない。治癒魔法で傷だけ塞いでも気枯れが残ると、人はしばらく働けない」


その説明を聞きながら、私は「気枯れ=疲労、低栄養、貧血、精神的消耗、魔素関連状態?」と書いた。複数の概念が混ざっている可能性がある。魔素という未知の要素がある以上、現代医学だけで説明し切るのは危険だ。けれど、顔色、体温、睡眠、回復感、働けるかどうかという観察項目は十分に役に立つ。


「治癒魔法と魔法薬は、どう違うんですか?」


私が尋ねると、ミラは少しだけ口元を歪めた。


「治癒魔法を使える連中は、傷を塞ぎ、骨を繋ぎ、血を止め、痛みを和らげる。上手い術者なら、内臓の損傷だってある程度は戻せる。魔法薬は、体に入れて働かせるものだ。ゆっくり効くものもあれば、急いで効かせるものもある。治癒魔法が針と糸で体を縫い直す力だとしたら、薬は体の中で働く職人を励ましたり、邪魔者を追い出したり、材料を補ったりするものだね」


その比喩は、とても分かりやすかった。治癒魔法は外から強制的に再構築する力。薬は体内の反応や回復を支える力。もちろん、実際にはもっと複雑だろうけれど、私の中で二つの位置づけが少し整理された。


「それなら、感染症……ええと、病の原因が体の中に残っている場合、治癒魔法で一時的に体を戻しても、また悪化することがありますか?」


ミラの手が止まった。彼女は私をじっと見た。


「ある。むしろ、それを知らない治癒師が厄介なんだよ。傷が塞がったから治ったと思って働かせる。中に汚れや毒が残っていれば、あとから腫れる、熱が出る、死ぬ。病も同じで、熱だけ下げても原因が残ればぶり返す。黒死の病みたいなものは、なおさらだ」


黒死の病。その名が出ると、店内の空気がほんの少し重くなった。吊るされた薬草の束が静かに揺れ、窓の外から井戸のそばで水を汲む音が聞こえてくる。


「ミラさんは、黒死の病を診たことがありますか」


「診たことはあるが、治したことはない」


正直な言葉だった。私はペンを握る手に少し力を入れた。


「症状は……黒い斑点、高熱、衰弱、呼吸困難、吐血、臓器不全に近い状態、と聞いています」


「よく調べたね。実際には、みんな同じ経過を辿るわけじゃない。腫れから始まる者、咳から始まる者、黒斑が先に出る者、幻覚を見る者、体が冷える者。魔素に触れた傷口から広がることもあるし、病人の咳を浴びてうつることもあるし、汚染された水場の近くでまとめて倒れることもある。医師も神官も薬草師も、それぞれ別の説明をする。私が確かだと言えるのは、黒死はただの熱病ではないということだけさ」


「魔素感染、接触感染、空気感染……」


「また変な言葉を使う」


「すみません。私の整理用です」


私は慌てて書き足した。黒死の病=複数経路? 症状多様。病態に魔素または穢れが関与。治癒魔法単独では再燃。原因除去が必要? 免疫? 魔素浄化? 世界樹の根との関係は未確認。文字にすればするほど、分からないことが増えていく。けれど、不思議と恐怖だけではなくなっていた。分からないものが増えるということは、調べるべき道筋が増えることでもある。


ミラは私のノートをしばらく見てから、棚の奥から一冊の古びた帳面を取り出した。革表紙は擦り切れ、角は丸くなり、紐で何度も縛り直した跡がある。


「これは、私の師匠が残した調合記録の写しだ。見せるだけだよ。持ち出しは禁止。勝手に写すのも全部は許可しない。けれど、基本の薬草名と毒草名くらいなら書き写していいよ」


「いいんですか?」


「ルーの木札を持って来た子を、手ぶらで返したらあとが怖いからね。それに、あんたは薬を“奇跡”として見ていない。観察して、分けて、記録しようとしている。そういう子には、少しだけ教えてもいい」


胸の奥が熱くなった。私は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。大切に見ます」


「礼はまだ早い。薬草師の仕事は、椅子に座って帳面を読むだけじゃない。今日は店の掃除と乾燥棚の整理を手伝いな。手を動かしながら覚えた方が早いからね」


「はい、やります」


こうして、私の初めての薬草房での勉強は、講義ではなく掃除から始まった。ミラは棚の一段ずつに置かれた瓶を指さし、湿気を嫌うもの、光を嫌うもの、虫がつきやすいもの、魔素を吸いすぎると瓶の内側が曇るもの、乾燥しすぎると粉になって使えないものを次々に説明していった。私は布で棚を拭き、瓶のラベルを読み、古いものと新しいものの匂いを嗅ぎ比べ、触っていいものと触ってはいけないものを何度も確認した。毒草の棚には赤い紐が巻かれ、眠り薬に使う種子の瓶には黒い印があり、出血を止める粉には乾燥剤代わりの白い石が入っていた。


「これは《クリモナ草》。貴族向けの高級品として有名だけど、使い方を間違えるとただの高い草だよ。葉は傷薬、花は鎮静、根は魔力回復に使う。全部一緒に煮る素人がいるけど、そんなことをしたら香りが死ぬし、効き目も濁る」


「部位ごとに薬効が違う……」


「まずは《苦ヨモギ》だね。胃の働きを助ける薬草さ。食欲不振や腹の重さに効くし、虫下しにも使われる。ただし妊婦には禁物だから気をつけなきゃならないよ。


《銀糸蔓》は傷薬の材料だ。包帯に混ぜ込むと傷口が腐るのを遅らせてくれる。ただ、そのぶん値は張るねぇ。


それから《赤熱根》。体を温める薬によく使われるんだけど、入れすぎると動悸がしたり、汗が止まらなくなったりする。扱いには加減がいる代物さ。


こっちの《月眠花》は睡眠薬の原料だね。効き目が強いから、素人が軽い気持ちで触っちゃいけないよ。


これは《泥止め草》。名前の通り下痢止めさ。水の質が悪い地区じゃ需要が多くてね、行商人なんかもよくまとめて買っていくんだよ」


私は必死に書いた。日本で使っていた医学用語と違い、この世界の薬草名は詩的で覚えにくいものが多い。けれど、名前の由来を聞くと少し覚えやすくなる。銀糸蔓は葉脈が銀色に光る。赤熱根は切ると中が赤く、乾かすと熱を持つ。月眠花は夜にだけ開き、香りを嗅ぐと眠くなる。泥止め草は湿地に生え、根が泥を固めるように腸の緩みを止めると考えられている。経験則と観察が、神話や魔法と混ざりながら薬学として積み上がっているのだ。


昼前、薬草房に最初の客が来た。魚市場で働いているらしい中年の女性で、手の甲が赤く荒れ、指の節がひび割れていた。ミラは彼女の手を見て、どの水場で働いているか、魚のぬめりを落とす灰汁をどれくらい使うか、夜に痒みが強いか、膿は出ていないかを手早く尋ねた。私は横で見学しながら、問診だ、と心の中で呟いた。問診、視診、生活背景の確認。ミラは薬草師でありながら、かなり実践的な診療をしている。


「灰汁を薄めな。手を洗ったあと、この軟膏を塗る。朝と夜。魚の汁がしみるなら布を巻く。膿んだらすぐ来な。放っておくと指が動かなくなるよ」


「高いかい?」


「小壺で三リーナ。銀糸蔓は入れてないから安い。その代わり、まめに塗りな」


女性は銅貨を置き、小さな壺を受け取って帰っていった。三リーナ。私の食事一回分に近い。安いとはいえ、貧しい人には重い金額だ。それでも手が動かなくなれば働けなくなる。予防にお金を払うか、悪化して仕事を失うか。医療と生活の距離は、ここでも恐ろしく近い。


「今の軟膏は何ですか」


「獣脂、蜜蝋、少量の鎮炎草、苦み油。ひび割れと炎症を抑える。銀糸蔓を入れるともっと良いけど値段が上がる。港の女たちは毎日使うから、高すぎる薬は続かない」


「続けられる価格も治療の一部……」


「分かってるじゃないか」


ミラはそう言って、ほんの少しだけ笑った。その笑顔は一瞬で消えたけれど、私は少しだけ認められたような気がして、胸の奥が温かくなった。


午後までに、薬草房には何人もの客が来た。咳止めを求める老人、眠れないという商会の若い書記、子どもの腹痛を相談しに来た母親、怪しい魔法薬を買って具合が悪くなったという港の男。ミラはそれぞれに、薬を出すときもあれば、出さずに水と休息を勧めるときもあり、危ない症状だと判断した人には「治療院へ行け」と強く言った。商売である以上、薬を売れば金になるはずなのに、必要ないものは必要ないと言い、薬でどうにもならないものはどうにもならないと言う。その線引きが、私は好きだと思った。


夕方近く、棚の整理と客の見学を終えた私は、手も服も薬草の匂いまみれになっていた。ミラは帳面の基本薬草一覧を数ページだけ写す許可をくれ、私は震える手で丁寧に書き写した。サルヴィア露草、苦ヨモギ、泥止め草、鎮炎草、赤熱根、月眠花、銀糸蔓、フィオナの聖草、エリオスの霧苔。たった数種類でも、私にとっては宝のような知識だった。


「ナナ」


帰り支度をしていると、ミラが声をかけた。


「はい」


「あんた、自分の治癒魔法を過信するな。薬草も同じだ。効いた経験は人を救うけど、効いた記憶に酔うと人を殺す。分からない時は分からないと言え。手に負えない時は手に負えないと言え。医療をやるなら、最初に覚えるのは万能感を捨てることだよ」


その言葉は、私の胸に深く刺さった。黒死の病の少年を救えなかった記憶が、静かに疼く。私はゆっくり頷いた。


「……はい。覚えておきます」


「覚えるだけじゃ足りない。毎回、自分に言い聞かせな」


ミラはぶっきらぼうにそう言い、棚から小さな紙包みを投げて寄越した。中にはサルヴィア露草の乾いた葉が少しだけ入っている。


「咳止め茶の練習用。煮すぎると苦くなる。薄すぎるとただの草湯だ。ルーの店で試しな。自分で飲んで、味と匂いを覚えること」


「ありがとうございます」


「礼は、ちゃんと覚えてから言いな」


私は紙包みを大事にノートの間へ挟み、深く頭を下げて《ヴァーン薬草房》を出た。外の空気は朝より暖かく、古い井戸の広場には西日が差していた。ロストンの街は相変わらず騒がしく、港の方からは荷車の音と船乗りたちの声が聞こえ、商業地区の通りには香辛料と焼きパンの匂いが漂っている。私は胸にノートを抱え、手に残った薬草の香りを嗅ぎながら、ゆっくり歩き出した。


この世界の医療は、私が思っていたよりずっと豊かで、ずっと危うく、ずっと生活に近かった。魔法があり、薬草があり、神への祈りがあり、制度があり、金があり、偽物があり、経験則があり、そして救えないものがある。私はまだ、その入口に立っただけだ。けれど入口がどこにあるのか分かっただけでも、昨日の私よりは少し前へ進んだのだと思う。


《錨の歌亭》へ戻ったら、まずルーに礼を言おう。それから、サルヴィア露草を煮てみる。苦すぎたら失敗。薄すぎても失敗。味と匂いを覚える。ノートに書く。明日は船に乗る。船員の傷を見る。ミラの言葉を思い出す。分からない時は、分からないと言う。


ロストンの坂道を下りながら、私は小さく息を吐いた。医者になる道は、まだ遠い。それでも、遠い道の最初の石を、今日は確かに踏んだ気がした。


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