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落ちこぼれ医学生、転生先で個人診療所を開設する  作者: 平木明日香
第一章 目覚めたら異世界だったんだが!?
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第21話 雨上がりの向こうに



ロストンでの生活に少しずつ体が馴染み始めた、と自分で思えるようになったのは、朝の潮の匂いで目を覚ますことに違和感を覚えなくなり、共同水場で顔を洗うときに冷たい水へ声を上げなくなり、《錨の歌亭》のルーが出してくれる黒パンの固さを「今日はまだ柔らかい方」と判断できるようになって、潮待ち広場へ向かう石畳のどこが滑りやすいかを足裏の感覚だけで避けられるようになった頃だった。もちろんそれはこの世界で安全に暮らせているという意味ではなく、身分証は相変わらずないし、手元の銅リーナは少し油断すれば一晩の寝床代と食事代で消え、黒死の病の噂は市場の端や酒場の低い声の中で消えずにくすぶり続けていて、私が異世界人であるという根本的な問題は何ひとつ解決していないままだった。それでも毎朝行く場所があって、名前を呼んでくれる人がいて、船に乗れば自分の立つ位置がある。夜になればその日に稼いだ硬貨を数えながら明日の予定を考えられるというだけで、私はロストンという街の片隅にほんの薄い線で自分の輪郭を描き始めていた。


そんな日々の中で、私は何度も日本にいた頃のことを思い出すようになった。最初の頃は思い出すと胸の奥が苦しくなるので、できるだけ考えないようにしていた。母さんの作ってくれた朝食、大学の講義棟、消毒液の匂い、白衣の袖口、解剖実習室の冷たい空気、試験前に徹夜で引いた赤線、講義中に居眠りしてしまったときの教授の呆れた顔、病院実習で患者さんに声をかけられず立ち尽くした自分、そんな記憶はどれも、戻れない場所の断片として胸の中に刺さっていたからだ。けれど港で働き、魚の棘で傷を作った船員の手を洗い、擦りむいた膝に清潔な布を巻く。咳をする荷運び人へ水を飲ませて少し休むように言い、ルーから薬草茶の種類を聞き、マレクから海風で悪化する古傷の話を聞くうちに、私は少しずつ過去をただ懐かしむのではなく、今ここで使えるものとして取り出す必要があるのだと思うようになっていった。


日本の医学部で学んだことは、決して無駄ではなかった。私は医者ではなかったし、臨床の現場で堂々と判断できるほどの経験もなく、試験の点数に追われて覚えた知識はところどころ穴だらけで、薬の名前も用量も細かいところは曖昧だったけれど、それでも人体の構造、炎症の仕組み、感染の危険、脱水の兆候、外傷の初期対応、休息と栄養の重要性、清潔と不潔の違い、呼吸の異常を視る目、意識状態を確認する習慣、そういったものは確かに私の中へ残っていた。異世界に放り出され、羽ペンも聴診器も白衣もない状態になって初めて、それらが“肩書き”ではなく“手元に残った道具”なのだと気づいた。だから、私は勉強し直すことにした。前の世界の知識をそのまま振りかざすのではなく、この世界の病、薬草、治癒魔法、魔素、信仰、治療院、貧困層の実態、港の労働環境、そういうものを一つずつ書き留め、並べ、比べ、理解していくための場所が必要だった。


なけなしのお金でノートとペンを買った日のことは、たぶんずっと忘れないと思う。その日、漁の入りは悪くなく、シルバーフィッシュの箱がいくつも市場へ運ばれ、私は補助の報酬として銅リーナをいつもより多く受け取っていた。普通なら、その日のうちに温かい食事を少し豪華にするか、安い寝床を確保するか、予備の布を買うかを考えるところなのに、私は商業地区の端にある小さな文具屋の前で足を止め、窓辺に並んだ粗い紙束と、簡素な木軸のペンと、黒っぽいインク壺を見つめたまま動けなくなった。店先には、職人の帳簿用、商会の記録用、子どもの読み書き練習用らしい紙が並んでいて、そのどれもが日本で使っていたノートに比べれば分厚く、ざらつき、端も不揃いだった。それなのに私にはそれがまるで宝物のように見えた。


「それ、安いやつだよ。紙質は良くないけど、練習用なら十分だとは思う」


店番をしていた少女が、私があまりにも真剣な顔で紙束を見ていたせいか、少し警戒しながらそう教えてくれた。私は手持ちの硬貨を頭の中で何度も数え、黒パン何個分、豆の煮込み何杯分、安い共同部屋一晩分、そういう具体的な生活費へ置き換えながら悩んだ末、一番薄くて安い紙束と、先が少し曲がった値引き品のペンと、量の少ないインクを買った。支払った銅リーナが手元から消えた瞬間、胃の奥が少し冷えたけれど、店を出て紙束を胸に抱えたとき、私は久しぶりに学生だった頃の感覚を思い出していた。新しいノートを買った日、まだ何も書かれていない白いページを開く前の、少し怖くて、少し嬉しい気持ち。これから自分が何かを学び直せるかもしれないという頼りない希望、そういったものをだ。


その夜、《錨の歌亭》のカウンターの端を借りて、私は買ったばかりの紙束の一枚目にゆっくりとペンを置いた。インクは思ったより滲みやすく紙はざらついていて、字は日本で書いていたものよりずっと不格好になったけれど、最初の行に「ロストン医療記録」と書いたとき、胸の奥に小さな灯りが点いたような気がした。隣で皿を拭いていたルーが覗き込み、「ずいぶん真面目な題名だねぇ」と笑ったので、私は少しだけ照れながら「真面目にやらないと、また何もできないまま終わる気がするので」と答えた。ルーはその言葉に何も茶化さず、湯気の立つ薬草茶を私の横へ置き、「じゃあ、まずこのお茶の材料から書くといいよ。疲れた船乗りがよく頼むやつさ」と言った。


その日から、私のノートには少しずつ、この世界の医療についての断片が増えていった。薬草茶に使われる苦味の強い葉は軽い眠気と鎮静をもたらすらしいこと、港でよく見る擦過傷は海水と魚の汚れで化膿しやすいこと、船員の手荒れには油脂を混ぜた軟膏が使われること、エリオスの霧苔は魔法薬の触媒として高価で、貧しい者にはまず手が出ないこと、熱が出た人には教会で祈祷を受ける人と薬草師に行く人と寝て治す人がいること、治癒魔法は傷を塞ぐことに強い一方で、原因が残る病には効きが悪い場合があると噂されていること、黒死の病に関しては「治癒魔法が効かない」「神罰」「カオスの穢れ」「世界樹の根の病」など、互いに矛盾する言説が流れていること。私はそれらを、事実、噂、未確認、観察、仮説に分けて書こうとした。医学部でレポートを書いていた頃の癖で、根拠のないものは根拠がないと書き、誰から聞いたかを記し、自分で見た症状と人から聞いた伝聞を混ぜないように注意した。


マレクの船に乗るようになってからは、ノートの中身はさらに増えた。船の上では、怪我は日常の一部だった。網に擦れて皮膚が剥ける、魚の棘が刺さる、樽を持ち上げ損ねて腰を痛める、濡れた甲板で滑って膝を打つ、冷たい風で古傷が疼く、長時間の作業で手首が腫れる。どれも命に関わる大怪我ではない場合が多いけれど、放置すれば働けなくなり、働けなくなれば収入を失い、収入を失えば治療を受ける金も食べるものも失う。私は最初、あくまで「応急処置の手伝い」として控えめに動いていた。けれどトーマの傷が腫れずに済み、リオが魚の棘を刺したときに無理に引き抜かず周囲を洗ってから抜いたおかげで痛みが長引かず、バルドが樽を持ち上げたあと腰を押さえていたときに無理を止めて温める時間を作らせたことで翌日も動けるようになったあたりから、船員たちの私を見る目が少しずつ変わっていった。


「ナナ、これ、放っといていいやつか?」


トーマが指の小さな切り傷を見せに来る。私は魚の仕分け途中で手を止め、傷の深さ、汚れ、出血の量を確認し、水で洗えるか、布が清潔かを尋ねてくる。


「これは浅いです。洗って布を巻けば大丈夫ですけど、今日は網の泥が入りやすいので、作業後にもう一度見せてください」


「へいへい、医者見習い殿」


「からかわないでください。化膿したら本当に困るんですから」


そう言うと、トーマは笑いながらも素直に手を差し出す。リオは最初こそ「大げさだなぁ」と言っていたものの、私が棘を抜いたあとに赤みの広がりを見るよう伝えると、翌日には「これ昨日より赤くない?」と自分から聞きに来るようになった。バルドは無口なままだけれど、重い樽を運ぶ前に手首へ布を巻くようになり、オルドは道具箱の隅に「ナナ用」と言って比較的清潔な布を分けて置いてくれた。マレクは相変わらず余計なことを言わないけれど、船員が怪我をすると「ナナ、見ろ」と短く呼ぶようになった。


ある雨上がりの朝、リオが甲板で滑り、腕を強く打ったことがあった。骨折ではないと思ったけれど、腫れ方が早く、本人も痛みで顔を歪めていたので、私はすぐに腕を心臓より高めにして休ませ、冷たい布で冷やし、指先の感覚と動きを何度も確認した。リオは「大げさだって」と笑おうとしたけれど、指を動かすたびに痛みが走るらしく、尻尾が落ち着きなく揺れていた。


「骨が折れている可能性は低いと思いますけど、腫れが強いので今日は力仕事しないでください。動かせるから大丈夫、じゃないです。腫れている間に無理をすると治りが遅くなります」


「でも人手が」


「人手が足りないからって、明日以降もっと働けなくなったら意味がないです」


私が強めに言うと、リオは目を丸くし、トーマが横で口笛を吹いた。


「おお、医者見習いが怒った」


「怒ってません。必要なことを言っています」


「それを怒ってるって言うんだよ」


マレクは二人のやり取りを黙って聞いていたけれど、最後に「リオ、今日は道具番に回れ。バルド、足りない分は俺とトーマで持つ」と言った。リオは不満そうにしたものの、マレクに言われれば従うしかない。私は少しだけほっとしながら、リオの腕を固定する布を結び直した。そのとき、リオが小さな声で「……ありがと」と呟いたので、私は思わず手を止めた。


「どういたしまして」


そう返すだけで精一杯だった。医学生だった頃、患者さんから感謝される場面なんて、ほとんど経験したことがない。私はいつも後ろに立って見学し、指導医の説明を聞き、患者さんの前では緊張して言葉が詰まり、できることの少なさに落ち込んでいた。ここでしているのは、本格的な医療とは呼べない小さな処置ばかりだ。それでも誰かの痛みを少し減らせたという実感は、講義室の机の上で覚えた知識とは違う重さを持っていた。


船員たちは、私がただの放浪者ではないことに少しずつ気づいていった。最初はルーの紹介で来た細っこいよそ者、身分も素性も曖昧な女、力仕事には向かなそうな補助、そんな扱いだったはずだ。今もそれが完全に消えたわけではない。けれど、私が怪我の状態を見て、無理を止め、洗浄を優先し、布を煮沸した方がいいと主張し、発熱や赤みの広がりを気にし、食べ物が足りていない人の顔色を見て「今日は先に何か食べてください」と言うたびに、彼らは少しずつ私を“医者見習い”として扱うようになった。からかい半分の呼び名だったそれは、いつの間にか役割に近いものへ変わっていた。


私自身も、その変化に戸惑っていた。私は医者ではない。まだ学生だった。いや、この世界では大学に戻ることさえできないのだから、医学生と名乗る資格があるのかどうかも分からない。ノートに書きつける知識は断片的で、治癒魔法については発動条件すら曖昧で、黒死の病には無力だった。それなのに、船員たちは私に傷を見せ、ルーは薬草の話をしてくれ、港の常連の中には「ナナ、ちょっと見てくれないか」と軽い火傷や打撲を相談してくる人まで現れ始めた。ありがたいし、嬉しい。だけどどこか不安というか、怖い。三つの感情が同時に胸の中で膨らみ、私は夜になるたびノートへ「できること」と「できないこと」を書き分け、自分が調子に乗らないよう何度も言い聞かせた。


そんなある日、漁は早めに終わり、港へ戻る前の《シーグリット号》は穏やかな海の上でゆっくり帆を調整していた。空は薄く曇り、風は冷たすぎず、魚箱はほどほどに満ち、船員たちは疲れながらも悪くない表情をしていた。私は甲板の隅で、オルドから分けてもらった古い布を細長く裂き、簡易の包帯として使いやすいよう巻き直していた。少し離れたところでは、リオがまだ痛みの残る腕を庇いながらロープをまとめ、トーマがそれを見て「ほら、医者見習いに怒られるぞ」と笑っている。私は顔を上げて「本当に怒りますよ」と言い、船員たちが小さく笑った。


その様子を、マレクが舵のそばから見ていた。彼はしばらく何も言わず、私が布を巻き終え、ノートを取り出して今日気づいたことを書きつけ始めるまで待ってから、低い声で私を呼んだ。


「ナナ」


「はい」


「お前、何を書いてる」


「今日の怪我のこととか、使った布のこととか、薬草茶のこととか……あと、腫れの経過を見た人の記録です」


「毎日か」


「できるだけ。忘れると困るので」


「誰に見せるんだ」


その問いに、私は一瞬言葉を詰まらせた。誰に見せるためでもない。少なくとも今は、自分のためだった。自分が何を見たのか、何を判断したのか、何が分からないのかを残すため。いつか誰かに説明する必要があるかもしれないし、同じ症状を見たときに比べるためでもある。私はそう話すと、マレクは腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。


「それほどの腕と根気があるなら、こんな船に乗ってねぇで、本格的に医療に従事したらどうだ」


言われた言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。


「……え?」


「魚の仕分けや甲板掃除が悪いと言ってるんじゃねぇ。ここで働く分には助かってる。リオの腕も、トーマの指も、お前がいたから悪くならずに済んだ。船の連中もお前を頼りにし始めてる。だからこそ思う。お前がやりたいことは、船の補助じゃねぇんじゃないのか」


私は布を巻いていた手を止め、マレクを見た。彼はからかっている顔ではなかった。いつものように口調は硬く、優しく聞こえる言い方ではないのに、その目はまっすぐで、逃げ場を与えない真剣さを持っていた。


「医療に従事するって……どうやってですか。私は身分もないし、資格もないし、この世界の医療制度もまだ分かってません。治療院に雇ってもらえるとは思えないし、教会や貴族の医師に近づくのも怖いです。薬草の名前だってまだ半分も覚えてないです」


「だから船にいるのか」


「……生活のためでもあります」


「それは分かる」


マレクは短く頷いた。


「食わなきゃ考えることもできねぇ。寝る場所がなきゃ勉強も続かねぇ。お前がここで金を稼ぐのは間違ってない。けどな、金を稼ぐためだけなら、他にも仕事はある。お前は船に乗ってる間も、魚より人の傷を見てる。港に戻れば、報酬より薬草の値段を聞いてる。夜は飯を食いながら字を書いてる。そういう奴が、ずっと補助のままでいいのかって話だ」


その言葉は、胸の奥をまっすぐ突いた。私は困惑した。嬉しいような、怖いような、逃げたいような気持ちが一度に湧き上がり、何と答えればいいのか分からなかった。医療に従事したい。それは本当だ。人を助けたい。これも本当だ。黒死の病を知りたい。治せなかった少年のことを忘れたくない。これも本当。けれど、本格的に医療へ向かうということは、今のように船の片隅で小さな傷を洗うだけでは済まない。責任が重くなる。判断を求められる。救えない命にまた向き合う。失敗すれば、また誰かが死ぬかもしれない。


「怖いです」


気づくと、私はそう言っていた。


「前の世界でも、私は医者を目指していたのに、現場で何もできない自分が怖かった。ここでも、黒死の病の少年を救えませんでした。治癒魔法が使えたのに、何もできなかった。だから、ちゃんと学びたいと思っています。でも、学ぶ前に誰かを診るのが怖いです。自分の中途半端な知識で、誰かを傷つけるのが怖いです」


マレクは黙って聞いていた。海風が甲板を抜け、私の買ったばかりの紙束の端を揺らす。遠くでトーマたちの話し声が聞こえるのに、その場だけは妙に静かだった。


「怖いのは悪いことじゃねぇ」


マレクはやがてそう言った。


「怖くねぇ奴は危ねぇ。海も病も同じだろ。自分は大丈夫、自分なら何とかできる、そう思った奴から沈む」


「……でも」


「お前に今すぐ治療院を開けと言ってるわけじゃない。まずは、港の薬草師や治療院を見て回れ。ルーに頼めば、話くらい通せる相手がいるだろう。漁業組合にも、船員の怪我を診る治癒師が月に何度か来る。そいつの手伝いをさせてもらえるかもしれねぇ。船に乗り続けるか、医療の方へ足を向けるか、決めるのはお前だ」


「……マレクさんは、私に船を辞めろって言ってるんですか」


「違う。ここにいるのが楽だからって、本当の目的から目を逸らすなと言ってる」


その言葉に、私は何も言えなくなった。楽、というほど船の仕事は楽ではない。朝は早いし、体は痛いし、海は怖いし、報酬も多くはない。それでも、ここには日々の流れがあり、私にできる小さな役割があり、仲間のように接してくれる人たちがいる。失敗しても、まだ補助だからと言い訳できる距離がある。医療へ本格的に踏み出すことは、その距離を失うことなのかもしれなかった。


港へ戻るまで、私はずっと考えていた。魚箱を運び、報酬を受け取り、錨の歌亭へ行き、ルーが出してくれた豆の煮込みを前にしても、マレクの言葉が頭から離れなかった。本格的に医療に従事する。治療院。薬草師。漁業組合の治癒師。見学。手伝い。勉強。怖い。やりたい。怖い。逃げたい。進みたい。気持ちはぐるぐる回り、スプーンを握る手が止まっていることに気づいたルーが、「今日は魚より難しいものを飲み込もうとしてる顔だね」と言った。


私は苦笑し、マレクに言われたことを話した。ルーは最後まで黙って聞き、鍋の火を弱めてから、ゆっくり言った。


「マレクらしいね。突き放してるようで、ちゃんと見てる」


「私、まだそんな段階じゃない気がします」


「段階なんて、自分で思うより早く来ることもあるよ。もちろん、焦って飛び込む必要はない。けれど、怖いから船に隠れるなら、いつか自分で自分を嫌いになる」


「……ルーさんまで、厳しい」


「優しくするなら、ご飯をよそるときにするさ。道の話は、甘くしすぎると転ぶからね」


私は器の中を見つめた。豆の煮込みは温かく、香草の匂いがする。ここへ来てから、私は何度この味に救われただろう。けれどこの温かさに甘えて立ち止まることと、この温かさを支えに歩き出すことは違う。


「明日、漁のあとに、薬草師の店を一つ紹介してもらえますか」


私が小さく言うと、ルーは嬉しそうに目を細めた。


「もちろん。口は利いてあげる。向こうが受け入れるかは、あんた次第だけどね」


「それでいいです。まず、話を聞いてみたいです」


その夜、私は物置の隅でノートを開き、今日のページの最後にこう書いた。「マレクに、医療へ進むことを提案されたけれど、どうしていいかわからない。でも、こうして逃げているだけでは何も変わらない。明日、薬草師の店についてルーに聞く」。字は少し震えていた。インクは滲み、紙の端は湿気で少し丸まっている。それでもその一行を書いたとき、私は自分の中で何かがほんの少しだけ動いたのを感じた。


医者になる道は、もう日本にいた頃と同じ形では残っていない。大学も、病院も、教授も、試験も、白衣も、何もここにはない。あるのは港町ロストン、黒死の病、魔法、薬草、貧困、船員たちの傷、ルーの酒場、マレクの船、そして私の手元にある粗末なノートとペンだけだ。手元にあるものを見れば見るほど、それらはあまりにも頼りなかった。頼りなかったけれど、ゼロではない。


私はノートを閉じ、胸に抱えた。明日も船には乗って魚も仕分け、甲板も洗う。そのあと薬草師の店へ行こうと思う。怖い感情はまだ胸の奥にあるけれど、これからのことを考えながら、少しだけ前へ進めれば。それが今の私にできる、一番誠実な答えだった。


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