第20話 ロストンという街
ロストンの朝は、いつも海の音から始まるのだと、私は《シーグリット号》に通うようになってから少しずつ理解するようになっていた。まだ空に夜の色が残っている時間、街の多くの窓には灯りがともっておらず、商業地区の大通りさえ眠りの底に沈んでいるように静まり返っているのに、港だけはすでに人の気配を帯び、桟橋を踏む靴音、縄を引く短い掛け声、樽を転がす低い音、遠くで早起きの海鳥が甲高く鳴く声が、薄い霧の中にゆっくり混ざっていた。私はその音を聞きながら、まだ眠気の残る頭を無理やり起こし、肩に掛けた布袋の中に昨日の残りの黒パンが入っていることを何度も確認し、銅リーナを二枚だけ別の布に包んで服の内側へしまい込むと、港へ向かう道を小走りで進んだ。
この数日で分かったことの一つは、ロストンでは「遅れる」という行為が思っていた以上に信用を削るということだった。日本の大学なら、講義開始から数分遅れても後ろの席に滑り込めば何とかなることが多かったし、バイト先でも理由を説明すれば店長が渋い顔をしながら許してくれたこともあったけれど、港の仕事ではそうはいかない。船は潮に合わせて動く。潮は人間の寝坊を待ってくれない。漁船が出る時間に一人足りないということは、その分だけ誰かの手が塞がり、網を入れるタイミングや荷の積み方に影響が出て、結果として全員の稼ぎや安全に関わる。マレクはそれを長々と説明する人ではなかったけれど、初日に「時間を守れ。守れねぇなら来るな」と短く言われたとき、私はその言葉の後ろにある現場の重さをかなり正確に理解した。
潮待ち広場に着くと、そこにはもう何人かの人影があった。トーマは壁にもたれて欠伸をしながら網針を指で弄び、バルドは無言で樽の数を数え、リオは広場の端で尻尾を揺らしながら昨日仕入れたらしい干し果物をかじっていた。オルドはいつも通り、どこから取り出したのか分からない道具箱の中身を確認している。マレクは少し離れた場所で空と海を交互に眺め、風の向きや湿り気を読むように目を細めていた。
「おはようございます」
私が声をかけると、リオが片手を上げ、トーマが「おー、医者見習い、今日も顔色は死んでないな」と言い、バルドがほんのわずかに頷いた。マレクは振り返らずに「遅れてねぇな」とだけ言った。
「はい。今日は、昨日より少し早く出ました」
「いいことだ。港じゃ早く来た奴ほど、仕事の流れを先に見られる」
その言葉を聞きながら、私は《シーグリット号》へ向かう列の最後についた。朝の港は相変わらず美しい。海面はまだ暗い銀色で、灯台イルミナスの光が一定の間隔で霧を切り裂き、青い帆を畳んだ《シーグリット号》は、眠っている動物のように静かに揺れている。初めて見たときは、それだけで胸がぎゅっと縮むほど緊張した船が、今ではほんの少しだけ見知った場所に思えるのだから、人間の慣れというものは不思議だった。
この世界へ来てから、私は「知っている場所」がどれほど人を安心させるのかを何度も思い知っている。最初はロストンのすべてが異質で、石畳も、通りを歩く獣人やエルフも、銅貨の重みも、世界樹やカオスの神話も、何もかもが遠い夢のようだった。今でも本質的には分からないことだらけで、私は相変わらず戸籍も身分証も持たない異邦人にすぎないのに、《錨の歌亭》のカウンターの端、港東側の共同水場、潮待ち広場の柱の影、そして《シーグリット号》の甲板の隅に置かれた水桶の位置だけは、少なくとも昨日より確かなものとして頭と体に刻まれていた。
船が港を離れる頃、東の空が薄い金色に染まり始めた。私は甲板の端で膝を柔らかく使いながら、船体の揺れに体を合わせる。初日は手すりを掴んでいないと怖くて立てなかったのに、今では両手が空いていても、ゆっくり歩くくらいなら何とかなる。もちろん油断すればすぐ転ぶし、トーマのように片足で縄を押さえながら網を捌くような芸当は到底できない。それでも自分の体がこの世界の物理に少しずつ慣れていく感覚は、奇妙で嬉しくて、少しだけ寂しかった。
「今日は沖まで出るんですか?」
私が水桶を固定しながら尋ねると、マレクは舵のそばで海を見たまま答えた。
「湾の外れまでだ。風は悪くねぇし、昨日の潮なら銀魚が寄ってる」
「ロストン・シルバーフィッシュ、ですよね。薬にも使うって聞きました」
「耳が早いな」
「リオが教えてくれました。あと、錨の歌亭のママにも少し」
「ルーは何でも知ってるからな。余計なことまで喋るんだ」
マレクの声には、文句の形をした親しみがあった。ルーとマレクは古い知り合いらしく、詳しい関係は誰も説明してくれないけれど、港の人たちが彼女に一目置いていることはもう十分に分かっている。錨の歌亭はただの酒場ではない。安い食事と酒を出す場所であり、日雇いの情報が集まる場所であり、誰かが倒れかける前に腰を下ろせる場所であり、時には人を仕事へ繋ぐ窓口にもなる。私はあの店で出された黒パンと豆の煮込みの味を思い出し、今朝はまだ食べていない胃が小さく鳴るのを聞こえないふりで誤魔化した。
「腹が鳴ってるぞ」
「……聞こえました?」
「海の上じゃ、いろんな音を聞き分ける」
マレクがそう言うと、トーマが笑いながら干した小魚を一枚投げて寄越した。私は慌てて受け取り、礼を言ってから少しかじった。しょっぱいし、かなり硬い。噛むほどに魚の旨味が出てくるので、空腹の体には涙が出そうなくらいありがたかった。
「ありがとうございます」
「いいって。医者見習いが腹減らして倒れたら、治す奴がいなくなるしな?」
「まだ治すってほどのことはしてません」
「トーマの指、腫れずに済んだろ」
「それは洗っただけです」
「その洗うだけを誰もしねぇから腫れるんだよ」
トーマの言葉は軽かったのに、私の胸には妙に深く入ってきた。日本では傷を洗うことも、清潔な布で覆うことも、赤みや腫れや発熱を感染の兆候として見ることもあまりに当たり前だった。医療者を目指す人間にとっては基礎中の基礎で、そんなことで胸を張る気にはなれない。けれどこの世界では、その「当たり前」が全然共有されていない。怪我をしたら祈るか、薬草を貼るか、痛みを我慢して働くか、金があれば魔法医師に診てもらうか、選択肢はあるようで偏っている。清潔、不潔、感染、炎症、予防、そういう概念が体系として広く根付いているわけではないのだと、港で働く人たちの小さな傷を見るたびに分かるんだ。
「マレクさん」
「あ?」
「この街って、怪我をした人はどこに行くんですか?」
私が尋ねると、マレクは少しだけ眉を動かした。
「金があるなら治療院だ。教会に行く奴もいる。商人ギルドに入ってる連中なら、組合付きの治癒師を呼べることもある」
「金がない人は?」
「自分で何とかする」
その答えは短く、乾いていた。予想していた通りなのに、実際に言葉として聞くと重い。
「薬草師とかは?」
「いる。港にも何人かいるし、エリオスの森から薬草を仕入れる店もある。効くものもあるし、気休めもあるし、偽物も混じる。病が重けりゃ、金がない奴から順に寝込んで、そのまま戻ってこねぇ」
「……黒死の病も、ですか」
その病名を口にしたとき、甲板の空気がほんの少し硬くなった。トーマの手が止まり、リオの耳がぴくりと動き、オルドが道具箱の蓋を閉じる音がやけに大きく聞こえた。マレクはしばらく海を見てから、低い声で言った。
「黒死は別だ。あれは金があっても怖い。貴族は隔離して祈らせるしかねーし、商人は噂を消そうとする。教会は神罰だと言う連中もいる。治療院は受け入れたがらねぇ。それに、港に出たら仕事が止まるんだ」
「港に出たら、ですか」
「船は人と荷を運ぶ。病も運ぶ。ロストンは交易で食ってる街だ。港が止まれば、飯の種が消えるだろ?」
その言葉で、私は昨日まで見てきた裏通りの光景と、朝の市場の活気が一本の線で繋がるのを感じた。疫病は単に体を蝕むだけではない。船を止め、商売を止め、仕事を奪い、食べ物を減らし、体力を落とし、また病を広げる。公衆衛生、経済、労働、差別、全部が絡み合う。医学部の講義で聞いた「社会的決定要因」という言葉が頭の奥に浮かび、私は海の上で魚を仕分ける手を止めそうになった。
「ナナ」
マレクの声に、私は顔を上げる。
「考えるのはいいが、手は止めるなよ?」
「はい」
私は慌てて作業に戻った。考えることと、目の前の仕事をすることは両立しなければならない。医者を目指していた頃にも、患者の背景を考えながら同時にバイタルを取り、症状を見て、必要な処置をするべきだと教わった。現場では思索だけでは足りない。手を動かすことが必要だ。
その日の漁は悪くなかった。網には銀色の魚が多く入り、赤い甲羅を持つ小さな蟹も数匹混じっていた。レッドスケイル・クラブだとリオが教えてくれた。魔力を帯びた甲殻類で、魔法薬の材料になるため、食用より薬材として高く売れるらしい。私はその蟹を慎重に木箱へ移しながら、「魔力を帯びた甲殻類」という言葉の不思議さに、いまだに慣れない自分を感じた。日本で蟹といえば食べ物で、薬といえば有効成分が抽出され、薬理作用があり、用量が決められるものだった。この世界では、薬効の説明に魔素や属性や精霊の相性が混ざってくる。聞けば聞くほど曖昧で、聞けば聞くほど体系化できそうな予感がする。
帰港後、魚は漁業組合の計量所へ運ばれた。私はそこで、ロストンの通貨と制度についてまた一つ学ぶことになった。木製の大きな台に魚箱が載せられ、組合の記録係らしい女性が重さと種類を確認し、紙に数字を書いていく。紙は羊皮紙のようなものではなく、少し粗いけれどちゃんと筆記に向いた植物紙で、彼女は羽ペンに似た道具を使い、鮮やかな手つきで記録を付けていた。
「この記録って、税金のためですか?」
私がリオに小声で尋ねると、彼は「税と分配と信用のため」と答えた。
「漁業組合に入ってる船は、獲れた量を申告して、港税と組合費を払う。残りから船の取り分、船員の取り分、道具の修繕費なんかを引く。ごまかす奴もいるけど、ばれると港で仕事しにくくなる」
「港税……」
「ロストン総督府が取るやつ。商人ギルドも別で手数料を取ることがある。面倒だけど、組合に入ってると揉め事の時に少し守ってもらえる」
「組合って、保険みたいなものもあるんですか?」
「ほけん?」
「ええと、病気や怪我で働けない時に、少し支援してくれる仕組みとか」
リオは少し考え、「昔はもっとあったらしいよ」と言った。
「今も完全にないわけじゃないけど、金が足りないんだってさ。船が沈んだとか、怪我で動けないとか、そういう時に見舞金が出ることもあるけど、全員に十分ってわけじゃない。黒死が絡むと、支援より隔離の話が先に来るから」
私は頷きながら、記録係の手元をじっと見た。魚箱の横に置かれた銅貨と銀貨が、光を受けて鈍く光っている。これまで私の生活は銅リーナ数枚の範囲で回っていたけれど、組合の帳簿では銀リーナが当たり前に動いている。一銀リーナが十リーナ。黒パンと豆の煮込みなら二杯以上、安酒なら数杯、宿屋の相場次第では安い共同部屋に届くかどうかという金額。金貨に至っては、まだ遠い別世界だった。
その夜、《錨の歌亭》で私はルーに頼み、通貨のことを少し教えてもらった。店の閉店前、客が減った時間、彼女はカウンターに銅貨、銀貨、小さな古い金貨を一枚ずつ置き、まるで子どもに数の数え方を教えるように、ゆっくり説明してくれた。
「基本はリーナ。銅リーナが一つで一リーナ、銀リーナは十リーナ、帝国金貨は千リーナって覚えればいいよ。金貨なんて庶民は滅多に触らないから、まずは銅と銀だけ分かれば十分」
「オーラムって聞いたことがあるんですけど」
「おや、そんな言葉まで知ってるのかい。オーラムは国際取引用の共通貨だね。貿易商や銀行、貴族が使うものさ。金のオーラムなんて、店一軒どころか小さな倉庫が動くような金額だよ」
「私には関係なさそうです」
「今はね」
ルーはそう言って笑った。今は、という言葉が少しだけ胸に残る。
「この街で暮らすなら、銅貨を馬鹿にしないこと。一リーナを雑に扱う人間は、銀貨を持っても残らない。宿に泊まるにも、食べるにも、道具を買うにも、顔を繋ぐにも金はいる。金だけじゃ信用は買えないけど、金がなさすぎると信用を積む前に倒れる」
「……すごく現実的ですね」
「港町だからね。祈りより先に、腹と屋根だよ」
その言葉は厳しいのに温かかった。私は自分の布袋から今日の報酬を取り出し、銅リーナを数えた。漁の補助を始めてから少しずつ稼ぎは増えたものの、毎日の食費と最低限の水や布の購入で、手元に残るのはわずかだった。私はカウンターの上で銅貨を並べ、頭の中で計算した。
「黒パンと豆の煮込みが四リーナ、共同水場は基本無料だけど場所によっては一リーナ、安い寝床が……」
「一晩八から十二リーナくらいだね。場所を選ばなければもっと安いけど、女一人には勧めないよ」
「ですよね……」
「まともな共同部屋なら十リーナ前後。個室はその倍以上。長く泊まるなら交渉次第。身分証がいる宿もあるし、いらない代わりに高い宿もある」
「身分証……」
私はその言葉に、無意識に肩を縮めた。ルーはその反応を見逃さず、金色の目を少しだけ細めた。
「港には身分が曖昧な人間も多いよ。完全にないまま生きることもできなくはない。ただ、仕事を増やしたいなら、どこかの組合や店や船に顔を置くことだね。身分証の代わりに、“あの人のところで働いている子”って見られ方ができる」
「マレクさんの船に通っていることも、そういう意味があるんですね」
「そう。マレクは口が悪いけど、港じゃ信用がある。あの船で何日か続いたなら、少なくとも“すぐ逃げる流れ者”ではないと思われる」
私は銅貨を見つめながら、また一つ、この街の制度の輪郭を理解した気がした。ここでは紙の身分証だけでなく、人の記憶と噂と紹介が制度の一部として機能している。誰に紹介されたか。どこで働いているか。誰が「あいつは大丈夫」と言ったか。それは現代日本の戸籍や学生証とはまったく違う不安定な仕組みで、同時に、私のような身分のない人間が入り込む余地でもあった。
翌日、私は漁の合間にマレクへロストンのことを尋ねてみた。沖へ出て網を入れ、魚がかかるまでの少し静かな時間、船は穏やかな波の上をゆっくり進み、空には薄い雲が流れていた。私は道具を洗い終え、濡れた布を絞りながら、舵のそばに立つ彼に声をかけた。
「マレクさんは、ロストンで生まれたんですか?」
「ああ。港の裏で生まれて、港で育って、気づいたら船に乗ってた」
「ずっと漁師を?」
「若い頃は商船にも乗った。カルマーンの港まで行ったこともあるし、北海の入口まで出たこともある。戦争が近くなると航路が面倒になる。今は近海漁が一番性に合ってる」
「ロストンって、やっぱり他の街とは違いますか?」
マレクはその問いに、すぐには答えなかった。彼は水平線を見つめ、片手で舵の感触を確かめながら、少し時間を置いてから言った。
「ロストンは、帝国の街であって帝国だけの街じゃねぇ」
その言葉は、少年の父親から聞いた説明とも重なっていた。
「帝都ルーヴェンの連中は、ここを南の港、税を運ぶ場所、軍需品と香辛料が通る場所くらいに思ってる。貴族はロストンを自分たちの財布だと思ってる。商人ギルドは街を自分たちの船だと思ってる。港で働く俺らからすりゃ、ロストンは飯を食う場所で、風が悪けりゃ牙を剥く場所だ」
「牙……」
「綺麗な街だろ。青い屋根、白い壁、灯台、交易塔、祭りの灯り。旅人はみんなそう言う。けど、裏通りには病人が寝てるし、工業区じゃ煤を吸って咳をしてる子どももいる。商館の上階じゃ銀貨が飛び交って、港の端じゃ銅貨一枚で殴り合う奴もいる。それがロストンだ」
私は手元の布を絞る力を少し強めた。
「それでも、マレクさんはこの街が好きなんですか?」
「好き嫌いで住んでるわけじゃねぇな」
彼は短く笑った。
「ここで生まれた。ここで食ってる。ここに知ってる顔がいる。海に出て戻ってくる場所がここだ。そういうのを、好きって言うのかもしれねぇ」
その言い方が、なぜか私にはとても正直に聞こえた。好きだと大げさに言えるほど単純ではない。嫌いだと捨てられるほど軽くもない。ロストンという街は、マレクにとってきっと、家であり、職場であり、戦場であり、逃げられない生活そのものなのだろう。
「私は……まだ、よく分からないです」
「そりゃそうだ。来たばかりの奴が街を分かった気になったら危ねぇ」
「でも、少しずつ知りたいです。ここで生きるなら、知らないままだと怖いから」
マレクは横目で私を見た。
「怖いと思えるならいい。怖さを忘れた奴から海に落ちるからな」
その言葉を聞いて、私は静かに頷いた。怖さは悪いものではない。恐怖は危険を知らせる生理反応で、判断を慎重にし、生存率を上げる。日本で学んだ体の仕組みが、この世界の海の上で不思議な形で役に立っている。
ロストンでの日常は、少しずつ私の中に積もっていった。朝は潮待ち広場へ行き、マレクの船に乗る。昼は海の上で網を見て、魚を仕分け、怪我人が出れば洗浄や圧迫の手伝いをする。夕方に港へ戻り、報酬を受け取って、錨の歌亭で安い食事を取りながらルーや常連たちの話を聞く。夜は時々、物置の隅や港近くの安全そうな壁際で眠り、天気が悪い日はルーの厚意で店の裏へ避難させてもらう。その繰り返しは、現代日本の大学生活とは比べようもないほど不安定で、体力的にも厳しく、将来の保証などどこにもなかった。それでも、そこには確かな時間の流れがあった。
ある穏やかな日の午後、漁の待ち時間に私は甲板の隅で黒パンをかじりながら、オルドから古いロストンの話を聞いた。昔、港の防波堤は今より低く、嵐のたびに倉庫が浸水したこと。グレイストン川沿いの工房が増えてから、水の色が変わり始めたこと。商人ギルドが強くなる前は、貴族の徴税人が港で好き放題をしていたこと。エリオスの森の薬草は昔より採れにくくなり、魔獣が増えたという噂があること。どれも歴史書に載るような大事件ではないのかもしれない。けれど、街で暮らす人にとっては、そういう小さな変化の積み重ねこそが現実なのだと思った。
「ナナは、これからどうするんだい」
ルーにそう聞かれたのは、その日の夜だった。店内はいつもより静かで、雨が屋根を叩く音が油灯の揺れと重なっている。私はカウンターに頬杖をつき、帳面代わりに貰った紙切れへ、銅貨の出入りを書きつけていた。数字はまだ小さい。稼ぎ、食費、水、布、寝床代、残り。見れば見るほど心許ない。
「まずは、安定した寝床を確保したいです。毎日じゃなくても、安全に寝られる場所が欲しいです」
「うん」
「それから、少しずつ道具を買いたいです。布、針、清潔な水を入れられる容器、できれば煮沸できる小鍋……あとは、薬草の本も読みたいです」
「医者見習いらしくなってきたね」
「まだまだです。この世界の薬も魔法も知らないことだらけなので、医療をするなら勉強し直しです。前の知識だけで何とかしようとしたら、きっと危ないです」
ルーは満足そうに目を細めた。
「それを言えるなら、あんたは大丈夫かもしれないね」
「大丈夫かは分かりません。ただ、黒死の病を見て、魔法だけじゃ足りないって分かったので」
私は少年の黒い斑点を思い出した。回復魔法の光が一瞬だけ症状を薄め、すぐに元へ戻ったあの光景。救えなかった命。自分の無力さ。あれはまだ、胸の奥で静かに痛んでいる。
「医学だけでも足りない。魔法だけでも足りない。街の仕組みや、お金や、信仰や、貧しさや、そういうものも知らないと、本当に人を助けることはできない気がします」
「大きなことを言うねぇ」
「言ってるだけです。今は魚を仕分けてるだけですから」
私が苦笑すると、ルーはやわらかく笑った。
「魚を仕分けながら考える医者も、悪くないんじゃないかい。港の人間は、綺麗な診療所に行く前に倒れることが多いからね」
その言葉が、私の中で小さく灯った。いつか、この街に診療所を持てるだろうか。いや、そこまで大きな夢を見る前に、まずは怪我人に清潔な布を巻けるようになること。熱を出した人に安全な水を飲ませられること。咳をしている人を隔離し、休ませ、悪化を見逃さないこと。そこからだ。遠い未来の大きな理想より、明日の小さな実践が必要なのだと、私はこの街に来てから何度も教えられている。
翌朝、雨上がりのロストンは洗われたように澄んでいた。石畳の隙間には水が光り、屋根の青がいつもより鮮やかに見え、遠くのレイヴァン山脈の稜線が薄い雲の向こうに浮かんでいた。港へ向かう途中、私は共同水場で顔を洗い、冷たい水に手を浸しながら、ほんの少しだけ笑った。ここはまだ見知らぬ世界だ。私はまだ異邦人で、身分もなく、明日がどうなるかも分からない。けれど、今日の予定はある。港へ行く。船に乗る。魚を仕分ける。マレクにロストンのことをまた一つ聞く。ルーに通貨の計算を確認する。夜には紙切れへ収支を書き、今後の生活を考える。
海原の上で過ごす時間は、私にこの世界の広さを教えた。ロストンという街で過ごす時間は、私に生活の重さを教えた。銅リーナの重みは、私に生きるための現実を教えた。人の話を聞き、知らない制度を覚え、文化の違いに戸惑いながら、それでも一日ずつ積み重ねていけば、いつか私はこの世界で、ただ流れ着いた人間ではなく、自分の意思で立っている人間になれるのかもしれない。
潮待ち広場の向こうで、マレクがこちらを見ていた。
「遅いぞ、ナナ」
「すみません。水場が混んでました」
「言い訳が港の人間っぽくなってきたな」
「それは褒めてますか?」
「半分だけな」
私は思わず笑い、少しだけ早足で《シーグリット号》へ向かった。白銀の灯台イルミナスが朝の光の中で淡く輝き、青い帆が風を待つように揺れている。今日も海へ出て、働いて、この世界を少しだけ知っていく。
その穏やかな日常のひと時が、今の私には何よりも確かな救いだった。




