表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
落ちこぼれ医学生、転生先で個人診療所を開設する  作者: 平木明日香
第一章 目覚めたら異世界だったんだが!?
19/26

第19話 海の仕事



マレクはしばらく黙って私を見ていた。夜明けの薄い光がその横顔の皺をゆっくりとなぞり、海風に晒されて硬くなった肌の上を淡い金色に染めていくのを、私は甲板の端で息を詰めるように見つめていた。自分でもずいぶん頼りないことを言ったと思う。船乗りになりたいわけではない、お金も必要、自分が何者か確かめたい、医者を目指していたけれど医者ではない、そんな言葉だけを並べられて信用しろと言われても、普通なら困るはずだ。だから私は、彼が「降りろ」と言っても仕方がないと思っていたし、その言葉を聞いたら聞いたで、また別の道を探すしかないと、胸の奥の震えを押し込めながら覚悟していた。けれど、マレクは私の言葉を笑い飛ばすことも、深く追及することもせず、ただ潮の匂いを含んだ息をひとつ吐いてから、低い声で言った。


「なら、見てろ」


「……見てろ、ですか?」


「ああ。海の仕事ってのはな、格好つけて何かを語るより先に、見て、聞いて、手を出していい時と出しちゃいけねぇ時を覚える仕事だ。自分が何者か分からねぇなら、まず自分がどこで邪魔になって、どこで役に立てるかを覚えろ」


それは慰めの言葉ではなく、優しさだけでくるまれた言葉でもなかった。たぶん、マレクにとってはごく当たり前の現場の理屈なのだろう。船の上では、正体不明の異邦人だろうが、落ちこぼれ医学生だろうが、泣きそうな顔をした女だろうが関係なく、役に立つか、邪魔にならないか、危険を増やさないかという単純で厳しい基準だけが残る。私はその言葉を聞いたとき、不思議なくらい胸の奥が軽くなった。私がどこから来たかを言えなくても、私の過去がどれだけ不確かでも、今ここで覚えるべきことがあるなら、少なくともこの船の上に立っている間だけは次にやることが分かるからだ。


「はい。見ます。聞きます。邪魔にならないようにします」


「それができりゃ、今日は十分だ。トーマ、こいつに道具の置き場を教えろ。リオ、足元の動き方も見せてやれ。転ばれて海に落ちられたら面倒だ」


「へいへい、船長さんは相変わらず口が悪いねえ」


トーマが眠そうな目のまま笑い、リオが尻尾をひょいと持ち上げて私の前に立った。獣人の彼は人間よりもずっと足裏の感覚が鋭いらしく、揺れる甲板の上でもまるで地面を歩いているみたいに軽く動く。私は真似をしようとして一歩踏み出しただけで、足元がほんの少し浮くような感覚に襲われ、慌てて近くの手すりに手を伸ばした。


「まず、膝を固めない。揺れに逆らわない。船が傾いたら、自分の体を棒みたいにするんじゃなくて、水の入った袋みたいに少し遅れてついていく感じ」


「水の入った袋……」


「そうそう。頭で考えすぎると余計に転ぶよ。体の下に板があって、その板が呼吸してるって思えばいい」


板が呼吸している、という表現は、妙にしっくりきた。甲板は確かにただの床ではなかった。港の桟橋と違って船そのものが海の上で小さく上下し、横へ揺れ、時折足裏からかすかな振動を伝えてくる。最初はそのすべてが不安定に感じられてまともに歩くだけでも怖かったのに、リオの動きを見ているうちに揺れを敵として押さえ込もうとするんじゃなく、自分の体を少しだけ合わせてやればいいのだと分かり始めた。何度も足を置き直して膝を柔らかく使い、両腕でバランスを取りながら甲板の端から中央までをゆっくり歩いた。


「……こう、ですか?」


「お、さっきよりマシ。まだ見てて危なっかしいけど」


「それは否定できないです」


自分で言って苦笑すると、トーマが網の束を肩に担ぎながら「まあ、初日で転ばないだけ偉い」と気の抜けた声で言った。彼の言葉に少しだけ安心しかけたところで、船体がぐっと前へ押し出されるように動き、港に繋がれていた縄が外され、ゆっくりと《シーグリット号》がロストンの桟橋を離れていった。


見慣れ始めたはずの港が、少しずつ遠ざかっていく。白い石造りの倉庫、青い屋根の建物、まだ朝靄の残る市場の方角、白銀の灯台イルミナスの光、そのすべてが船の揺れに合わせて視界の中でゆっくり揺れ、私は手すりを握ったまま、言葉を失っていた。わけもわからず一日を過ごして、見知らぬ船の上でどこかに向かおうとしている自分がいる。昨日までの私が見たら、絶対に意味が分からないと叫ぶだろうし、数日前の私に説明したとしても、きっと徹夜明けの幻覚か何かだと思われるに違いない。日本の医学部で、試験範囲とレポートに追われながら講義室の硬い椅子に座っていた私は、まさか自分が異世界の港町で銅貨を稼ぎ、その翌朝に漁船の甲板へ立つことになるなんて想像したこともなかった。


船は港を抜け、湾の外へ出るにつれて揺れ方を変えていった。桟橋近くの穏やかな揺れとは違い、外海に近づくにつれて波は船体の横腹を押し、足元から伝わるリズムも大きくなる。私は最初のうちはなんとか耐えていたものの、朝食らしい朝食も取っていない空っぽの胃が、波の上下に合わせて嫌な自己主張を始めた。


「……う、これは……」


「酔った?」


トーマが網を解きながら、こちらを見ずに言った。


「たぶん……少し……」


「遠くを見ろ。足元ばっか見てると悪化する。あと、吐くなら風下。船の内側にやったらバルドが怒る」


「それは、絶対に避けます……」


私は言われた通り、水平線のあたりへ視線を固定した。医学的に考えれば、乗り物酔いは内耳の前庭感覚と視覚情報のずれによって起こる自律神経症状で、吐き気、冷汗、倦怠感、顔面蒼白などを伴う。そんな講義内容を思い出したところで今この場の吐き気が軽くなるわけではないけれど、原因が分かるだけで少しだけ不安が減った。私は呼吸をゆっくり整え、冷たい潮風を吸い込みながら船の動きと自分の体の揺れが大きくずれないように意識した。


「ナナ、こっち」


リオに呼ばれ、私はふらつきながら甲板の後方へ移動した。彼は水桶と粗い布、それから小さな木箱を指差し、「魚が上がるまでは道具洗い。滑り止めの砂を撒く場所は船長に確認してから。勝手に縄を解かない。赤い印の付いた道具は触らない。刃物は鞘に入ってるやつ以外触らない」と一気に説明してきた。私は必死に頷きながら、頭の中でメモを取るように順番を覚えた。病院実習で初めて手術室に入ったときも、触っていいものと悪いもの、清潔野と不潔野、患者の導線、器具の受け渡し、ひとつひとつのルールが命に繋がっていると教わった。船の上も同じだった。ここには海の清潔野と不潔野がある。そこを間違えれば誰かが転び、網に巻き込まれ、刃物で怪我をし、最悪の場合海へ落ちてしまう。


「……病院みたい」


「え?」


「いえ、なんでもないです」


私は首を振り、水桶に手を入れた。冷たい海水が指先に染み、昨日の清掃で荒れた皮膚がひりつく。布で道具に付いた汚れを落としながら、船員たちの動きを観察した。トーマは網の目を確認しながら、切れかけた部分を迷いなく指摘し、オルドは無言で補修用の道具を渡す。バルドは樽と箱の位置を少しずつ調整し、船体の揺れでも荷が滑らないよう縄で固定していく。リオは甲板の上を素早く動き回り、誰かが声を出すより先に必要なものを持ってくる。マレクは舵のそばから全体を見渡し、風と波と船員の動きを同時に読んでいるようだった。


誰も派手なことはしていない。叫ぶことも、過剰に急ぐこともない。それなのに、全員の動きが繋がって船を動かしている。私はその光景を見て、少しだけ羨ましいと思った。彼らは自分の役割を知っている。今何をするべきか、どこに立つべきか、何を任されているかを体で覚えている。私にはまだそれがない。だからこそ今は見ることから始めるしかないと思った。


しばらくして、網を入れる作業が始まった。私は危険だから近づきすぎるなと言われ、少し離れた場所からその動きを見守った。大きな網が海へ滑り込んでいくとき、濡れた縄の匂いと魚の生臭さが一気に濃くなり、船員たちの顔つきがさっきまでよりも真剣になる。網はただ投げればいいものではなく、潮の流れ、船の速度、風の向きに合わせて入れる位置と角度を変える必要があるらしい。トーマが声をかけ、バルドが重さを受け、リオが余った縄を足元から捌き、マレクが船の進路を微調整する。私は水桶の横で膝を柔らかく保ちながら、揺れる甲板の上でその一連の動きを息を詰めて見つめていた。


網が海に広がり、船が一定の速度で進み始めると、少しだけ時間が緩んだ。私はオルドに呼ばれて、小さな針と糸のようなものを渡された。網の端にできた小さなほつれを直す仕事らしい。針仕事は得意とは言えないけれど、解剖実習の縫合練習を思い出せば、手先を使う細かい作業は嫌いではない。もちろん人の皮膚と漁網はまったく違うものの、糸の通し方、結び目の作り方、力を入れすぎると素材を傷めるところなど、妙に通じるものがあった。


「お前、手つきは悪くねぇな」


オルドが横から覗き込み、ぼそりと言った。


「昔、少し縫う練習をしたことがあって……」


「服か?」


「……ええと、似たようなものです」


人体とは言えなかった。私は曖昧に笑い、網の目を整えた。オルドは深く聞かず、「細かい仕事ができるなら助かる。海の仕事は力だけじゃない」とだけ言って、自分の作業へ戻った。その一言が思った以上に嬉しかった。力仕事では役に立てないかもしれない。船の揺れにもまだ慣れない。海の知識もない。けれど私にもできることがひとつあるなら、ここで完全に邪魔なだけの存在ではなくなる。


昼前、最初の網が引き上げられた。海面から濡れた網が持ち上がるにつれて、中で銀色のものが無数に跳ね、朝日を受けて魚の鱗がきらきらと光った。ロストン・シルバーフィッシュ、とリオが教えてくれた。細長い体をした銀色の魚で、地元では食用だけでなく薬用にも使われることがあるらしい。魚が甲板へ落ちると、跳ねる音と水音と船員たちの声が一気に増え、私は仕分けを手伝うように言われた。大きさ別に箱へ分け、傷んだものを除き、珍しい甲殻類や毒を持つ生物が混ざっていないか確認する。見たことのない魚ばかりで最初は戸惑ったけれど、リオが横で「これはこっち、これは触るな、こいつは棘がある」と教えてくれたおかげで、少しずつ手が動くようになった。


その中で、トーマが指先を小さく切った。網に絡まった貝殻で皮膚を裂いたらしく、出血は少量だったものの、海水と魚の汚れが付着したまま放置するのは明らかに危ない。私は反射的に「見せてください」と言っていた。言ってから、自分がまだこの船で医療者として認められているわけではないことに気づき、慌てて「すみません、癖で」と付け足した。


トーマは少し驚いた顔をしたあと、指を差し出した。


「医者を目指してたんだろ。こういうの、分かるのか?」


「深くはないです。でも、汚れた傷はちゃんと洗わないと化膿します。できれば真水で洗って、清潔な布で押さえて、あまり海水に浸けない方がいいです」


「海の上で真水は貴重だぞ」


マレクの声が飛ぶ。


「分かっています。全部は使いません。ほんの少しだけでいいです。傷の中の汚れを落とせれば」


マレクはしばらく私を見たあと、オルドに顎で合図した。オルドが小さな水筒と布を持ってきてくれる。私は手を洗いたかったけれど、石鹸も消毒薬もない。せめて自分の手についた魚のぬめりを水で落とし、布で拭いてから、トーマの傷口を軽く洗った。傷は浅くて出血は少なく、腱や神経に届くようなものではない。私は圧迫して血を止め、清潔そうな布で巻いた。


「今日はあまり濡らさないでください。赤く腫れたり、熱を持ったり、膿が出たら危ないです」


「へえ……本当に医者っぽい」


「医者じゃないです。まだ」


「じゃあ、医者見習い?」


その言葉に、私は少し迷ってから頷いた。


「……今は、それでお願いします」


トーマが笑い、リオが「船に一人いると便利そう」と軽く言い、バルドが「怪我が減るならいい」と短く呟いた。マレクは何も言わなかったけれど、その目がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


その日の漁は昼過ぎに終わり、夕方前にはロストンへ戻った。港に近づくにつれて、また街の匂いが濃くなる。魚市場の声、船を待つ商人のざわめき、荷車の音、灯台イルミナスの白い光。朝は不安でいっぱいだった景色が、戻ってくる頃には少しだけ違って見えた。私はまだ船員ではないし、漁師でもない。正式に雇われたわけでもない。それでも、朝この船に乗ったときの自分よりはほんの少しだけ足元が確かだった。


揺れる甲板の上で、私はようやく自分の足で立っている感覚を、ほんの少しだけ取り戻した気がした。


それから何日か、私は《シーグリット号》の補助としてロストンの漁業に従事した。初日は船酔いで顔面蒼白になり、二日目は網の結び目を間違えてトーマに笑われ、三日目には魚の仕分けで棘のある小魚に触りかけてリオに尻尾で手を叩かれ、四日目には朝の寒さに震えながらも、船が港を離れる前に水桶と布を用意することだけは忘れなくなった。仕事は決して楽ではなかった。夜明け前に起き、潮待ち広場へ向かい、船に乗り、甲板を洗い、道具を運び、魚を仕分け、戻ってきたら箱を市場へ運ぶ手伝いをし、報酬を受け取る頃には腕も腰も足も重く、指先は塩で荒れ、爪の間には魚の匂いが染みついていた。それでも、日ごとに分かることが増えた。


ロストンの朝は、港から始まる。市場の商人は魚の入り方でその日の値段を決め、宿屋は船員の財布の厚みで夕食の仕込みを変え、錨の歌亭のルーは戻ってきた船の顔ぶれを見ただけで、海が穏やかだったか荒れていたかを察する。漁師たちは天気と潮を読み、商人は噂と金の流れを読み、日雇い労働者たちは掲示板の前で、その日一日を食いつなげるかどうかを読む。私はそんな街の呼吸を、医学書ではなく港の足音と魚の匂いと銅貨の重みから覚えていった。


報酬は決して多くなかったけれど、黒パンと豆の煮込みを食べるには足りたし、日によっては安い焼き魚を一切れ買うこともできた。寝床は相変わらず安定していなかったものの、ルーが店の裏にある物置の隅を一晩だけ貸してくれた日もあり、港で顔を覚えられるにつれて、少なくとも昨日までのように完全な野良犬を見る目で見られることは減っていった。マレクは私を甘やかさなかったし、船の上で危ない動きをすれば容赦なく怒鳴った。トーマは相変わらず軽口を叩きながら網の扱いを教えてくれた。バルドは無口なまま重いものを運び、私が無理に手を出そうとすると「潰れる」と一言だけで止めた。オルドは道具の手入れを黙々と教え、リオは港の裏道や安い水場、夜に避けるべき通りを教えてくれた。


その数日の間に、私は少しずつ、ロストンで暮らすということの輪郭を掴んでいった。貴族街の青い屋根は朝日に美しく光るけれど、その下に住む人々が下町の疫病をどれほど見ているのかは分からない。市場には香辛料と果物の甘い匂いが漂うけれど、その裏路地では咳き込む人が壁にもたれ、治療代のないまま目を閉じている。商人ギルドは街の血流のように金を動かし、港はその心臓のように物を送り出す。私はその血流の端で、小さな細胞みたいに働きながら、自分がいつか医療という形でこの街に関われるのかを考え続けていた。


そして、何日目かの夕方、漁から戻った《シーグリット号》の甲板を洗い終えたとき、マレクが魚箱の上に腰を下ろしたまま、こちらを見ずに言った。


「ナナ」


「はい」


「お前、明日も来るか」


それは採用通知のような立派な言葉ではなかったし、保証人も契約書もない、ただの短い確認だった。それでも私には、その言葉がこの世界に来てから初めて渡された、小さな居場所の証明のように聞こえた。


「来ます」


私は迷わず答えた。医者になる道から遠ざかっているのか、近づいているのかはまだ分からない。漁船の甲板で魚を仕分けることが、医学と何の関係があるのかと問われたら、うまく説明できないかもしれない。けれど、ここには生活があり、怪我があり、病気があり、貧しさがあり、人が生きるために働く現実がある。命を救いたいと言うなら、まず命がどんな場所で削られていくのかを知らなければならない。


ロストンの夕焼けが港を赤く染め、灯台イルミナスがゆっくりと光を放ち始める。私は潮で荒れた手を見下ろし、そこに医学部の講義室では見たことのなかった小さな傷や硬くなりかけた皮膚を見つけた。痛みはあるし、疲れもある。先のことは何も分からない。けれど少なくとも明日の朝、私は行く場所を持っている。


それだけで、今は十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ