2-32. 嫡出の兄の結末
ティーカップ越しに見えた女の顔は、一瞬だけ笑ったようだった。
しかしすぐ澄まし顔に戻り、優雅な所作で紅茶を飲む。「気がついたんだ?」
「どうでもいい女の顔なんか、見てないと思った」
「そうだなァ、特にお前は、本当ーに地味だ」
落ち着いた茶髪。透明感のない灰目。長身でも小柄でもない、凹凸の少ない体つき。不細工ではないが美人とも言い難い顔立ち。化粧っ気のないそばかすの散った鼻頭に、いつも冷めた目で仏頂面をしている。
(だからこそ、化粧と表情で化ける訳だが)
ついでに鬘でも被れば、知り合いでも見破るのは難しいだろう。カップをソーサーへ戻す。
「商会を調べる前からよね。どこで気がついたの?」
「声」
即答する。年齢不相応に落ち着き払った、エヴァキア山から吹き下ろす寒風のような声は、サイプレスの耳にはっきり残っていた。じっと見つめる。
「あとは……目だな」
そう言うと、ふと視線を上げる。
向こう側まで見透かすような、しかし決してその真意を悟らせない、灰色の目。
その目のまま、彼女は無感動に小首を傾げた。
「声に目ね。どっちもありふれた感じだし、そんなに目立つようなものでもないと思うんだけど。ありがとう、参考になったわ」
そう言って、小さく肩をすくめる。
「一応言っておくと、『ビブリオ商会の跡継ぎ』っていうのは、あながち嘘でもないわよ。ビブリオ商会は先生……ルクヴルール教授が、研究資料を仕入れるために作った商会だもの」
その言葉に、ハッと吐き捨てる。
「『書類上にしか存在しない』がつくがな」
「個人より商会の方が、何かと都合が良いんですって」
皮肉をさらりと受け流し、ヘレンは平然と続けた。
「『文化人類学のルクヴルール』の名前が売れてからは、ほとんど使ってないらしいけどね。私は先生の研究に関わる一切を継ぐことになってるから、跡取りには違いないわ」
「へいへい」
薄笑いで応じ……フッと真顔に戻る。
「ウルスラ・ユッテ・デュボワ。彼女は混血という点を除けば、どこにでもいるありふれた庶子の令嬢……『だった』」
元平民らしく、貴族に逆らうことなどせず。
庶子らしく、決して目立とうとせず。
貴族の娘らしく、当主の意向に背くことも、まして、家督の簒奪など考えもしない。
そんな、ごく普通の令嬢だったのだ。
「お前と会うまではな。ヘレン・サシャ・クォルナ」
最初は、小さな隠し事。
ささやかなルール破り。少しの嘘。
心身の自立に、年頃の子どもにありがちな反抗心。それを煽り、焚きつけ、誘導し。
そうして起きたのが、ウルスラ・デュボワによる当主交代劇だ。無表情でこちらを見つめるヘレン。
「言っておくけど、私は一度だって爵位の簒奪を勧めたことはないわよ。そこに至ったのはウル自身の考えで、判断」
「………クソ女が」
そう言われて、誰が信じると思うのか。ウルスラ・デュボワは元平民で世間知らず、その上、冷遇されていた。
環境に馴染めず、悩み苦しんでいる時に手を差し伸べてくれる存在がいたら、懐くだろう。依存するだろう。
そうでなくとも多感な年頃、周囲の人間や友人に感化される可能性は高い。ぱん、と報告書の束を手の甲で叩く。
「ざっくり調べただけでコレだ。よくもまァ、ここまで暴れたモンだ」
それに、ウルスラ・デュボワだけではないのだ。イレーネ・ボードの領地開発、ソフィア・メナードの相続問題、シュゼール侯爵の縁談の白紙化・解消……。
ヘレンが関わった事案は、多岐に渡る。
「そのくせどこにも目ぇつけられてる様子がないのは、『夜の神』のご加護か?」
「さあ?『吹雪の御使い』のお導きじゃない?」
微笑み、睨み合う。
沈黙を破ったのは、ヘレンだった。
「…………私に、何をさせたいの?」
「分家の風見鶏どもを潰す。付き合え」
「良いわよ」
女はあっさりと頷いた。いつか、王都のカフェでサイプレスの「悪巧み」に乗っかった時のように、楽しげに目を細める。
「楽しそうね、腕試しできそう」
「そちらの要求は?」
「サイプレス家の情報と手足」
即答だった。身を乗り出し、顔を覗き込む。
「もちろん、必要に応じて対価は払うわ。……もっとも、金銭じゃなくて通訳とか事務とか頭脳労働中心になると思うから、無理ならそれで良いけど」
ふむ、と顎に手を当てる。
「……良いだろう。今うちは、頭脳労働を担える者が少ない」
全くいない訳ではないのだが、大半が先日見逃してやった風見鶏だ。はっきり言って、責任の小さい通常業務くらいしか任せられないと感じている。
その点、彼女であれば、対価として釣り合う程度の仕事はするだろう。こちらが彼女にとって利のある存在である限り、裏切るということもないはず。
それに、ヘレンはデュボワ侯爵ウルスラの親友だ。繋がりを残しておいて損はない。
快諾すると、笑顔で付け加える。
「あとはそうね、『私の方』も手伝ってくれる?」
「生家の爵位簒奪か。………」
カップを手に取り、ゆらりと水面を揺らす。
クォルナ家の仲の悪さは、サイプレスの耳にも入っている。裏庭の友人相手にだいぶ過激なことを口走っていることも、ウルスラ・デュボワから聞いた。
少しの間沈黙し……「分からねえな」と呟く。
「調べたが、お前の身内なんか小物じゃねェか。デュボワからちょいと人手を借りて、お得意の巧言で丸め込んじまえば、それで事足りるだろ」
そもそもだ。最終的に爵位を継ぐのは彼女の兄。いかに策を弄して爵位を継いだとて、中継ぎにしかならない。
それは、彼女自身も了承している。
「わざわざ危ない橋を渡って、あちこちにケンカを売ってまで身内と殴り合う必要が、どこにある?」
「……逆に聞きたいのだけど」
そう言った灰色の眼差しは、情など一欠片もなさそうな光を帯びていた。
「私や私の大切にしているものが踏みにじられて笑われているのに、何故穏便に済ませてやらなきゃいけないの?」
優雅に微笑み、拳を顔の高さまで掲げる。
「踏み躙られたのなら、そのムカつく顔面、判別つかなくなるまで殴ってやらなくちゃ。気が済まないの」
「………そうかよ」
「大体ね、サイプレス」
「そういう、『自分一人我慢して努力すれば、丸く収まる』っていう態度が、周囲を増長させたんじゃないの?」
その瞬間、ヘレンの頭の横で、カップが爆ぜた。
投げつけたカップは背もたれに当たって砕け散り、紅茶のしみを作る。一拍遅れて、ヘレンの頬に赤い線が浮き上がった。
傷を指先をなぞった彼女は、微かに眉を顰め、肩口に乗った細かい破片をぱっぱっと払う。
「あんたの『諦め』という名の怠惰と甘受を、私にも強要しないで」
どこか遠いその言葉を聞きながら、肩で息をし、絞り出すように吐き捨てる。
「……誰もが……誰もがお前みたいに、強くはねェんだよ」
「……そう」
優しく伸ばされた女の手。そのまま、サイプレスの喉を、ぐっと掴む。
「ねえサイプレス。私、怒っているの。ずっとずっと、怒っているの」
「……何に」
「全部に」
みしり、と。ペンダコのある指が、喉元に食い込む。
「貴方の痛みを、私は知らない」
砕けたティーカップ。
「私の怒りを、貴方は知らない」
喉に食い込む指の感触。
「知りたいとも思わない。お互いに」
灰色の無機物じみた目が歪に歪んだ。
「それでいいじゃない。で?協力、するのしないの?」
「……するさ、ああ、するとも」
吐き捨てるように応じる。この化け物を生み出した元凶に八つ当たりをするくらい、許されるはずだ。
満足げに頷き、フッと手の感触が離れる。
「未婚の貴族令嬢の顔に傷をつけた借りは、これでチャラにしてあげる」
「そりゃ光栄だな」
と、廊下の方から、揉み合う声が聞こえてきた。カップが割れた音に駆けつけようとした彼女の侍女が、止めようとするサイプレスの使用人や配下と揉めているのだろう。忠誠心が高いことだ。
すっくと立ち上がる。
「そろそろ行くわね。セリナに心配かけちゃう」
「ああ」
ヘレンは「ティーセット、早速使ってもらえそうで良かったわ」などと嘯いて、ドレスの裾を翻す。
「じゃあね、サイプレス、よき共犯者。これからも良い距離で、良いお付き合いをしましょうね」
「そうだな。ご機嫌よう、クソ女」
スカートの端が扉の先に消えかけたその時、サイプレスは「……ああ、そうそう」とついでのように呼びかけた。
「お前の後ろは、誰だ?」
鉱国文化人類学の権威・ルクヴルールの名が世に知れ渡ったのは、どんなに浅く見積もっても、ここ二、三十年ほど。彼女の言い分を信じるのであれば、件の商会はその間ずっと、休眠状態だったはずだ。
(いくら王都がサイプレス家の勢力外でも、さすがに父上も怪しいと気がつく)
つまり。
紙面上にしか存在しないはずの商会を本物に見せかけた、「誰か」がいる。
そうでなければ、辻褄の合わないことが多すぎる。いくら頭が切れて行動力があっても、所詮は木端貴族の跡取りですらない令嬢。足りない分を丸ごとフォローできる、それなりの後ろ盾がいると考えるのが自然だ。それこそ、「友人として協力」程度では済まない、強固な協力関係が。
大体、領地の復興を早められるだけの大金など、どこから出したというのだ。弁償の話をするまでもなく、「返金不要」と申し渡されたあの金。
案の定、ヘレンは足を止めた。そのまま、振り返ることなく応じる。
「……何のことかしら?」
「いやァなに、ただの与太話さ」
そう言って、ひらりと手を振った。
「ただまァ、もしそんな奴がいるなら……俺が礼を言っていたと、伝えておいてくれ」
返事はなかった。代わりに投げかけられたのは、灰色の眼差し。
「会いに行けば良いのに」
「………早く帰れよ」
なんの感情も感じ取れない、平坦な声。しっしっと手で追い払う仕草をすると、今度こそ、扉の奥にスカートが消えた。
扉が閉じ、靴音が完全に聞こえなくなると、サイプレスはきつく目を瞑って、背もたれに寄りかかった。
「……会わないさ。………会えるはずがない」
何もできなかったばかりか、ただ厚意を貪っただけ、なんて。
「合わせる顔がありませんよ………、───」
靴音を聞き取り、す、と目を開く。
「……我が君」
そう言って控えめに入室してきたチャイブは、サイプレスを見てほっと安堵のため息を吐いた。
歩み寄り、問いかける。
「ご無事で何よりです。クォルナ女史との話し合いはいかがでしたか?」
「……まあまあだ」
そう答えた“彼”は、普段通りの“サイプレス”だった。薄く笑み、立ち上がる。
「カップとソファの掃除を」
「かしこまりました。……ところで我が君」
「クォルナ家への婚約の打診は、いつ出しますか?」
「なんでそんなにアレと俺をくっつけたいんだ、テメェは。死んでもごめんだ」
即座に却下する。
ため息を吐いたのち、廊下からこちらを覗き込む側近たちに、サイプレスはいつものようにひらりと、手を振ったのだった。
優しいままでいられなかった、優しい人。
第二部、これにて完結です。「嫡出の兄」だった“彼”は、ウルスラよりも知っていることが多く、性格的にも考えることも多かったため、第一部とはかなり印象が違う仕上がりになったと思います。
……皆様は、自分を大事にしてくださいね。“彼”のようになってしまう前に。
さてさて、次回はエピローグです!お読みいただき、ありがとうございました!




