2-1. 冷たいスープ
献身的で愛情深い、彼の話。
一話目からヤバい奴しかいない……。
「今日この時をもって、この子はこの家の娘だ。そのように扱うように」
───そう言われた日のことを、今でも、忘れられない。
オリディニ大陸東、鉱業で栄えた王国、アロイジア鉱国。
そのアロイジア鉱国は北部辺境、サイプレス侯爵領。
その領主・サイプレス侯爵家の長子である“彼”は、その日も、自室で執務に勤しんでいた。
身体をすっぽり覆うような椅子に寄りかかり、ふう、と息を吐く。天井を仰いで、目頭をつまむように揉んだ。
(もう一踏ん張り……)
そう言い聞かせ、再び書類に向き直った、その時。乾いたノック音が響き渡った。入室の許可を出すと、そこにいたのは家令のヨーナスだった。「坊っちゃま」と呼びかけ、扉のところで優雅に一礼する。
「お食事の準備が整いました。食堂へどうぞ」
その瞬間、喉の奥に鉛が詰め込まれたような心地がした。そっと喉を撫でる。
「……食欲がない」
なんとかそう絞り出すと、ヨーナスは困ったように眉尻を下げた。
「いけません、お身体に障ります」
そう言うと、歩み寄り、慣れた仕草で椅子を引く。
「大旦那様がお待ちですよ。さ」
「……分かった」
重い足取りで食堂に向かうと、曽祖父はもういつもの席に着いていた。彼の姿を認めた瞬間、眦を吊り上げる。
「遅い!!」
開口一番そう怒鳴ると、いつものように叱責を飛ばす。
「何をぐずぐずしていた!? またサボっていたのか!!」
「……申し訳ありません、前の予定が少々押しまして」
「また」、「また」か。
相変わらず思い込みの強い曽祖父に、内心ため息を吐きながら椅子を引く。席に着き、ナプキンを膝にかけると、使用人が自分と曽祖父の前にサラダを置いた。
短く祈りを唱え、味のしない食事を、口に押し込んでは咀嚼していく。
彼がサラダを食べ終え、スープを供された頃。早々にムニエルを食べ始めていた曽祖父が、不機嫌を隠さない声で言った。
「当主教育が遅れているらしいな」
……スプーンを持つ手が止まった。
その反応に何を思ったのか、声高に責め立てる。
「サイプレスの跡取りたる者、万事において完璧でなければならん!! 当主教育ごときに手こずるなど、言語道断だぞ!!」
ややあって、彼は、もう何度告げたか分からない内容を機械的に繰り返した。
「……当主教育は半年前に修了しております。執務の遅れを指摘されているのでしたら、遅れているのは父上の担当分です」
物心ついた時には始まっていた当主教育は、実践訓練を残して既に完了している。今は家令の仕事を手伝いながら、経験を積んでいる最中だ。
(「遅れている」という部分しか聞かなかったんだろうな……)
他人事のように思いながら続ける。
「ヨーナスは十分頑張ってくれていますし、僕も自分の分だけで手一杯なんです」
「言い訳をするな!!」
そう言って、テーブルを殴った。食器が悲鳴のような音を立て、控えていた使用人たちが息を呑む。
「いちいち人の揚げ足を取りおって! 儂は貴様に言っている!」
「大体、ぐずのリュドミラやチェルシーでも一人でできたことだぞ!!」
「……それは」
リュドミラは祖母、チェルシーは曽祖母の名だ。剣一辺倒の曽祖父の代わりに、領地経営や家政、サイプレス家の “お務め“ 関係の書類仕事などを一手に担っていたという。
(それは、リュドミラお祖母様とチェルシー曽祖母様が特別優秀だったということでは)
つい最近執務を手伝い始めたばかり、十歳の自分とは、比べるのも烏滸がましい。
しかしそれを言ったところで、曽祖父は余計怒り狂うだけだ。
そうやって、一瞬返事に迷ったのが良くなかったのだろう。怒鳴り続けて真っ赤になった曽祖父が、持っていたフォークをこちらに投げつけた。
「なんとか言わんか!」
甲高い音を立てて、皿の前にフォークが転がる。白いテーブルクロスに、ソースが飛び散った。
反射的に肩を揺らす。立ち上がり、指を突きつける曽祖父。
「オドオドするな、みっともない!!それでもサイプレスの跡取りか!?」
「……申し訳ありません」
「なんだその目は!」
再びテーブルを殴った。説教中に食べているとますます怒る。食事の手を止め、黙って罵声に耳を傾ける。
「せっかく、『北の闘神』たるこの儂と同じ名を授けてやったというのに、なんたる体たらく!たるんどる!!」
「……申し訳ありません」
……諜報活動を生業とするサイプレス家には珍しく、優れた武人として生まれ、「北の闘神」の名をほしいままにしてきた曽祖父。
恐らく、己の求めるレベルに達しない者は、皆怠けているようにしか見えないのだろう。褒められたことなど一度もなく、労いの言葉すらなかった。テーブルの下、剣ダコとペンダコで歪な手を、祈るように握る。
「大体、儂の若い頃はだな……!」
銀食器と冷めていくスープを見つめながら、時が過ぎるのを待つ。
怒鳴りながら説教しながら昼食を食べ終えた曽祖父は、「もう良い!!」といつものように吐き捨て、自室へ戻って行った。
詰めていた息を吐き出す。サラダしか食べていないのに、もうお腹いっぱいだ。
と、曽祖父が出て行ったのと別の扉が開き、人影が入ってきた。数週間ぶりに見た姿に、思わず椅子を蹴って立ち上がる。
「父上!」
「……」
曽祖父の後にサイプレス侯爵位を継いだ父だが、曽祖父と折り合いが悪いせいか、あまり邸には寄りつかない。先日も、「たまには戻って書類を片付けてほしい」と手紙で頼んだばかりだ。駆け寄り、問いかける。
「手紙は……」
すると父は、胸元から封筒を取り出し、そして。
びり。
真っ二つに引き裂いた手紙を、重ねてさらに四つに裂く。そして紙片をぐしゃぐしゃに丸め、床に落とした。
てん、と転がった手紙だったものを、靴底で踏み潰す。
「くだらんものをよこすな」
「……ですが、父上の執務が遅れているのです。曽祖父様も……」
「じじいに告げ口したのか」
その返事に、思わず息を呑む。
「そんなつもりは」
「卑しいな……」
こぼれ出た一言と蔑んだ目に、心臓がどぐりと嫌な音を立てた。くるりと踵を返す。
「またしばらく視察に行く。煩わせるなよ」
咄嗟に手を伸ばすも、扉は目の前で閉ざされた。呆然と立ち尽くす。
「……坊っちゃま」
食堂の片隅で見守っていたヨーナスが、気不味そうに声をかけた。
「お時間が押しております。召し上がるのでしたらお急ぎください」
「……………うん」
午後も、執務と訓練の予定が目白押しだ。
ただでさえ曽祖父の説教で遅くなっている、これ以上遅らせるわけにはいかない。肩を落として席に戻り、再びスプーンを手に取る。
父が床に棄てた紙片を、使用人がホウキとちりとりで片付けていく。ヨーナスは慰めるように言った。
「大旦那様も旦那様も、坊っちゃまに期待しているからこそ、厳しくなさるのです。気落ちしてはいけませんよ」
「……そうだね」
スプーンの先端を沈め、すくい上げる。
スープはとっくに冷めて、分離していた。
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