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後日談夏2 聖泉温泉と狐耳の夜

 湖畔実習を終えた夜。


 蒼鏡湖の北岸、そのさらに奥へ進んだ森の中に、《聖泉温泉》はひっそりと存在していた。


 月光を映す白い岩肌。

 森の奥から湧き出す透明な湯。

 湯面に浮かぶ淡い青い魔力の粒子。


 この温泉は、古くから聖クロイツ学園の理事会によって厳重に管理されている秘湯だった。


「……ふふ。ここから先は理事会管理区域ですわ」


 月明かりの中、リィネが優雅に微笑む。


 いつもの学園制服ではなく、薄紫の軽い浴衣羽織を肩にかけた姿。

 その下には聖泉用の白い湯浴み衣が覗き、月光に照らされた狐耳と大きな尻尾がやわらかく揺れていた。


「理事会の管理区域に、なぜ俺を?」


 シュウの問いに、リィネは扇子を閉じる。


「建前ならいくらでもありますわ。湖底の異常魔力の確認、理事会報告、境界線スキルの照合……」

 ふっと琥珀の瞳を細める。

「でも今夜は、ただ私がご一緒したかっただけですわ」


 珍しく、最初から本音だった。


 シュウは短く息を吐く。


「……そうか」



 露天の聖泉は、夜空をそのまま映していた。


 満天の星と月が湯面に揺れ、青い魔力粒子が水面でゆっくりと弧を描いている。


 シュウが湯へ身を沈めると、聖泉の温かさが一日の疲れを静かに溶かしていった。


「……悪くない」


「でしょう?」


 リィネが対面からそっと近づいてくる。


 湯浴み衣越しでもわかるしなやかな身体の線。

 濡れた狐尻尾が、湯面をなぞるように揺れた。


「この聖泉は、ただの温泉ではありませんの」

 指先で湯をすくう。

「湖底深くの魔力脈――もっと正確には、古い封印層を通って湧き上がっています」


「……水の門か」


 シュウの言葉に、リィネの狐耳がぴくりと震えた。


「やはり、あなたも感じていますのね」


 昼間の黒い波紋。

 湖底に眠る違和感。

 この聖泉は、その“気配”を最も強く映していた。



 しばらく二人の間に静かな時間が流れる。


 森を抜ける夜風。

 湯の流れる音。

 月明かり。


 リィネはふと、いつもの理知的な笑みを少しだけ崩した。


「……未来は、見えますわ」


「……ああ」


「でも」

 琥珀の瞳がまっすぐシュウを見る。

「未来が見えるというのは、必ずしも幸せではありませんの」


 狐尻尾が、湯の中でゆっくりとシュウの腕に触れる。


「良い未来も、悪い未来も、全部見えてしまう」

 少しだけ寂しそうに笑う。

「だからこそ……こうして何も見ないでいられる夜は、少しだけ安心しますの」


 理事会を裏から操る策士。

 未来を編む狐耳の才女。


 その彼女が今だけは、ただ一人の少女としてそこにいた。


「……見なければいい」


 シュウの短い言葉。


 リィネは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。


「……ふふ。簡単に言ってくださいますのね」

 だがその笑みは、いつもの余裕とは少し違って優しかった。



 湯上がり後。


 二人は聖泉の外にある白石の縁台へ腰掛けていた。


 リィネが用意していたのは、冷やした香草茶と小さな焼き菓子。


「《境界線の晩餐》の新作候補ですわ」

「……毒味か」

「ええ。今夜は私が」


 焼き菓子をひと口食べたリィネが、目を細める。


「……美味しい」

 そして少しだけ視線を伏せた。

「未来は読めても……こうして隣にいられる今だけは、読まないでいたいですわ」


 その言葉とともに、大きな狐尻尾がそっとシュウの腕へ巻きついた。


 月明かりの下で、その温もりは妙に素直だった。


「……今は、それでいい」


 シュウがそう返すと、リィネの耳先がほんのり赤く染まる。



 その時だった。


 湖の方角から、低い振動が響く。


 夜の静寂に混じる、ほんの小さな水音。


 だがリィネの表情が一変した。


「……来ますわ」


 千里眼が、未来の断片を捉える。


 湖底。

 さらにその下。

 封印された巨大な水門。

 その向こうで、黒い水が蠢く。


「……まだ開いてはいけない“水底の境界線”」


 シュウの胸の奥で【境界線】が強く脈打つ。


 次なる敵は、確実にこの湖の底で目覚め始めていた。


 だが今夜はまだ、狐耳の少女と過ごす静かな時間。


 夏の月夜は甘く、温かく、そして確かに次なる危機へと繋がっていく。


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