後日談春5 花精霊祭と王女の毒味
花精霊祭の夜、聖クロイツ学園はいつもの荘厳さを忘れたように、柔らかな光に包まれていた。
中庭から続く石畳の道には、桜色や翡翠色の精霊灯が並び、その上を無数の花びらが舞っている。
春にだけ咲く《精霊花》は、夜になると淡い魔力を宿し、幻想的な輝きを放つ。
生徒たちは色とりどりの祭装束に身を包み、屋台や舞台、精霊舞の広場を行き交っていた。
その中心――最も人が集まっている場所。
そこにいたのは、もちろんシュウだった。
「……腹が減った」
「祭りの真ん中で最初に言うことがそれなの!?」
フィオナが思わず声を上げる。
だが彼女の目の前には、すでに湯気を立てる料理が並んでいた。
花精霊祭限定、《春花蜜の魔鹿串》。
香ばしく焼かれた魔鹿肉に、精霊花から採れた蜜を薄く塗り重ねた特製串焼きだ。
シュウが炭火の前で静かに串を返すたび、花蜜がじゅっと弾け、甘く香ばしい匂いが夜風に乗って広がっていく。
「す、すごい……あれ全部シュウ先輩が?」
「もう屋台のレベルじゃありませんわ……!」
新入生や上級生たちがざわめく中、ガストンが鉄板の横で豪快に笑った。
「ガハハ! 相棒の料理は祭りでも最強だ! ほら、次は春野草の包み焼きだ!」
その横で、ミーニャはすでにシュウの左腕にぴたりと張りついている。
「……ん。今日は、人が多い。だからここ」
銀色の尻尾が、当然のようにシュウの腰へ絡みついた。
「ちょ、ちょっとミーニャ! あなた近すぎるわよ!」
フィオナが頬を染めながら割って入る。
今夜の彼女は王女用の祭装束だ。
白と金を基調にした軽やかなドレス風衣装に、花の髪飾り。
普段の気高さに、春の柔らかさが加わっている。
「本日は王家も花精霊祭を後援しているの。つまりこれは視察……そう、毒味も重要な役目よ!」
そう言ってフィオナは、焼き上がったばかりの串へ迷いなく手を伸ばした。
「……熱いぞ」
「ふ、ふん。その程度、王女の務めに比べれば――」
ひと口。
花蜜の甘さと魔鹿肉の旨味が広がった瞬間、フィオナの瞳が大きく揺れる。
「……っ! な、なにこれ……美味しすぎるじゃない……!」
ツンとした言い方のまま、二口目、三口目と止まらない。
それを見ていたエレインが耳をぴんと立てる。
「ちょっと! それ私の魔力温度制御で一番美味しい状態に保ってるんだからね!」
彼女は翡翠色の魔力を指先にまとわせ、花蜜が最も香る温度帯を精密に維持していた。
「し、シュウが“お前の魔法じゃないとこの香りは出せない”って言ったから、特別に協力してるだけなんだから!」
その周囲では、淡い魔力の粒子がまるで花びらのように舞っている。
リィネは少し離れた席で、屋台と人の流れを見渡しながら微笑んでいた。
「……ふふ。人の流れ、屋台の回転率、祭りの滞在時間――すべて理想的ですわ」
扇子の先で広場を示す。
「今夜だけで《境界線の晩餐》の新規予約はさらに三十件。理事会の予算もこちらへ流れますわね」
「祭りでまで理事会を操るんじゃねぇよ狐嬢!」
ガストンのツッコミに、リィネの狐尻尾が楽しげに揺れた。
やがて、広場中央で花精霊への奉納舞が始まる。
無数の精霊花が夜空へ舞い上がり、淡い光の帯を描く。
その幻想的な景色を見上げながら、シュウはふっと目を細めた。
魔境では、春を味わう余裕などなかった。
ただ生き延びるために喰らい、戦い、眠るだけ。
だが今は違う。
甘い花蜜の香り。
仲間たちの笑い声。
肩に触れるミーニャの温もり。
串を半分奪おうとするフィオナ。
魔法で花を散らせてはしゃぐエレイン。
未来を楽しそうに眺めるリィネ。
「……悪くない」
その呟きに、四人の反応は早かった。
「……ん。もっと近くにいる」
ミーニャがさらに距離を詰める。
「べ、別に私も景色を見やすくしてるだけなんだから!」
フィオナが反対側から腕を絡める。
「ちょ、ちょっと二人とも! 魔力の流れが乱れるでしょ!」
言いながらエレインも結局シュウのすぐ後ろへ回る。
「ふふ……この未来は、なかなか悪くありませんわね」
リィネだけが余裕の笑みでその様子を見守っていた。
その時だった。
夜空を舞う精霊花の中に、たった一枚だけ黒い花弁が混じる。
ひらり、とそれがシュウの胸元へ落ちた瞬間。
彼の【境界線】が、春風の中でかすかに震えた。
まるで、さらに遠いどこか――
世界の底に眠る“別の花”が呼応したかのように。
だが次の瞬間には、花火のように弾ける精霊光が夜空を染め、その違和感は祭りの歓声に飲み込まれていった。
春の夜はまだ長い。
花精霊祭の光の下、シュウたちの笑顔はどこまでも温かく続いていく。




