後日談春2 敗者は春の賄いに救われる
『境界線の晩餐』。
包丁と龍の牙を交差させた紋章が、朝の光を受けてかすかに輝いている。
アルトリウスは、その扉の前に十分間立っていた。
入れない理由は、ない。
入る資格がない気がするだけだ。
「……何をやっている」
背後から声がかかった。
振り返ると、ガストンが食材の入った大袋を両手に担いでいた。
「仕入れの邪魔だ。どくか入るか、どっちかにしろ」
「……俺は」
「相棒は中にいるぞ」
それだけ言って、ガストンは勝手口へ回っていった。
アルトリウスは扉を見た。
黒い聖剣は、もうない。
砕けた柄だけが、今も自室の棚に置いてある。
あの夜。
シュウに肩を貸してもらったまま、言葉にならなかったことがある。
感謝でも、謝罪でも、なかった。
ただ、腹が減っていた。
初めて気づいた。
自分はずっと、腹を空かせたままだった。
扉を、開けた。
⸻
店内は、まだ開店前だった。
厨房からは出汁の香りが漂い、シュウが一人で仕込みをしている。
カウンター席に、人影。
リィネが琥珀の瞳でアルトリウスを見た。
「……いらっしゃいませ」
扇子を開く。
「開店は昼からですわ。ですが」
くすりと笑う。
「迷っていた方の席は、ちゃんと空けてありますの」
アルトリウスは目を細めた。
「……読んでいたのか」
「千里眼ですもの。でも今日だけは」
リィネは扇子で口元を隠した。
「読まなくても、わかっていましたわ」
⸻
シュウが厨房から顔を出した。
アルトリウスを見て、一秒。
何も言わず、鍋に向き直る。
やがて、カウンターに椀が置かれた。
つみれ汁。
魔兎肉と春野草。
湯気が静かに上がっている。
「……なんだ、これは」
「……賄いだ。文句あるか」
アルトリウスは椀を手に取った。
一口、飲む。
温かい。
ただ、それだけだった。
それだけなのに。
「……美味い」
声が、かすれた。
その瞬間、砕けた聖剣の柄が自室でかすかに震えたことを、アルトリウスはまだ知らない。
シュウは厨房へ戻りながら、短く言った。
「……また来い」
アルトリウスは椀を置いた。
窓の外では、春風が桜を散らしている。
砕けた聖剣の代わりに、今は何も持っていない。
だが腹の底に、初めて温かいものが宿った気がした。
「……ああ」
その返事を聞いたのは、リィネの狐尻尾だけだった。
くるりと、幸せそうに揺れた。
⸻
開店の鐘が鳴った頃、ミーニャが厨房から顔を出した。
「……ん? 知らない匂い」
「客だ」とシュウ。
ミーニャはアルトリウスをじっと見た。
銀の猫耳がぴくぴく動く。
「……強い匂い。でも、もう牙はない」
「……そうだな」
アルトリウスは静かに答えた。
ミーニャはしばらく考えてから、小皿を差し出した。
「……これ。シュウが作った春の焼き菓子。おすそわけ」
「……なぜ」
「……強かった人には、ちゃんとご飯あげる。シュウがそう言ってた」
アルトリウスは小皿を受け取った。
一口食べて、目を伏せた。
「……シュウが、そう言ったのか」
「……ん」
春の日差しが、店内に差し込んでいた。
境界線の向こう側は、こんなにも温かかった。
そして翌朝、アルトリウスが帰った後、店に学園長名義の一通の招待状が届く。
――新入生歓迎晩餐会、主賓料理人指名。




