懐古エピソード④:リィネ編『千里眼が見落とした唯一の未来』
迷宮深層付近、特殊環境エリア――『氷華の回廊』。
そこは、吐く息すらも凍てつく極低温の世界。魔力の循環すら滞るその場所で、リィネの「千里眼」に異変が起きていた。
「……計算が、狂いましたわ。……まさか、この階層の磁場がこれほどまでに乱れているなんて……」
リィネは、複雑な幾何学模様が浮かぶ扇を握りしめ、苦渋の表情を浮かべていた。
彼女の瞳には、数秒先の未来が何重にも重なって視える。だが、この異常な空間では、その未来の糸が複雑に絡まり合い、どの選択を選んでも「孤立」と「凍死」という結末へ収束していくように思えた。
「……私のミスです。……シュウ様。……私の計算によれば、私たちがここで無事に朝を迎える確率は、限りなく『零』に近いですわ」
リィネは自嘲気味に笑い、その豊かな狐尻尾を力なく垂らした。
知略こそが自分の価値。未来を読み違えた自分に、もう価値などない――そう考えて、彼女は目を伏せた。
だが、隣に座る少年は、絶望的な予知などどこ吹く風だった。
シュウは黙々と、氷を砕いて焚き火の準備を整えると、深層の魔物『アイス・マンモス』の希少な鼻の肉を取り出した。
「……リィネ。……お前の目は、遠くを見すぎだ」
「え……?」
「先のことがどうなろうと、俺のやることは変わらない。……腹が減ったなら、肉を焼く。……それだけだ」
シュウが、真っ赤に燃える炭の上で肉を炙り始める。
凍てつく空気の中に、突如として立ち上る肉の脂が焦げる香ばしい匂い。それは、死へと向かう「予知」の世界を、強引に「今、ここにある生」へと引き戻す、圧倒的な生命の香りだった。
「ほら。……これを喰えば、未来なんて変わる」
シュウが差し出したのは、岩塩と香草だけで味付けされた、野生味溢れるステーキだった。
リィネは困惑しながらも、凍えた指でその肉を口に運ぶ。
「……っ! ……あ、温かい……。……いえ、……熱いですわ。……胸の奥が、火を灯したみたいに……」
千里眼で視た「零パーセントの生存確率」という冷徹な数字が、その一皿の旨味によって、瞬時に書き換えられていく。
リィネは気づいた。
自分が信じていた「確定した未来」など、シュウが作る「今この瞬間の美味」の前では、単なる仮説に過ぎないのだと。
「……ふふ。……あたくしとしたことが。……あんなに必死に絶望的な未来を探していたなんて、……馬鹿げていますわね」
リィネは、そっと扇を置いた。
彼女の大きな狐尻尾が、ふわりと持ち上がり、吸い寄せられるようにシュウの腕に絡みつく。
それは、計算高い彼女が見せた、初めての「甘え」だった。
「シュウ様。……あたくしの千里眼には、この先の『正解』は映りません。……ですが、あなたが隣にいて、この美味しい食事がある。……それだけで、あたくしはどんな未来も、笑って受け入れられそうですわ」
リィネは、シュウの肩にそっと頭を預け、独占欲を隠そうともせずに尻尾を揺らした。
彼女の瞳が捉えたのは、計算上の生存ルートではない。
**「この男がいれば、明日も必ず美味しいものが食べられる」**という、確信に満ちた、温かな唯一の未来だった。




