揺れる未来、八層の入口
テツクズ号が八層の入口に到達したのは、出発から二日後のことだった。
洞窟の空気は、七層までとは明らかに違っていた。冷たく、重く、そして――どこか”濁っている”。五層の金属臭でも、七層の極寒でもない。もっと根源的な、魔力そのものが腐りかけているような臭気だ。
「……魔力の流れが、乱れてる」
エレインが眉をひそめる。翡翠色の瞳が、洞窟の奥に渦巻く歪みを捉えていた。魔導書のページが、誰も触れていないのに一枚めくれた。
「……嫌な感じ。……影がざわざわしてる」
ミーニャがシュウの袖をつまむ。銀色の尻尾が、警戒するように低く揺れていた。
ガストンがテツクズ号の外装を豪快に叩く。
「ガハハ! この層は地形が変動するらしいが、テツクズ号なら問題ねぇ! 五層の黒殻を張った外装は伊達じゃないぞ!」
だが――その瞬間、車体がわずかに軋んだ。
「……おい、今のは?」
「地形じゃねぇ。魔力の”圧”だ。何かがこの層全体を押し潰そうとしてやがる」
ガストンの表情が、珍しく真剣になった。操縦桿を握る手が僅かに白くなっている。
フィオナが王家の法典を胸に抱いた。
「十層の悪魔……アウモデウスの影響が、ここまで来てるってこと?」
「……封印が揺らいでる。間違いないわ」
エレインが静かに頷く。その言葉に、車内がしんと静まり返った。
――その時。
キッチンの方から、ゆらりと影が揺れた。
「……あら。これは……」
リィネが扇を閉じ、ゆっくりと姿を現す。狐耳がピクリと動き、琥珀色の瞳が細められた。
「未来が……乱れていますわ」
全員が息を呑む。
「どういう意味だ、リィネ」
シュウが問うと、彼女は静かに答えた。
「八層に踏み込んだ瞬間から、未来が”二重”に見えるのです。どちらも確定していない……まるで、運命そのものが揺れているように」
「……アウモデウスの影響か」
「ええ。あの悪魔は”因果”を喰らう存在。未来視が乱れるのは……封印が限界に近い証拠ですわ」
リィネの狐尻尾が、珍しく不安げに揺れた。普段は余裕を崩さない彼女が、その表情をわずかに曇らせている。
「……シュウ様。あなたの未来だけが、完全に読めません」
「……前からだろ」
「いえ。今は違います。“読めない”のではなく――“未来が存在しない”のです」
空気が凍りついた。
「ど、どういうことよ……」
フィオナが震える声で言う。珍しく、強がりの言葉が出てこなかった。
「このまま進めば、十層で”何か”が起きる。その瞬間、あなたの未来は――一度、途切れます」
ミーニャがシュウの腕にしがみついた。いつもの無表情が、今は僅かに歪んでいる。
「……嫌。……シュウ、いなくなるの嫌」
「……そんな未来、許さないわ」
エレインが唇を噛む。魔導書を握る手に力が入り、ページの端が折れた。普段の冷静さが、今は感情に押されて薄い。
「ガハハ……! だったらぶっ壊すだけだろ! 未来ごと!」
ガストンが拳を握りしめる。その笑いはいつも通りだが、目が笑っていない。
シュウは静かに包丁を握った。
「……行くぞ。未来がどうなろうと、十層の悪魔を喰らうだけだ」
リィネはその背中を見つめ、微かに微笑んだ。
「……やはり、あなたは”境界を越える者”ですわね」
その言葉の意味を、シュウは問い返さなかった。
八層の奥から、低い唸り声が響く。
ミーニャがシュウの腕をそっと離し、影へ溶けた。臨戦態勢だ。
「……シュウ。……私、ちゃんとそばにいる」
「ああ」
フィオナが前へ出て、一度だけシュウの方を振り返った。
「……行くわよ。ここで怖じ気づくほど、私は柔じゃないから」
「知ってる」
頬がわずかに赤くなったが、彼女はすぐに前を向いた。
エレインが翡翠の瞳を細め、歪んだ魔力の流れを読む。
「……この乱れ方、普通じゃないわ。魔法の精度が落ちるかもしれない。でも――やってみせる」
リィネが最後に静かに扇を開いた。
「未来が読めないなら、作ればよいのですわ」
テツクズ号のエンジンが低く唸り、八層の暗闇へと進み始めた。
奥から響く唸り声が、少しずつ大きくなっていく。
未来が揺らいでいても――今、この場所に集まった六人の足は止まらなかった。




