第10話「わたくしの名前」
わたくしは、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルク。
その名前を、朝の光の中で心の中に置いた。公爵夫人でも、お飾り妻でも、元妻でもない。リーゼロッテという名前だけが、今のわたくしのすべてだった。
昨夜は眠れなかった。眠れなかったのに、体は軽い。窓から差し込む朝日が、港の水面を白く照らしている。寝台から起き上がり、顔を洗い、髪を整えた。
鏡に映る自分の顔を見た。三十二歳。公爵家を出てから約二ヶ月。頬の線が少し変わった気がする。痩せたのではない。強張りが解けたのだ。十年間、完璧な公爵夫人の顔を維持するために固めていた表情筋が、この港町の空気の中で少しずつ緩んでいた。
答えは、昨夜のうちに決まっていた。決まっていたことを認めるのに、一晩かかった。
リーゼロッテは住居を出て、商会へ向かった。
朝の商会は、いつもと変わらない活気があった。荷の搬入、書類の受け渡し、商人たちの声。リーゼロッテはその中を通り抜け、ルーカスの応接室の前に立った。
扉を叩いた。
「どうぞ」
ルーカスの声が応じた。リーゼロッテは扉を開けた。
ルーカスは机に向かっていた。書類を手に、朝の業務を始めたところだったのだろう。リーゼロッテの顔を見て、書類を静かに置いた。
「おはようございます、リーゼロッテ殿」
穏やかな声だった。昨日と同じトーン。待つと言った人間の、その通りの態度だった。
「おはようございます」
リーゼロッテは応接室の中に入り、扉を閉めた。向かいの椅子には座らなかった。立ったまま、ルーカスの目を見た。
「昨日のお返事を、申し上げに参りました」
ルーカスの手が、机の上で僅かに動いた。それだけだった。表情は変えなかった。
リーゼロッテは息を吸った。
帳簿の数字を読み上げる時とは違う。契約書の条項を確認する時とは違う。これから口にする言葉には、数字も条件も根拠もない。あるのはただ、わたくし自身の感情だけだ。
それが怖かった。十年間、感情で何かを選んだことがなかった。政略結婚は家の都合で決まった。離縁は契約違反という法的根拠で実行した。商会への就職は雇用契約という文書に基づいた。すべてが、感情以外の何かに支えられていた。
今この瞬間だけは、何も支えがない。契約でも義務でも法でもなく、ただわたくしがそう決めたという事実だけで、この言葉を口にする。
「わたくしは、公爵夫人としてではなく、リーゼロッテとして」
声が震えそうになった。震えを止めなかった。止める必要がなかった。
「あなたの隣に立ちたいと思います。ルーカス」
敬称が落ちた。ルーカス様ではなく、ルーカス。その二文字が口から出た瞬間、胸の奥で何かが外れた。十年間、誰かの名前を敬称なしで呼んだことがなかった。それが今、こんなにも自然だった。
ルーカスの目が、一瞬だけ揺れた。穏やかな表情の奥で、何かが弾けたように。けれどすぐに、あの柔和な笑みが戻った。いや、違う。同じ笑みに見えて、今までと何かが違っていた。
「ありがとうございます」
ルーカスは立ち上がった。机を回り、リーゼロッテの前に立った。手を差し出した。
「改めて。私の隣にいてください、リーゼロッテ」
呼び捨てだった。殿もつけず、ただリーゼロッテと。五年間、取引相手として丁寧語の壁の向こうにいた人が、初めてその壁を越えた。
リーゼロッテはその手を取った。温かかった。商人の手だった。帳簿をめくり、契約書に署名し、商品を検分してきた手。けれどその手が今、リーゼロッテの手を握っている理由は、商いとは何の関係もなかった。
不安はあった。これでいいのかという問いが、胸の隅に残っていた。けれどその不安ごと、この手の温度が包んでいた。完全に消えなくてもいい。不安を抱えたまま、それでも選ぶ。それが、わたくしの答えだ。
応接室の扉が、勢いよく開いた。
「やっとだよ!」
マルグリットが飛び込んできた。目が赤い。泣いていた。泣きながら笑っていた。
「あたし、もうずっとやきもきしてたんだから! ルーカスがリーゼロッテさんの話する時だけ声が変わるって言った時から、いつこうなるかって、もう毎日毎日!」
「マルグリットさん、扉の外で聞いていたのですか」
「聞こえたの! あたしのせいじゃないよ、ルーカスの応接室の壁が薄いんだよ!」
マルグリットはリーゼロッテの両手を掴んだ。涙がぽろぽろ落ちていた。
「よかった。本当によかった。リーゼロッテさん、あなたがここに来てくれて、本当によかった」
リーゼロッテの目に、熱いものが込み上げた。
泣くつもりはなかった。十年間、泣かなかった。公爵家で一人きりの夜も、引き継ぎ資料を書き上げた夜も、国境を越える馬車の中でも、一度も泣かなかった。
なのに、マルグリットの涙を見たら、堪えきれなくなった。
声が出た。笑い声だった。自分でも驚くほど、自然な笑い声が出た。涙と一緒に。
「わたくしも、ここに来てよかったと思っています」
マルグリットが「うわあ」と声を上げた。
「リーゼロッテさんが笑った! ルーカス、見た!? この人初めて笑った!」
「ああ、見てるよ」
ルーカスの声は穏やかだったが、僅かに掠れていた。
午後、商会の事務室で業務を終えた後、リーゼロッテとルーカスは応接室の窓際に並んだ。
窓の外には港が広がっている。商船が行き交い、荷揚げの声が響き、海鳥が低く飛んでいる。リーゼロッテがこの街に着いた日と同じ景色だった。けれど同じ景色が、まったく違って見えた。
「わたくしの十年間は、無駄ではなかったのだと思います」
リーゼロッテは港を見ながら言った。
「あの十年がなければ、帳簿を読む力も、交易を組む力も、契約の条項を精読する習慣も身につかなかった。この商会で仕事をする力も、あの十年で培いました」
ルーカスは黙って聞いていた。
「そしてあの十年がなければ、あなたの言葉の意味を、正しく受け取ることもできなかったでしょう。機能として必要とされることと、一人の人間として求められることの違いを、わたくしは十年かけて学びました」
風が窓から入ってきた。潮の匂いを含んだ、この街の風。
「ええ。だからこそ、私はあなたに出会えた」
ルーカスの声は静かだった。
「五年前、あの交渉の席で。帳簿の数字を完璧に揃え、交渉相手に対しても敬意を崩さなかったあなたを見て、この人は本物だと思いました。あの十年があったから、あなたはあの席にいた。そしてあなたがあの席にいたから、今ここにいる」
リーゼロッテは頷いた。
二人とも、それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。窓の外の港が、午後の光に照らされて金色に揺れていた。新規事業の陸路交易は来月から動き始める。商会の仕事は明日も続く。日常はこれからも積み重なっていく。
けれど、その日常の隣に立つ人がいる。契約書ではなく、わたくし自身の意思で選んだ人が。
リーゼロッテは左手を見た。指輪のない薬指。公爵家を出た日に外した指輪の痕は、もうほとんど消えている。いつかここに新しい指輪がはまるのかもしれない。それは契約の証ではなく、選んだことの証として。
お飾り妻の退職届は、受理された。
机の上には、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルクの名前だけが記された、商会の経営顧問の名刺が置いてある。新しい名刺。新しい名前。新しい居場所。
そしていつか、その名刺の隣に、もう一つ別の肩書きが加わるのかもしれない。けれどそれは、今日の話ではない。今日はただ、この窓際の光と、隣に立つ人の温かさが確かであれば、それで十分だった。
(完)
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