第2章 第93話:影を追う者 ― レンの全力
巨大影は村を襲うことなく境界の奥へ消えていった。しかしそれは終わりではなかった。あの存在は確かに三体の影を見ていた。境界の奥の世界がこちら側を認識したという事実は、村にも王国にも大きな意味を持つ。そして三体の影の中で、ただ一体だけがその出来事を“終わり”だと思っていなかった。レン。速さを持つ影は、巨大影の気配をまだ感じ取っていた。次の瞬間、レンは誰よりも早く動き出す。
川辺には重い静けさが残っていた。
巨大影が消えてから、誰もすぐには動けなかった。
水面は元の流れを取り戻している。
森の影も穏やかだ。
だが空気の奥には、まだ何かが残っている。
セリスは観測装置を見ていた。
針はゆっくり上下している。
だが完全に静まったわけではない。
「……まだ反応がある。」
リオナが顔を上げる。
「どこ?」
セリスは森の奥を指した。
その瞬間だった。
レンが動いた。
影が細く伸びる。
黒い線が地面を滑るように走る。
「レン!」
リナライが叫ぶ。
だがレンは止まらない。
森の奥へ一直線に飛び込んだ。
トオマが驚く。
「速い……!」
レンの速度は今までよりさらに速かった。
影から影へ跳ぶ。
木の根。
岩の影。
草の暗がり。
そのすべてを踏み台にして前へ進む。
アルヴェンが低く言った。
「追っている……。」
セリスが装置を見る。
「巨大影の残響です。」
レンはその気配を追っているのだ。
森の奥へ入ると空気が変わった。
境界に近い場所特有の重い静けさ。
レンは止まらない。
さらに奥へ。
さらに深く。
やがて森が途切れ、岩場の川岸へ出る。
そこに、薄く黒い影が漂っていた。
巨大影の残り香。
境界の痕跡だ。
レンが止まる。
影が揺れる。
その時、川の水面がわずかに歪んだ。
細い裂け目。
完全な境界ではない。
だが向こう側の気配がある。
レンは一瞬迷う。
その奥から、巨大影の気配が伝わる。
レンの輪郭が細くなる。
次の瞬間。
レンは跳んだ。
裂け目へ。
だが――
その瞬間、ナリの核が遠くで強く光った。
どくん!
森全体に波が広がる。
レンの体が一瞬止まった。
裂け目の手前で。
ノアの影が地面を伝って広がる。
ノアが影を吸収しながらレンの後を追っている。
そしてリナライが森へ走っていた。
「レン……!」
レンは振り返った。
リナライが近づく。
ナリの核の鼓動が聞こえる。
どくん。
どくん。
レンの輪郭が少し揺れた。
巨大影の気配が裂け目の奥で遠ざかっていく。
レンはしばらく動かなかった。
やがてゆっくり戻る。
裂け目は閉じた。
リナライが息を切らして言う。
「……いっちゃ……だめ……。」
レンは小さく揺れる。
「……レ……ン……。」
その声はかすれていた。
ナリの核が森の向こうで光る。
ノアの影がゆっくり集まる。
三体の影が再び集まる。
アルヴェンは森の奥を見つめていた。
「影が……境界を追った。」
研究員が言う。
「つまり……向こうへ行ける可能性が?」
アルヴェンは答えなかった。
だが目の奥に新しい考えが生まれていた。
境界の向こう。
影の世界。
もし人がそこへ到達できるなら。
その価値は王国を変えるほど大きい。
森の風が静かに吹く。
レンはもう動いていない。
だが誰もが感じていた。
巨大影はまだ終わっていない。
レンは巨大影の残響を追い、境界の裂け目の直前まで到達した。影は境界を越えられる可能性を持っている。それは王国の研究者にとって、想像を超える発見だった。しかし同時に危険でもある。境界の向こうには、巨大影のような存在がまだ多くいるかもしれない。ナリ、ノア、レンの三体は、その世界とこの世界をつなぐ存在になりつつあった。




