第馬車の増築、そして雨の日の用心棒
開業から五日が過ぎた。
相馬荘の評判は、ミラベルの町外れでじわりじわりと広まっていた。
「あの荷車のシチューはうまい」
「銅貨三枚でこの量はありがたい」
「花を飾ってる女の子が可愛いんだよな、愛嬌があって」
一日の平均売上は銅貨四十枚。
材料費を差し引いても、毎日二十枚以上が手元に残る。
この世界の貨幣感覚で言えば、銅貨百枚で銀貨一枚。銀貨十枚で金貨一枚だ。
五日間で、拓実の懐には銀貨一枚と銅貨数十枚が貯まっていた。
元・旅館支配人として、拓実にはわかっていることがある。
店は、稼いだ金を寝かせていては成長しない。
next——次の段階へ、投資する時だ。
「リナ、今日は早じまいにする」
「えっ、まだ日は高いよ?」
「今日は仕入れと、改装の日だ」
拓実は市場へ向かい、貯めた金のほぼ全てを使って資材を買った。
厚手の帆布、良質な木材の板、鉄釘、そして——古い鉄製の大きな釜。
リナは首を傾げている。
「タクミ、その釜、なにに使うの? シチューを作るには大きすぎるよ」
「シチューじゃない。湯を沸かすんだ」
「……お風呂?」
リナの目が、ぱっと明るくなった。
この世界にも入浴の習慣はある。だが、庶民は桶で体を拭う程度で、湯船に浸かるのは貴族か、湯治場のある町の特権だ。
「ああ。宿屋に風呂は必需品だろ」
拓実は wink して、ガラクタ通りへ戻った。
* * *
荷車の前に立ち、拓実は資材に手をあてる。
そして、荷車の本体にも手を添え、意識を集中させた。
【宿屋創生・増築】
光が、昼間にもかかわらずはっきりと見えた。
木材や帆布、鉄釜が光に溶け、荷車の内部へと吸い込まれていく。
ギシリ、コトリ、と木材が軋み、空間が歪む音がした。
数分後、光が収まる。
外見は少しだけ大きくなったが、依然として古びた荷車のままだ。
だが、覆い布をめくると——
「……すごっ」
リナが息を呑んだ。
内部は、以前よりずっと広くなっていた。
奥行き四メートル、幅二・五メートル。
食事処の奥に、木の扉が一枚できている。
扉を開けると、そこには簡素だが清潔な「客室」があった。
木枠のベッドが二つ。小さな窓。そして壁にはランプが下がっている。
さらに奥には、もう一枚の扉。
そこが「浴場」だった。
床は水はけのよい石張り。中央には買ってきた鉄釜を加工した湯船。
「タクミ……これ、どうなってるの?」
「スキルの力だ。調理場の炉の煙突を、この湯船の横に通す構造にした。料理を作れば、その排熱で湯が沸く仕組みだ」
祖父の宿でも、厨房の廃熱を風呂の湯沸かしに利用していた。
その仕組みを、スキルが再現してくれたのだ。
リナは湯船の縁を撫で、それから振り返って拓実を見た。
目が、少しだけ赤い。
「……タクミ、わたしは、どこで寝ればいいの?」
「ああ、それだが」
拓実は食事処の天井付近を指差した。
そこには、頑丈な布とロープで作られたハンモック型の寝床が設置されていた。
調理場の熱がほんのりと届く、暖かい特等席だ。
「従業員の寝床だ。狭いが、我慢してくれ」
「……うん。ぜんぜん、狭くない」
リナはハンモックに飛び乗り、小さく体を丸めた。
それから、布に顔を埋めて、くすくすと笑った。
「……わたしの、ベッドだ」
拓実はその背中を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
——よし。これで「宿屋」と呼べる最低限の形ができた。
次は、客を泊めることだ。
* * *
六日目の午後、空が暗くなった。
鉛色の雲が広がり、やがて大粒の雨が降り出した。
通りを歩く人もまばらになり、客足は完全に途絶えた。
「雨、すごいね……」
リナが窓から外を眺めている。
拓実は炉で湯を沸かし、今日の仕込みを始めていた。
その時だった。
ドン、ドン、ドン。
荷車の外壁を、乱暴に叩く音がした。
拓実が覆い布をめくると、そこには三人の男が立っていた。
革の鎧に、錆びた短剣。身なりは汚く、目つきが悪い。
町のゴロツキ——いわゆるチンピラだ。
「おい、新入り。いい商売してんじゃねぇか」
中央の男が、ニタニタと笑いながら言った。
「この通りで商売するなら、俺たちに『場所代』を払ってもらうぜ。銀貨一枚だ」
銀貨一枚。
五日間かけて貯めた全財産だ。
拓実は冷静に、しかしきっぱりと答えた。
「ここは公道だ。場所代など払う義務はない」
「はあ? 義務? 俺たちがルールだと言ってんだから、それが義務なんだよ」
男が短剣の柄に手をかける。
リナが怯えたように、拓実の背後に隠れた。
拓実の頭の中で、【構造的視覚】が男たちの立ち姿を分析する。
——重心は不安定。武器の扱いは素人。脅しは慣れていても、実戦経験はほぼなし。
だが、こちらにも戦う手段はない。
「……わかりました。しかし、今日は売り上げが少ない。明日、用意しましょう」
時間を稼ぐしかない。
拓実がそう言った瞬間——
「……うるさいぞ」
低い、しわがれた声が、雨音に混じって響いた。
男たちが振り返る。
通りの反対側、崩れかけた建物の軒下から、一人の大男が歩み出てきた。
身長は百九十センチ近くあるだろうか。
濡れた灰色の髪に、無精髭。左頬には古い刀傷。
着古したマントの下には、手入れの行き届いた長剣が見える。
「お、おっさん、なんだてめぇは! 俺たちのシマに口出しすんな!」
大男は男たちを無視し、ゆっくりと近づいてきた。
そして、中央の男の眼前で、足を止める。
「昨日、この若者にシチューをおごってもらった。恩がある」
「……は?」
「雨の日に、商売の邪魔をするな。帰れ」
「き、キサマ——!」
男が短剣を抜こうとした、その瞬間。
大男の手が、閃いた。
拳が男の顎を捉え、男は音を立てて泥濘に倒れ込んだ。
わずか一秒の出来事だった。
残りの二人が顔を蒼白にして、後ずさる。
「……次は、剣を抜くぞ」
静かな威圧。
二人は倒れた仲間を引きずり、雨の中へと逃げ去っていった。
* * *
大男は、去っていくチンピラたちを見送り、それから拓実の方を向いた。
「……すまん。余計なことをしただろうか」
「いいえ。助かりました。……あなたは、昨日の」
昨日の夕方、雨に濡れて荷車の前に立っていた老人だ。
金がないと言い、代わりに古い砥石を一つ差し出した。
拓実はそれを受け取り、熱いシチューとパンを出した。
「グリムだ。しがない流れ者の剣士だ」
「タクミです。こちらはリナ。——グリムさん、中へどうぞ。雨に濡れてるでしょう」
グリムは少し迷ってから、荷車に乗り込んだ。
そして、内部を見て、言葉を失った。
「……外から見たとおり、ボロい荷車だと思ったが……なんじゃこりゃ」
「商売道具です。——リナ、タオルを。グリムさん、よかったら湯に浸かってください。ちょうど沸いたところなので」
グリムはきょとんとして、浴場の扉を開けた。
湯気が立ち上る鉄釜の湯船。
石鹸代わりに使える草木灰の袋。
「……金を払っていないのに、風呂まで入れさせていいのか?」
「昨日の砥石、すごくいいものでね。包丁が切れすぎて困ってるくらいだ。その礼ですよ」
嘘だった。
砥石はただの石だったが、グリムのプライドを傷つけないための、拓実なりの気遣いだった。
グリムは黙って頷き、浴場へ消えた。
* * *
三十分後。
湯上がりのグリムに、拓実が料理を出した。
豚肉と根菜のシチュー、焼きたてのパン、そしてハーブティー。
グリムは黙々と、しかし丁寧に食べた。
一滴の汁も、一粒のパン屑も残さなかった。
食べ終わり、グリムが言った。
「……うまかった。命を救われた気分だ」
「気に入ってもらえて光栄です」
「タクミ。あんた、戦えないのか?」
「ええ。剣も魔法も、からっきしです」
「なら、なぜ用心棒を雇わない? あんなチンピラでも、数が集まれば厄介だぞ」
「雇いたいんですが、信頼できる人がいなくて」
グリムは腕組みし、天井を見上げた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……あんたの馬車、俺が守ろうか」
「え?」
「金は要らん。毎日の食事と、あの風呂、そして——あのハンモックの隣の床で寝かせてくれればそれでいい」
リナがぱっと顔を上げた。
グリムの目は、どこか寂しげだった。
長年、戦場を渡り歩いてきた男の、疲れ切った瞳。
守るべきものを失い、ただ流浪してきた者の目。
拓実は、元・経営者として、そして宿屋の息子として、その目を知っていた。
あの目をした客には、理屈ではなく「居場所」を提供するのだ。
「——お願いします、グリムさん。食事と風呂と寝床は保証します。それに、給料も出しますよ。この宿屋の『用心棒兼設備管理責任者』として」
「……設備管理?」
「荷車の車輪の油差しや、板の補修です。あんたの手を見れば、武器の手入れだけでなく、道具の手入れも上手いでしょう?」
グリムは自分の分厚い、傷だらけの手を見つめ、ふっと——初めて——小さく笑った。
「……わかった。その仕事、受けよう」
* * *
翌朝。
雨は上がり、爽やかな風が吹いていた。
荷車の前で、グリムが車輪の軸に油を差している。
その手際は、驚くほど丁寧で的確だった。
「グリムさん、朝ごはんだよ!」
リナが、焼きたてのパンと、果物のジャムを運んでくる。
リナはもう、グリムを「おじちゃん」と呼んで懐いていた。
拓実は荷車の牽引棒をチェックし、地図を広げた。
ミラベルの町で手入れた、この地方の簡易地図だ。
「ミラベルから西へ五日。商業都市オルステン。……来月、大きな『収穫祭』があるらしい」
「オルステンか。賑やかな町だ。商人も集まる」
グリムがパンを齧りながら言う。
「祭りは、客層が変わる。金回りのいい商人や、遠方からの旅人もいる。——相馬荘の次の営業地としては最適だな」
拓実は地図を折りたたみ、荷車の覆いを上げた。
客室が一つ。風呂が一つ。
用心棒が一人。従業員が一人。
宿屋としての機能は、まだ不完全だ。
だが、確実に、前へ進んでいる。
「リナ、グリムさん。行きますよ」
「「おう!」」
馬はいない。
拓実とグリムが、交互に荷車を引いていくのだ。
重労働だが、二人ならなんとかなる。
(そのうち馬も買おう、と拓実は心の中で計画を立てていた)
ガタゴト、ガタゴト。
一台の荷車が、ミラベルの町を出て、西への街道を進んでいく。
宿屋の息子の、異世界での旅は、まだ始まったばかりだ。
(つづく)




