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異世界宿屋めぐり 〜一台の馬車でつくる、料理と憩いの旅日記〜  作者: 星海凡夫
ガラクタ通りの荷車と、最初の仲間たち

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3/8

第馬車の増築、そして雨の日の用心棒

開業から五日が過ぎた。


相馬荘の評判は、ミラベルの町外れでじわりじわりと広まっていた。


「あの荷車のシチューはうまい」

「銅貨三枚でこの量はありがたい」

「花を飾ってる女の子が可愛いんだよな、愛嬌があって」


一日の平均売上は銅貨四十枚。

材料費を差し引いても、毎日二十枚以上が手元に残る。

この世界の貨幣感覚で言えば、銅貨百枚で銀貨一枚。銀貨十枚で金貨一枚だ。

五日間で、拓実の懐には銀貨一枚と銅貨数十枚が貯まっていた。


元・旅館支配人として、拓実にはわかっていることがある。

店は、稼いだ金を寝かせていては成長しない。

next——次の段階へ、投資する時だ。


「リナ、今日は早じまいにする」


「えっ、まだ日は高いよ?」


「今日は仕入れと、改装の日だ」


拓実は市場へ向かい、貯めた金のほぼ全てを使って資材を買った。

厚手の帆布、良質な木材の板、鉄釘、そして——古い鉄製の大きな釜。


リナは首を傾げている。


「タクミ、その釜、なにに使うの? シチューを作るには大きすぎるよ」


「シチューじゃない。湯を沸かすんだ」


「……お風呂?」


リナの目が、ぱっと明るくなった。

この世界にも入浴の習慣はある。だが、庶民は桶で体を拭う程度で、湯船に浸かるのは貴族か、湯治場のある町の特権だ。


「ああ。宿屋に風呂は必需品だろ」


拓実は wink して、ガラクタ通りへ戻った。


* * *


荷車の前に立ち、拓実は資材に手をあてる。

そして、荷車の本体にも手を添え、意識を集中させた。


【宿屋創生・増築】


光が、昼間にもかかわらずはっきりと見えた。

木材や帆布、鉄釜が光に溶け、荷車の内部へと吸い込まれていく。

ギシリ、コトリ、と木材が軋み、空間が歪む音がした。


数分後、光が収まる。


外見は少しだけ大きくなったが、依然として古びた荷車のままだ。

だが、覆い布をめくると——


「……すごっ」


リナが息を呑んだ。


内部は、以前よりずっと広くなっていた。

奥行き四メートル、幅二・五メートル。

食事処の奥に、木の扉が一枚できている。


扉を開けると、そこには簡素だが清潔な「客室」があった。

木枠のベッドが二つ。小さな窓。そして壁にはランプが下がっている。


さらに奥には、もう一枚の扉。

そこが「浴場」だった。

床は水はけのよい石張り。中央には買ってきた鉄釜を加工した湯船。


「タクミ……これ、どうなってるの?」


「スキルの力だ。調理場の炉の煙突を、この湯船の横に通す構造にした。料理を作れば、その排熱で湯が沸く仕組みだ」


祖父の宿でも、厨房の廃熱を風呂の湯沸かしに利用していた。

その仕組みを、スキルが再現してくれたのだ。


リナは湯船の縁を撫で、それから振り返って拓実を見た。

目が、少しだけ赤い。


「……タクミ、わたしは、どこで寝ればいいの?」


「ああ、それだが」


拓実は食事処の天井付近を指差した。

そこには、頑丈な布とロープで作られたハンモック型の寝床が設置されていた。

調理場の熱がほんのりと届く、暖かい特等席だ。


「従業員の寝床だ。狭いが、我慢してくれ」


「……うん。ぜんぜん、狭くない」


リナはハンモックに飛び乗り、小さく体を丸めた。

それから、布に顔を埋めて、くすくすと笑った。


「……わたしの、ベッドだ」


拓実はその背中を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


——よし。これで「宿屋」と呼べる最低限の形ができた。

次は、客を泊めることだ。


* * *


六日目の午後、空が暗くなった。


鉛色の雲が広がり、やがて大粒の雨が降り出した。

通りを歩く人もまばらになり、客足は完全に途絶えた。


「雨、すごいね……」


リナが窓から外を眺めている。

拓実は炉で湯を沸かし、今日の仕込みを始めていた。


その時だった。


ドン、ドン、ドン。


荷車の外壁を、乱暴に叩く音がした。


拓実が覆い布をめくると、そこには三人の男が立っていた。

革の鎧に、錆びた短剣。身なりは汚く、目つきが悪い。

町のゴロツキ——いわゆるチンピラだ。


「おい、新入り。いい商売してんじゃねぇか」


中央の男が、ニタニタと笑いながら言った。


「この通りで商売するなら、俺たちに『場所代』を払ってもらうぜ。銀貨一枚だ」


銀貨一枚。

五日間かけて貯めた全財産だ。


拓実は冷静に、しかしきっぱりと答えた。


「ここは公道だ。場所代など払う義務はない」


「はあ? 義務? 俺たちがルールだと言ってんだから、それが義務なんだよ」


男が短剣の柄に手をかける。

リナが怯えたように、拓実の背後に隠れた。


拓実の頭の中で、【構造的視覚】が男たちの立ち姿を分析する。

——重心は不安定。武器の扱いは素人。脅しは慣れていても、実戦経験はほぼなし。

だが、こちらにも戦う手段はない。


「……わかりました。しかし、今日は売り上げが少ない。明日、用意しましょう」


時間を稼ぐしかない。

拓実がそう言った瞬間——


「……うるさいぞ」


低い、しわがれた声が、雨音に混じって響いた。


男たちが振り返る。

通りの反対側、崩れかけた建物の軒下から、一人の大男が歩み出てきた。


身長は百九十センチ近くあるだろうか。

濡れた灰色の髪に、無精髭。左頬には古い刀傷。

着古したマントの下には、手入れの行き届いた長剣が見える。


「お、おっさん、なんだてめぇは! 俺たちのシマに口出しすんな!」


大男は男たちを無視し、ゆっくりと近づいてきた。

そして、中央の男の眼前で、足を止める。


「昨日、この若者にシチューをおごってもらった。恩がある」


「……は?」


「雨の日に、商売の邪魔をするな。帰れ」


「き、キサマ——!」


男が短剣を抜こうとした、その瞬間。


大男の手が、閃いた。

拳が男の顎を捉え、男は音を立てて泥濘に倒れ込んだ。

わずか一秒の出来事だった。


残りの二人が顔を蒼白にして、後ずさる。


「……次は、剣を抜くぞ」


静かな威圧。

二人は倒れた仲間を引きずり、雨の中へと逃げ去っていった。


* * *


大男は、去っていくチンピラたちを見送り、それから拓実の方を向いた。


「……すまん。余計なことをしただろうか」


「いいえ。助かりました。……あなたは、昨日の」


昨日の夕方、雨に濡れて荷車の前に立っていた老人だ。

金がないと言い、代わりに古い砥石を一つ差し出した。

拓実はそれを受け取り、熱いシチューとパンを出した。


「グリムだ。しがない流れ者の剣士だ」


「タクミです。こちらはリナ。——グリムさん、中へどうぞ。雨に濡れてるでしょう」


グリムは少し迷ってから、荷車に乗り込んだ。


そして、内部を見て、言葉を失った。


「……外から見たとおり、ボロい荷車だと思ったが……なんじゃこりゃ」


「商売道具です。——リナ、タオルを。グリムさん、よかったら湯に浸かってください。ちょうど沸いたところなので」


グリムはきょとんとして、浴場の扉を開けた。

湯気が立ち上る鉄釜の湯船。

石鹸代わりに使える草木灰の袋。


「……金を払っていないのに、風呂まで入れさせていいのか?」


「昨日の砥石、すごくいいものでね。包丁が切れすぎて困ってるくらいだ。その礼ですよ」


嘘だった。

砥石はただの石だったが、グリムのプライドを傷つけないための、拓実なりの気遣いだった。


グリムは黙って頷き、浴場へ消えた。


* * *


三十分後。


湯上がりのグリムに、拓実が料理を出した。

豚肉と根菜のシチュー、焼きたてのパン、そしてハーブティー。


グリムは黙々と、しかし丁寧に食べた。

一滴の汁も、一粒のパン屑も残さなかった。


食べ終わり、グリムが言った。


「……うまかった。命を救われた気分だ」


「気に入ってもらえて光栄です」


「タクミ。あんた、戦えないのか?」


「ええ。剣も魔法も、からっきしです」


「なら、なぜ用心棒を雇わない? あんなチンピラでも、数が集まれば厄介だぞ」


「雇いたいんですが、信頼できる人がいなくて」


グリムは腕組みし、天井を見上げた。

それから、ゆっくりと口を開いた。


「……あんたの馬車、俺が守ろうか」


「え?」


「金は要らん。毎日の食事と、あの風呂、そして——あのハンモックの隣の床で寝かせてくれればそれでいい」


リナがぱっと顔を上げた。


グリムの目は、どこか寂しげだった。

長年、戦場を渡り歩いてきた男の、疲れ切った瞳。

守るべきものを失い、ただ流浪してきた者の目。


拓実は、元・経営者として、そして宿屋の息子として、その目を知っていた。

あの目をした客には、理屈ではなく「居場所」を提供するのだ。


「——お願いします、グリムさん。食事と風呂と寝床は保証します。それに、給料も出しますよ。この宿屋の『用心棒兼設備管理責任者』として」


「……設備管理?」


「荷車の車輪の油差しや、板の補修です。あんたの手を見れば、武器の手入れだけでなく、道具の手入れも上手いでしょう?」


グリムは自分の分厚い、傷だらけの手を見つめ、ふっと——初めて——小さく笑った。


「……わかった。その仕事、受けよう」


* * *


翌朝。


雨は上がり、爽やかな風が吹いていた。


荷車の前で、グリムが車輪の軸に油を差している。

その手際は、驚くほど丁寧で的確だった。


「グリムさん、朝ごはんだよ!」


リナが、焼きたてのパンと、果物のジャムを運んでくる。

リナはもう、グリムを「おじちゃん」と呼んで懐いていた。


拓実は荷車の牽引棒をチェックし、地図を広げた。

ミラベルの町で手入れた、この地方の簡易地図だ。


「ミラベルから西へ五日。商業都市オルステン。……来月、大きな『収穫祭』があるらしい」


「オルステンか。賑やかな町だ。商人も集まる」


グリムがパンを齧りながら言う。


「祭りは、客層が変わる。金回りのいい商人や、遠方からの旅人もいる。——相馬荘の次の営業地としては最適だな」


拓実は地図を折りたたみ、荷車の覆いを上げた。


客室が一つ。風呂が一つ。

用心棒が一人。従業員が一人。


宿屋としての機能は、まだ不完全だ。

だが、確実に、前へ進んでいる。


「リナ、グリムさん。行きますよ」


「「おう!」」


馬はいない。

拓実とグリムが、交互に荷車を引いていくのだ。

重労働だが、二人ならなんとかなる。

(そのうち馬も買おう、と拓実は心の中で計画を立てていた)


ガタゴト、ガタゴト。


一台の荷車が、ミラベルの町を出て、西への街道を進んでいく。


宿屋の息子の、異世界での旅は、まだ始まったばかりだ。


(つづく)

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