ガラクタ通りの荷車と、最初の客
ガラクタ通りは、町の外れにあった。
城壁のすぐ内側、日陰になる狭い通り。
壊れた家具、割れた壺、錆びた農具、そして——
使い物にならなくなった車両たちが、無造作に積み上げられている。
「……ここか」
拓実は呟き、通りの入り口を見渡した。
店はあった。と言っても、露天に近い。
日焼けした老人が、壊れた車輪を膝に載せて修理している。
周囲には荷車や馬車が十台ほど並んでいるが、どれも傾ぎ、車輪が外れ、板が腐りかけていた。
少女——まだ名前も知らない——が、拓実の服の裾を引っ張った。
「おじい、あそこ」
老人が顔を上げた。
皺だらけの顔に、片眼鏡。手には油の染みた布。
「……客か? こんなところに来るような物好きは久しぶりだ」
「荷車を探してるんだが」
「荷車?」
老人は拓実をじろじろと見た。
服装で判断されたのだろう。この世界の人間の体に入った拓実は、粗い麻のシャツに革のズボンという、どこにでもいる若者の姿をしている。金持ちには見えない。
「金はあるのか?」
「銅貨十枚」
果物に二枚使った。残り十枚。
老人は鼻で笑った。
「銅貨十枚で買える荷車は、ここにはない。……と言いたいところだが」
老人は立ち上がり、通りの奥を指差した。
「あれなら、くれてやる」
* * *
「……これは、ひどいな」
拓実は目の前の荷車を見て、率直に言った。
車輪は片方が割れている。
荷台の板は三枚が抜け、残りの板も虫食いだらけ。
覆い布は破れ、骨組みの木材は苔むしている。
牽引用の棒は一本折れ、もう一本もひびが入っている。
荷車というより、荷車の亡骸だった。
「二十年ほど前に農家で使われてたもんだ。持ち主が死んで、引き取り手がいなくなった。処分に困ってたところさ」
老人は腕組みして、面白そうに拓実を見ている。
「銅貨十枚で買えるのはこれだけだ。文句あるか?」
拓実は荷車に手をあてた。
情報が、流れ込む。
——車輪:左後輪、軸受け破損。右後輪、摩耗進行中だが使用可能。車軸は鉄製、錆びているが強度は十分。
——荷台:板の腐食は表面のみ。内部の木繊維は生きている。接合部の釘が緩んでいるが、打ち直せば固定可能。
——骨組み:主材はオークに似た広葉樹。乾燥しきっているが、むしろ強度は増している。苔は表面のみ。
——牽引棒:折損部分は継ぎ木で修復可能。ひびは樹脂充填で対応可能。
——総合判定:修復可能。所要工数、約二日。必要資材、板三枚、釘二十本、車輪一つ、樹脂少量。推定費用、銅貨八枚。
拓実は心の中で息を吐いた。
——いける。
この老人は知らないだろう。
この荷車の骨組みが、どれほど丈夫な木材でできているかを。
表面の腐食の下に、まだ二十年は持つ構造が残っていることを。
「……もらう」
「ほう、本当にいいのか? 動かすだけでも大変だぞ」
「構わない」
拓実は銅貨十枚を老人に渡した。
老人は銅貨を受け取り、首を傾げながら言った。
「……あんた、妙な自信だな。目利きか何かか?」
「元・宿屋の息子です」
「宿屋?」
老人は怪訝な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
* * *
荷車の修理は、想像以上に大変だった。
まず、市場で資材を買う。
板三枚、釘二十本、中古の車輪一つ。
銅貨八枚が、瞬く間に消えた。
残りは二枚。
「……資金繰りの厳しさは、異世界でも変わらないな」
苦笑いしながら、拓実は荷車の傍らに腰を下ろした。
日は傾き始めている。
今日はもう、宿屋を開くのは無理だろう。
まず荷車を直して、明日から営業だ。
「お兄ちゃん、なにすんの?」
少女が、荷車の向こうから顔を覗かせた。
まだ名前も聞いていない。
拓実は手を止め、少女を見た。
「直す」
「……これ?」
「ああ」
「……無理じゃない?」
少女は率直に言った。
子供らしい、飾りのない正直さだった。
「無理じゃない。時間はかかるが」
「……なんで直すの? もっとましなの、買えばいいのに」
「金がない」
「……」
少女は呆れたようにため息をつき、それからぽつりと言った。
「……手伝おうか」
「いいのか?」
「ジャム、美味しかったから」
拓実の目元が、少し緩んだ。
「……礼を言う。じゃあ、あの板を持ってくれ」
* * *
修理は、二日かかった。
一日目。
割れた車輪を外し、中古の車輪に取り替える。
荷台の抜けた板を新しく入れ、緩んだ釘を打ち直す。
牽引棒の折れた部分を、市場で拾った端材で継ぎ木する。
少女は、意外に器用だった。
釘を押さえる、板を支える、工具を渡す——言われなくても、次に何が必要か察して動く。
「お前、手先が器用だな」
「……昔、大工のところで遊んでたから」
「遊んでた?」
少女は答えなかった。
拓実も、それ以上聞かなかった。
二日目。
樹脂でひびを埋め、接合部を補強する。
荷台の表面を磨き、苔を落とす。
覆い布は——仕方ないので、古い毛布で代用した。
夕暮れ時。
荷車は、見違えるほどになっていた。
新しいとは言えない。
だが、しっかりとしている。
車輪はまっすぐ回り、荷台は水平で、牽引棒はしっかりと固定されている。
拓実は荷車に手をあて、構造を確認した。
——修復完了。推定耐久、あと五年。定期メンテナンスで十年以上使用可能。
「……できたな」
少女が、誇らしげに荷車を撫でた。
「……すごい」
「お前も手伝っただろ。二人で作ったんだ」
少女は少し恥ずかしそうに、俯いた。
拓実は荷車の荷台に手をあて、深呼吸した。
これからだ。
* * *
「——【宿屋創生】」
拓実が呟くと、荷車が光に包まれた。
少女が「あっ」と声を上げた。
光は数秒で収まり、荷車は——変貌していた。
外見は、ほぼ変わらない。
古い荷車が、そこにある。
だが、荷台の覆い布をめくると——
「……うわ」
少女が、目を見開いた。
荷台の内部は、外見からは想像できない広さになっていた。
奥行き三メートル、幅二メートル。
壁は木張りで、小さな窓が二つ。
床は磨かれた板で、中央に折りたたみ式のテーブルと、簡素な椅子が四つ。
そして奥には——
「調理場……?」
スキルが与えた知識によれば、これは【宿屋創生】の最小構成だった。
——調理場:簡素な炉、調理台、包丁三本、鍋二つ、皿六枚。
——食事処:テーブル一つ、椅子四つ。
——客室:なし(規模不足)。
——浴場:なし(規模不足)。
拓実は苦笑した。
「……宿屋と言うには、まだ足りないな」
客室も浴場もない。
これでは「移動調理場」だ。
だが——
「……でも、ここから始めればいい」
祖父の宿も、最初は小屋だった。
戦争で焼け出された祖父が、廃材を集めて建てた小さな小屋。
そこから、三代かけて旅館にした。
最初から完璧である必要はない。
一つずつ、足していけばいい。
少女が、調理場の包丁を手に取った。
「……これ、いい包丁」
「スキルがくれたものだ。切れ味は保証する」
「……へえ」
少女は包丁を構え、調理台の上にあった果物——昨日の残り——を器用に切り始めた。
手際がいい。
昨日のジャム作りを見て、覚えただけでこの手際か。
「お前、才能あるな」
「……ほんと?」
少女の目が、少し輝いた。
拓実はその目を見て、決めた。
「なあ」
「ん?」
「お前、名前はあるのか?」
少女は手を止め、少し迷ってから答えた。
「……リナ」
「リナ、か。いい名前だな」
「……お兄ちゃんは?」
「タクミだ」
「タクミ」
リナは名前を咀嚼するように呟き、それから小さく笑った。
「……よろしく、タクミ」
「ああ、よろしく」
* * *
その夜、拓実は荷車の中で料理を作った。
材料は少ない。
市場で買った穀物粉、干し肉、野草、そして果物。
だが、スキルが与えた知識は、限られた材料で最善の料理を作る方法を教えてくれる。
穀物粉を練り、薄く伸ばし、炉で焼く。
干し肉を細かく刻み、野草と炒めて餡を作る。
果物を薄く切り、蜂蜜——これは市場で安く手に入った——で和える。
三十分後、テーブルの上には簡素だが、香りのよい料理が並んでいた。
リナは椅子に座り、目を輝かせている。
「……食べていいの?」
「ああ。最初の客だ」
「……最初の客?」
「この宿屋の、最初の客はお前だ」
リナはきょとんとして、それから小さく笑った。
「……いただきます」
一口食べて、目を閉じた。
「……おいしい」
その言葉は、小さかった。
だが、拓実の胸に、じんと響いた。
——これでいい。
——これが、宿屋だ。
建物はなくとも、客室はなくとも、浴場はなくとも。
美味しい料理と、安らげる場所と、「おいしい」と言ってくれる人がいれば、そこは宿屋だ。
拓実も椅子に座り、自分の分を食べた。
美味しかった。
自分で作っておかしいが、本当に美味しかった。
——スキルのおかげか。それとも、誰かと食べるからか。
窓の外には、異世界の夜空が広がっている。
見知らぬ星座。見知らぬ月。
だが、この荷車の中は——暖かかった。
* * *
翌朝。
拓実は荷車の前で、簡素な看板を立てた。
宿屋の看板——というより、木片に炭で書いた張り紙だ。
【旅の宿 相馬荘】
お食事 銅貨三枚
お飲み物 銅貨一枚
宿屋、と書いておきながら客室はない。
食事処、と書くべきだろう。
だが、拓実には譲れないものがあった。
——相馬荘。
祖父が名付けた宿の名前。
自分が潰した宿の名前。
今度こそ、この名前に恥じない宿を作る。
それが、拓実の誓いだった。
リナが、看板の横に花を飾った。
道端に咲いていた野花を、摘んできたらしい。
「……なにこれ」
「飾り。花があると、人は寄ってくるの」
「……どこで覚えた?」
「……昔、お母さんがやってた」
リナはそれ以上言わなかった。
拓実も、聞かなかった。
* * *
最初の客は、昼前に来た。
荷馬車を引く商人だった。
ミラベルを通過する隊商の一員で、隊列から少し遅れて、腹が減っていたらしい。
「……なんだ、ここは? こんなところに店があったか?」
「昨日開いたばかりだ。食事を出している」
「……銅貨三枚? 安いな。本当に食えるのか?」
「保証する」
商人は怪訝そうだったが、腹が減っていたのか、椅子に座った。
拓実は調理場に入り、昨日と同じ料理を作った。
穀物のパン、干し肉の餡かけ、果物の蜂蜜和え。
商人は一口食べて、眉を上げた。
「……これは」
それから黙々と食べ続けた。
完食して、商人は言った。
「……銅貨三枚でこれは安すぎる。もう一枚出すから、あの餡の作り方、教えてくれんか?」
「……レシピは企業秘密です」
「企業? なんだそれは」
拓実は笑って誤魔化した。
商人は満足そうに去り、リナが目を輝かせて言った。
「タクミ、お金もらえた!」
「ああ。最初の売上だ」
銅貨四枚。
微々たる額だが、確かな第一歩だった。
* * *
午後、三人の客が来た。
夕方には、五人。
噂は、意外と早く広がる。
「あの荷車の料理が美味いらしい」
「銅貨三枚で腹いっぱい食えるだと」
「子供が花を飾ってる、変な宿屋がある」
夕暮れ時、拓実は調理場で汗を流しながら、十人目の客の料理を作っていた。
リナは皿を運び、空いた皿を下げ、客に水を配る。
十歳の子供とは思えない働きぶりだった。
「リナ、無理するな。休め」
「……大丈夫。楽しいから」
リナは笑い、また走っていった。
拓実はその背中を見て、少しだけ胸が痛んだ。
——この子は、今までこんな風に働いたことがなかったのかもしれない。
——あるいは、働かざるを得なかったのかもしれない。
わからないことだらけだ。
だが、一つだけわかることがある。
——この子は、ここにいるべき子だ。
* * *
夜。
客が去り、荷車の覆いを下ろし、拓実とリナはテーブルに向き合っていた。
今日の売上は、銅貨三十二枚。
材料費を引いても、二十枚近くが残る。
「……儲かったな」
「うん!」
リナは目を輝かせて、銅貨の山を見ている。
拓実は銅貨を数えながら、考えた。
この調子なら、数日で客室を増設できるかもしれない。
荷車の拡張には、材料と金と時間が必要だが——
「タクミ」
「ん?」
「……明日も、やる?」
「ああ。明日もやる。明後も、その先も」
「……ずっと?」
拓実はリナを見た。
この子の目が、不安そうに揺れている。
——この子は、明日が来ることを信じられないのかもしれない。
——今日が、明日には消えると思っているのかもしれない。
拓実はゆっくりと、だが確かに言った。
「ずっとだ。——リナ、お前を雇う」
「……え?」
「給料は……まだ大して出せないが、食事と寝床は保証する。この荷車で一緒に働かないか」
リナの目が、見開かれた。
それから、下唇を噛み、俯き——
声を上げて泣いた。
昨日も泣いた。
だが昨日は、美味しすぎて泣いた。
今日は——理由は、拓実にもわからない。
あるいは、リナ自身にもわからないのかもしれない。
拓実は何も言わず、ただ黙って、リナの頭に手を置いた。
祖父が、昔、自分にしたように。
——大丈夫だ。
——ここは、お前の家だ。
荷車の中で、少女の嗚咽が響いた。
窓の外では、異世界の月が、静かに光っていた。
——相馬荘、開業初日。
客数、十一名。
売上、銅貨三十二枚。
従業員、二名。
——だが、この宿屋の旅は、まだ始まったばかりだ。
(つづく)




