死んだら異世界だった。持ってるスキルは【宿屋創生】らしい
最後の記憶は、帳簿の数字だった。
相馬拓実、二十八歳。
京都の奥座敷で三代続いた旅館「相馬荘」の、最後の支配人。
祖父が建て、父が守り、自分が潰した宿。
コロナで客足が遠のき、修繕費が嵩み、借入金の返済が滞り、最後は銀行に頭を下げて回る毎日。従業員には先に辞めてもらった。女将として働いていた母には、実家で休むよう伝えた。
自分だけが残り、誰もいなくなった旅館の帳場で、夜中の三時まで数字と睨めっこしていた。
——どうやっても、足りない。
それが最後の思考だったと思う。
胸の奥がきゅっと締め付けられて、視界が白くなって、それから——
なにも、ない。
* * *
目が覚めると、空が変だった。
色が違う。日本の空ではない。もう少しだけ青が濃くて、雲の形がやたらとはっきりしている。絵の具を盛ったみたいな、立体感のある雲。
拓実は仰向けに寝転がったまま、ぼんやりとそれを眺めた。
体が軽い。
肩こりがない。腰痛がない。慢性的な寝不足の鈍痛がない。
……おかしい。
起き上がろうとして、手が視界に入った。
自分の手ではなかった。
いや、自分の手ではあるのだが——若い。指が細く、関節にしみついたペンだこが消えている。二十歳前後の、まだ何も刻まれていない手。
「……え」
声が、違う。
低いが、自分の声ではない。喉の奥がすっきりしていて、長年の喫煙で掠れたはずの声色が、透明に近い。
拓実はゆっくりと体を起こした。
そこは、石畳の路地裏だった。
両脇には木造と石造りが入り混じった建物。窓には見覚えのない意匠の格子。軒先には干物ではなく、紫色の実が吊るされている。
通りを人が歩く。
麻のような粗い布の服。革の腰袋。荷車を引く老爺。剣を下げた——
——剣?
拓実の思考が、そこで止まった。
剣を下げた女が、通り過ぎていく。金属の鎧を半身に纏い、腰には間違いなく実戦用の長剣。ファンタジー映画のエキストラにしては、汚れ方が本物すぎる。
「……これは」
立ち上がろうとして、足元によろけた。
平衡感覚がおかしい。重心の位置が違う。この体は、自分の体より背が低くて、軽い。
壁に手をついた瞬間——
情報が、流れ込んできた。
* * *
それは視覚ではなかった。
触覚でもなかった。
強いて言えば、「理解」だった。
手のひらを通じて、壁の「構造」がわかった。
この壁は石積みで、内側に木の骨組みがあり、接合部は金属ではなく某种の樹脂で固められている。左下の石に微細な亀裂が三本。あと二年程度で、この壁は崩れる——
「……は?」
手を離した。
情報が消えた。
もう一度、壁に手をあてる。
——石積み、内側木骨、樹脂接合。左下亀裂三本。推定耐久残二年。
心臓が早鐘を打った。
拓実は慌てて、地面に手を押し当てた。
情報が、奔流のように流れ込む。
石畳の下、三十センチのところに古い水路。幅四十センチ。水は流れていない。さらにその下、岩盤。組成は花崗岩に似ているが、石英の含有量が異常に多い。——
「やめ、やめっ」
手を引っ込めた。
頭が割れそうだった。情報が溢れる。処理しきれない。
深呼吸。一つ、二つ、三つ。
元・旅館の支配人だった男は、こういう時にどうするか知っている。
まず、落ち着け。情報を整理しろ。パニックは後回し。
拓実は路地裏の隅に座り込み、自分が知っていることを棚卸しした。
一、自分はどうやら死んだらしい。
二、見知らぬ場所にいる。
三、見知らぬ体に入っている。
四、物に触れると、その「構造」がわかる。
五、理由は、わからない。
……いや、一つだけ、わかることがあった。
目が覚めた瞬間から、頭の片隅に小さな光のようなものがある。
意識を向けると、それは言葉になった。
【宿屋創生】
……なにそれ。
意識をさらに集中させると、説明が浮かび上がった。まるで、忘れていたことを思い出すように。
——対象となる車両(馬車、荷車、屋形船など)に触れ、内部空間を「宿屋」として再構成する。
——構成内容:調理場、食事処、客室、浴場。
——規模は対象車両の大きさに依存。
——維持には使用者の体力を消費。
——展開中は車両を移動不可。
拓実は三度読み直した。
宿屋。
宿屋だと?
チートスキルとか、そういうやつじゃないのか。勇者になるとか、魔王を倒せとか、そういう話じゃないのか。
——宿屋。
……いや、待て。
拓実は自分の手を眺めた。
見知らぬ若い手。
そして、頭に浮かんだ一つの名前。
相馬荘。
祖父が戦争から帰ってきて、焼け跡に建てた小さな宿。
父がバブルの波に飲まれずに守った宿。
そして自分が、潰してしまった宿。
「旅人に安らぎを」。
それが相馬荘の家訓だった。
祖父が口癖のように言っていた言葉。
拓実の目から、なぜか涙がこぼれた。
悔しかった。
情けなかった。
守れなかったことが、何より辛かった。
——だが。
拓実は涙を拭い、立ち上がった。
見知らぬ世界。見知らぬ体。そして「宿屋を作れ」というよくわからない力。
状況は最悪だ。金なし、ツテなし、身分証なしかもしれない。
でも——
「……宿屋、やるか」
声に出してみたら、不思議と落ち着いていた。
今度こそ、守ってみせる。
誰かの安らぎになる場所を、今度こそ。
まず必要なのは、車両だ。
馬車か荷車。とにかく、宿屋の「器」になるもの。
拓実は路地裏を出て、初めての異世界の通りを歩き始めた。
* * *
町は、思ったより大きかった。
石造りの建物が三階建てで並び、通りには露天商が軒を連ねている。
言葉は——なぜか通じた。頭の中で自動翻訳されているのか、初めからこの体の言語知識があるのか、わからない。
わからないことだらけだが、今は一つずつだ。
拓実は市場を歩き、情報を集めた。
この町の名はミラベル。
王都から東へ馬車で五日の、農村地帯の中心地。
人口は数千程度。
宿屋は三軒あるが、いずれも商人向けで、旅行者向けの安い宿は不足している。
そして——
拓実は馬具店の前で行き過ぎる荷車を眺めながら、自分の所持金を確認した。
腰の小さな袋に入っていたのは、銅貨十二枚。
この世界の貨幣感覚はまだわからないが、市場で見た限り、パン一個が銅貨一枚。貧民向けの宿が銅貨五枚。
銅貨十二枚で馬車が買えるはずがない。
「……はは」
苦笑いが出た。
前世でも、資金繰りで頭を抱えていた。
生まれ変わっても、金なしからスタートか。
だが、拓実は元・経営者だ。
金がない時にどうするかは、骨の髄まで知っている。
——まず、売るものを見つけろ。
——なければ、作れ。
——それもなければ、人の役に立て。金は後からついてくる。
祖父の教えだった。
拓実 marketを歩きながら、露店の品定めをした。
そして、一つのものに目をつけた。
果物だ。
この世界の果物は、日本とは違う。色も形も違う。
だが——拓実には「わかる」ことがあった。
【宿屋創生】のスキルは、宿屋を作るだけの力ではない。
調理場を作る力、つまり「料理人としての知識と技術」も、付随能力として備わっているようなのだ。
市場の果物を手に取ると、情報が流れ込む。
——酸味強め。糖分高め。加熱により香りが立つ。皮に微かな苦味。煮詰めればジャムに最適。
——こちらは生食向き。繊維質が多く、薄く切れば食感良し。塩との相性良。
拓実は銅貨二枚で、傷物の果物をまとめて買った。
そして、宿屋のない路地裏の空き地で、地面に座り込んだ。
調理器具はない。
だが、スキルがある。
地面に手をあて、意識を集中する。
【宿屋創生——調理場、限定展開】
地面が、光った。
石畳の一部がせり上がり、簡素な調理台になった。
ナイフが一本。まな板が一枚。火を起こすための小さな炉。
——完全な宿屋を作らなくても、調理場だけなら、体力消費も少ないようだ。
拓実は果物を手に取り、ナイフを握った。
手は——動いた。
自分の手ではない、この世界の若い手。
だが、スキルが与えた料理の知識が、指先まで導いている。
皮を剥き、芯を除き、薄く切る。
炉に火を起こし、果物を煮詰める。
市場で拾った野草を刻み、アクセントに加える。
三十分後。
調理台の上には、見覚えのない果物で作ったジャムと、果物のコンポートが並んでいた。
香りが、路地に漂う。
拓実自身も驚いていた。
こんなに簡単に、こんなによい香りのものが作れるのか。
——これが、スキルの力か。
「……お兄ちゃん、なにそれ」
声がした。
拓実が顔を上げると、路地の入り口に、女の子が立っていた。
十歳くらいだろうか。痩せている。薄汚れた麻の服。裸足。
だが、目は——ひどく真っ直ぐで、調理台の上の料理を、飢えた獣のような瞳で見つめていた。
拓実は一瞬だけ、考えた。
この世界のルールを知らない。
この子の素性も知らない。
関われば、麻烦——いや、面倒が起きるかもしれない。
——だが。
「……食べるか?」
口にしていた。
祖父も、父も、同じことをしていた。
旅館の玄関先に、旅の途中で倒れた人がいれば、まず食わせる。
理由は後。
女の子は警戒した様子だったが、ジャムの香りに負けたのか、ゆっくりと近づいてきた。
拓実は木のスプーン——調理場に付属していた——で、ジャムをすくい、果物の切れ端につけて差し出した。
女の子が、一口。
目が、見開かれた。
「……あまっ」
そして、女の子は泣いた。
声を上げてではなく、ただ黙々と、涙をこぼしながら食べた。
拓実は何も聞かなかった。
ただ、調理台の上に並んだ果物を、一つずつ調理して、差し出した。
やがて女の子は満腹になったのか、調理台の端に座り込み、小さく呟いた。
「……お礼、ない」
「いらない」
「……なんで」
拓実は少し考えて、答えた。
「宿屋の息子はな、お腹を空かせた人を放っておけないんだよ」
女の子はきょとんとして、それから小さく笑った。
その笑顔を見て、拓実は思った。
——ああ、これでいい。
金なし、ツテなし、宿なし。
だが、料理する手がある。
そして、食べてくれる人がいる。
宿屋は、建物じゃない。
誰かに安らぎを届けられたら、そこが宿屋だ。
拓実は立ち上がり、市場の方角を見た。
まず必要なのは、馬車だ。
金がないなら、稼げばいい。
稼ぐ手段は、もう目の前にある。
「なあ、この町で、壊れた荷車とか、安く売ってるところ、知らないか?」
女の子は首を傾げ、それからぽつりと言った。
「……ガラクタ通りなら、あるよ」
「案内してくれ。——お礼に、また料理を作る」
女の子の目が、少しだけ輝いた。
こうして、元・旅館支配人の異世界生活は、一台の壊れた荷車と、一人の少女との出会いから始まった。
——宿屋創生、起動準備完了。
(つづく)




