2-6
その夜――店はとっくに閉店時間を過ぎ、店主も裏手にある自宅に帰って久しいほど深い夜。
そんな、都市で生活するおおよその住民が眠りについた頃――魔女らしさを微塵も感じさせない、ごく一般的なその民家から、彼女は姿を現した。黒マントを羽織り、いつも通りの白い服と黒のタイトスカート姿だが、当然ながら本屋のエプロンは身に付けていない。
ただでさえ人通りのなくなる時間に、まして怠けることをなにより好むネイジが外出することはなおさら珍しかった。
彼女は戸締りもそこそこに、どこかおぼつかない足取りで、店に向かうでもなく裏路地へと歩いていく。ふらふらとして、上から糸で吊るされているかのような頼りない歩みだが、なんらかの目的地があるのは明白だった。
細く真っ暗な路地で、曲がり角も分かれ道も一切の迷いなく進んでいく。ただし表通りに向かう様子はなく、ひたすらに都市の最奥のみを選択していた。
やがて……行き着いたのは、単なる突き当たりだった。ここが栄えていた頃にはゴミ捨て場だったのか、大きなゴミ箱が一つ置かれているだけの暗澹たる裏路地の深部。
そこに、男が一人立っていた。辛うじて届く月明かりに照らされながら、長い金髪を夜風になびかせ、吟遊詩人じみた容姿と格好で、飄々とした、けれど今は邪悪を含む表情を浮かべるルード。
「待っていたよ。僕への愛に目覚めてくれたようだね――ネイジ」
「…………」
彼の言葉に、魔女はなんの反応も示さなかった。
暗闇に溶け込むような黒い瞳を揺らすこともなく、ただじっと男の方を見つめている。そこには今までルードに対して見せ続けていた敵意も殺意も悪意も存在しない。
虚ろで、明らかに異常な状態であることは疑いようもなかった。
男は怪しい雰囲気で、そんな彼女の異変を全くの当然として受け入れているように気にした様子もなく、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「ついに僕の想いが結ばれる時が来たんだ。長かったけど、達成する瞬間というのは意外に呆気ないものだね」
そう言いながら、艶かしくネイジに向かって片手を伸ばして――
「ちょっと待ったあああああ!」
それを遮るべく。ゴミ箱の陰から、クエストは突如として闇の中へ飛び出した。
店主と不埒な男との間に颯爽と割って入る。ルードの手はまだ遠かったが、先んじてそれを振り払うように腕を薙いで。
「これ以上は行かせない」
「おや? 君は、あの店にいたバイトくんだったかな」
ルードは突然の来訪者に、けれどさほど驚いている様子もなかった。しかしそれでも警戒しているのか、歩み寄る足を止める。
彼がなんらかの行動を起こしていたのは明白だった。だからこそ、こうして危機に備えて店主を見張り、尾行してきたのだ。
クエストは身を屈めた戦闘態勢を取りながら、鋭くルードを睨み上げた。なんの焦りも危機感もなく、ただ意外だったというだけの表情を浮かべる男に、怒りを込めて追及する。
「あんた、店長になにをした」
「そんなことをわざわざ聞きに来たのかい?」
ルードは嗤った。相手を見下す冷たい瞳で、文字通りクエストを見下ろしながら。
「ふふ、彼女はとても警戒心が強くてね。僕がどんなに支配の魔法をかけようとしても、すぐに感付いて回避してしまう。おかげで僕の目論見は明るみに出て、破門されてしまったほどさ」
その話には覚えがあった。店主は過去を聞かれた際、この男の執拗な企みについて明かしている。そのためクエストも、ルードの病的な執着心に気味悪さを覚えるようになっていた。
彼はまさしく病に犯された目つきで、熱っぽく勝ち誇った笑みを浮かべる。
「だけど、そんな彼女にも弱点がある。君も知っているだろう――お金さ」
出てきたのは実に俗っぽい、周囲に漂う暗闇の不気味さと男のまとう狂気とは全く不釣合いの言葉だったが、それでもクエストはあっさりと納得出来た。
店主が金に卑しく下品であることは秘密でもなんでもない。魔法使いに弟子入りした理由ですら金儲けのためなのだから、同じく弟子だったルードがそれを知らないはずもないだろう。
「彼女はお金が手に入ると思うと隙が出来る。しかも僕を落ち込ませたことで優越感に浸っていた。それもまた弱点と言えるかな」
「そこを利用して、魔法をかけたのか」
優越感を愚弄しながら、自らそれに浸るルードに対し、クエストは核心を問いかけた。
隠す必要もないと、彼が頷く。手にしている鮮やかな、しかし暗闇の中では毒々しい薄気味悪い色を醸し出す、彼直筆という本を見せつけながら。
「これは魔道書さ。だけど少し特殊でね――発動の起因とするのは、この本の売買なんだよ」
「売買? ……そうか、あの時」
彼はクエストよりも遥かに、ネイジについて熟知していた。それはまさしく病的な執着心の成せるものかもしれない。
彼女の性格、性質、行動方針、さらには彼自身を忌み嫌っていることまで全て考慮して、この卑しくも奸智に長ける魔本堂の店主が隙を見せるように操り、狙い撃ったということか。
「つまり本と一緒に、相手ごと買ってしまうわけさ」
得意げにそう締めくくる、ルード。
クエストは彼の言葉に、もはや呆れるほかになかったが。
「なんて直接的に回りくどいことを……」
しかしそれ自体、彼の操る精神支配の魔法そのものだと言えるかもしれない。
ネイジはこのルードによって行動を暗に示唆、あるいは限定され、その上を歩き続けた。つまりは彼を嫌い、憎むようになった過去からの長い年月をかけて、この狂った好色家に操られていたと言い換えられる。
その事実に恐ろしい寒気を覚えながら、クエストは僅かにたじろいだ。なにが彼をそうまで執着させるのか――
そう思ったのはひょっとしたら、ほんの好奇心だったかもしれないが。
「どうして、店長なんだ?」
当人であるネイジを庇うようにしながら、あまりにも無礼ではあるが、クエストはどうしても尋ねざるを得なかった。
ルードはこの店主の卑しく下品な本質と、自分への計り知れない嫌悪感を利用した。だが、その悪辣な内面を知り尽くしてまで、彼女に固執する必要があったのか、と。
……本人が意識を喪失していなければ、恐らく今頃はなんらかの魔法によって地獄の責め苦を受けるはめになっていただろうが。
「ふふ、わかっていないね」
ルードは目の前で戦闘的な意志を見せ続ける旅人然とした青年に向かって、無知を見下し、馬鹿にするため嘲笑した。そして反対に自分の崇高さを見せ付けるように、わずかな月明かりの中に自らの金髪をなびかせる。陰気な暗闇を見せるこの裏路地の中で、それはさして美しく輝くこともなかったが、それでも彼は己に陶酔した語り口調で言う。
「人は常に、自分に無いものを持った相手に惹かれるんだ。完璧な者ほど完璧でない、醜悪な面を持った相手に惹かれてしまう」
芝居がかった仕草で、クエストが背に隠そうとしているネイジを手で示す。
「確かに彼女は、短気で短慮で短絡的。怠惰で傲慢で強欲だ。だけど――」
そしてルードは若草色のマントを、魔王かなにかのような大仰さで翻した。微かな明かりが全て自分に向けられていると言わんばかりに両腕を広げて、それを浴びながら。
「だからこそ僕という完璧な男は、そんな醜悪さばかりを内包した彼女に惹かれてしまうんだ」
「…………一番酷いのはこいつだった」
様々な意味を込めて心底そう呟く。最も大きい感情は単純に、呆れだったが。
「君のような男には生涯わからないだろうね。だけど僕の主張は理解してもらえただろう? さあ、ネイジを返してもらうよ」
気が急きながらも逸る気持ちを抑えているかのような調子で、彼はそう言いながらこちらへにじり寄ってきた。執拗に追い求め続けた望みのものが目の前にあり、ほんの小さな障害を取り除けば手に入る――その現実に瞳の色を異様な達成感に染め、病的で凄絶な笑みを浮かべる。
一歩、二歩と彼がゆっくりと近付いてくるのを、クエストは身構えたまま見据え続けた。喪心のネイジを庇うように背に隠しながら――しかしその実、こっそりと自分の背中に腕を回す。
ルードはそれに全く気付いていないようだった。おぞましい薄ピンク色の魔道書を誇らしげに抱えながら、彼は一心にネイジだけを見つめて……
「なにが返せだ。元々、店長はお前のものなんかじゃない!」
声を上げたのは、ルードが手を伸ばせば届きそうな距離にまでやって来た時だった。
同時に――背に回していた腕を、彼に向かって振り回す。打撃のためではない。クエストは手にしていたものを、狂喜する好色家に投げつけていた。
そして、叫ぶ。
「魔道書よ、己がままに食らい尽くせ!」
「これは……!?」
ルードが驚愕する。
彼の眼前に放られ、空気の抵抗を受けて口を開けたのは魔道書。店主が敵対書店を壊滅させるのに用いた、『書食書』。この力を起動させる方法は、まさしくその時に学び取っていた。
そしてそれは正しく機能したようで、クエスト言葉に呼応して、魔道書が本から化け物へと変貌する。
開いた頁はおぞましい牙を生やし、餓えに狂って涎を撒き散らしながら、手近な餌――ルードの持つ魔道書へと襲い掛かる。
「根源がなくなれば、魔法だって解けるはずだ!」
全ては一瞬だった。怪物は大口を開けて薄ピンクの表紙にかぶりつき、その本をルードの手ごと完全に口腔内へと消し去った。




