2-7
男は本を手放すことも出来ず、ただ驚愕としていた。
そのうちに『書食書』は役目を果たし、また食らう餌が尽きたことを悟ってか、恐ろしい邪悪な気配を消し、単なる古書の外見に戻ってぽとりと地面に落ちた。
辺りが再び静寂に返る。全てはそれで終わるはずだった。精神支配の魔道書は消え、ネイジも正気を取り戻し、あとは恐らく彼女が怒り狂ってルードを凄惨な目に遭わせるだけだろうと。
しかし――驚愕していた彼の顔が、芝居を終えたようにぱっと切り替わった。優越感に浸る余裕の笑みへと。そして代わりに、クエストが絶望に目を見開く。
ルードの手には、未だにあの魔道書が存在していた。
「そんな……起動方法が間違っていたのか? それとも、魔道書同士じゃダメってことか!?」
「いいや、そのどちらでもないよ」
混乱するクエストに、男は余裕で首を横に振った。
手にした精神支配の魔道書を、クエストに見せ付けながら。
「ネイジのことだから、なにか仕掛けてくるんじゃないかと思って用意しておいたんだけど――まさかこういう形で役に立つとは思わなかったよ」
そう言って留め金を外し、本を開いてみせる。しかし――
正確に言えば、それは本ではなかった。
薄ピンクの表紙が開くと、中から全く同じ形状をした、一回り小さな魔道書が現れる。今まで見えていた外観は、それと見せかけただけの、木製の箱だったらしい。
「本でないものに密閉されていれば、『書食書』は力を行使出来ない。でなければ、世にある全ての書物を食い尽くしてしまう――僕も同じ師匠の下にいたんだから、ネイジがそれを持っていることも、その対策も、どちらも知っていて当然だろう?」
「また直接的に回りくどいことを……」
思えば、彼はこういうった言動を取るようだった。相手の行動を見越して、それを妙な形で一歩飛び越える――対抗策を繰り出させてから、あえてそれに一度乗り、優越感を与えてから突き落とす。実に悪趣味な性質の持ち主だと言えるだろう。店主が忌み嫌うのも頷ける。彼女もさほど趣味がいいとは言いがたいが。
なんにせよ、ルードは希望を打ち砕き、望みまでも断ち切ったことを証明するように、見せ付けながら木箱を閉じた。そして愕然とし、次の行動が浮かばないまま身構えるだけのクエストに向かって告げる。
「さあ、そろそろ終わりにしようか。もう君も抵抗の手段を失ったようだしね」
「こうなったら、本屋仕込みの肉弾戦で――!」
やぶれかぶれで拳を握り固め、クエストはルードに対して殴り合いを挑もうとして地面を蹴った。
かがみ込んでいた身体を跳ねさせ、男の顔面めがけて飛びかかる。腰をねじり振りかぶった拳を、未だ余裕のままなんの危機感もなく、全ての戦いを終えた瞳で見据えてくるルードの顔に振り下ろそうとして――
直後、振りかぶっていた腕がなにかに絡め取られ、すさまじい力で背後へと引き寄せられた。
地面から離れたクエストの身体は抵抗することも出来ず、空中で転び、異常な重力によって再び地面に引きずり下ろされる。
腕を取られて制御も受身も取れるはずもなく、思い切り背中を打ちつけ、一瞬視界が白む。瞬きのように世界が明滅して、それでも辛うじて意識を保つと、クエストはなにが起きたのかを理解しようと倒れたまま周囲を見回した。
なにか特別なものが見えたわけではない。そこにいるのは先ほどよりも嘲笑の色を濃くしながら見下ろしてくる忌々しい好色家と、自我を喪失したまま虚ろな瞳で、やはり同じく見下ろしているネイジだけ。そこに新たなおぞましい怪物や、彼らと同種の邪悪な魔法使いが出現したわけではない。
しかし違いはあった。今まで己を失い、なんらの動きも見せなかったネイジが、明確にこちらを見下ろしている。そして、彼女の手にはなにかが掴まれていた。
それがなんであるかを理解して、クエストは慌てて飛び起きる――というより、立ち上がらされる形になった。肩が抜けるほどに、ネイジが掴んでいるクエストの腕を引き上げたのだ。
「店長、なにを――ルード!」
誰が根源であるかはすぐに理解した。ルードへ向かって猛り、激しい怒りの視線を向ける。
彼はクエストの感情を、そもそも予測していたように頷いた。そして額を抱えて愉悦に笑う。
「まさか僕が、ネイジを利用しないとでも思っていたのかい?」
「この……!」
腕を振りほどこうとするが、上手くいかない。単純な腕力というよりも、相手が見知った店主だからだろうか。その条件下でもどうにかしようと苦心してもがくが……ルードは当然、それらが解決されるまでの時間を待つはずもなかった。
可能な限り穏便な抵抗を試みるクエストを嘲りながら、彼が告げる。ネイジに向かって。
「さあ、君に僕以外の男の存在は必要ないだろう? 忌むべき者は打ち倒さなければいけない」
操られた魔女は、まさしくその主が望むままに応じた。
彼女は掴んでいる腕を素早く引き寄せると、思わずよろめくクエストの腹に拳を叩き込んだ。
唾液を吐き出しながら身体を折り曲げて苦悶する。その隙に、腕を強引に背中の方へ回し、そのまま覆いかぶさるように体重をかけて押し倒す。瞬く間に、クエストは腕をひねり上げられたながら、うつ伏せに組み伏せられる形になった。
激痛と呼吸困難の中、それでも残る片方の手でなんとか起き上がり、抵抗を試みようとするが――
ずどんっ、と。いつの間にかクエストの背の上で立ち上がっていたネイジが、背中を思い切り踏み付けた。
悲鳴を上げて、身悶えようとするがそれも叶わない。魔法使いは自ら雇ったバイトを足の下に敷きながら、しかしなんの感情もなくそれが必死にあがこうとするのを見下ろしていた。いつもの愉悦も嘲りもない。それがあれば幾分かはマシだったかもしれないが……今それらの感情を浮かべているのは、そんな二人を見据える性根も気色も悪い好色家だった。
クエストは無力である口惜しさに奥歯を噛み締め――しかしそのおかげで、舌を噛まずに済んだ。背に立つ店主が、彼を改めて思い切り踏み付けたのだ。
背中から突き刺さる痛みに一瞬呼吸が止まり、視界が明滅する。しかしさらに、彼女はそれらが完全に回復するのを待つ情もなく、次々に足の裏をクエストへと叩き込んできた。
現状を、クエストは妙な冷静さで悟る。この白んできた意識が遠からず途絶えることになるだろうと。
そしてその推測は、嬉しくもないが的中した。
やがてルードが指示を出して攻撃をやめさせた頃、クエストはもはや思考もままならない状態で地面にうつ伏せるしかなかった。もはや解放されている両腕も一切動かすことが出来ない。
「待て、ルード……店長は……」
恫喝のつもりで上げた声は、しかしただの囁きにしかならなかった。それすら正しく口の外へ出たのかはわからない。自分の耳でさえ、おぼろげにしか聞き取っていない。
ルードの反応を確かめることも出来なかった。目は霞み、地面から上へと視線を持ち上げることすら叶わなかったのだから。
しかし、抵抗と怒りの意志だけは尽きていなかったのかもしれない。
だからこそ。去り際、ルードが最後に残した言葉だけは妙に大きく耳の中に響いたのだろう。
「どうしてもネイジを取り戻したいなら、この場所で待っているよ」
ぼやけた視界に小さな紙のような物が舞い降りて――クエストの意識はそこで途絶えた。




